鴨着く島

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長崎は米国の鬼門

2023-05-14 15:39:46 | 専守防衛力を有する永世中立国
G7(先進7か国首脳会議)の前座(?)である財務・外交・農業など各国のそれぞれの大臣たちが来日し、日本各地で会議を行った(近県では宮崎市で農相会議が開かれている)。

あとは広島での最高首脳会議を残すのみとなった。広島に首脳を招いて岸田首相がどんな「非核の訴え」を出すか見ものである。

ところで長崎では各国の保健相による会議が開催されている。おそらく新型コロナに関する対策などが中心に話し合われたと思うが、参加した保健相たちは揃って長崎平和祈念公園に赴き、原爆慰霊像の前に花束を手向けたという。

この中にアメリカからの保健相がいただろうと思われるが、詳細は知らされていない。

アメリカの政府要人クラスで長崎を訪れたのは、約10年前にオバマ大統領政権下で米国日本大使になったあのケネディの娘キャロライン・ケネディだけである。毎年行われる8月9日の長崎原爆慰霊の日の式典にアメリカ側からは領事館員クラスの参列はあったが、政府クラスではキャロライン・ケネディが最初にして最後だったと思う。

7年前の5月にバラク・オバマ氏がアメリカ大統領として初めて広島の地を訪れ、慰霊碑の前で献花したのは記憶に新しいが、そのオバマ氏にしてからが長崎は訪問していない。

オバマ大統領はヘリコプターで広島まで来ているが、それなら長崎まではあと1時間程度のフライトだったにもかかわらずだ。

何故だろうか?

そこにはアメリカなりの理由がある。理由はたった一つである。

一般市民が暮らすその頭上に原爆(長崎の場合はプルトニウム型)を落とすということはそもそも戦時国際法上でも認められることではないのだが、長崎の場合、真下(爆心)の近くに「浦上天主堂」があり、そこでは当時朝のミサが行われており、信徒の多数が犠牲になったからである。

アメリカには宗教的な国教というものはないが、大統領就任式で新大統領が片手を聖書の上に載せ、もう一方の片手を挙げて「信任に恥じることなく、神と国民に誓う」という形式を取っており、キリスト教国の一端であることに間違いはない。

そのキリスト教国が日本人とはいえ浦上天主堂に集ったキリスト教徒を殺害したとあっては、大きな非難を浴びてしかるべき行為なのだ。

それかあらぬか、戦後まもなくそのことを知ったアメリカ政府は浦上天主堂の再建を申し出たのだが、長崎市側は断ったそうである。キリスト教徒であっても同じ日本人なのに、なぜ浦上天主堂で亡くなった人々を優遇するのかーーという反発心が大きかったに違いない。

その後長崎はアメリカにとって「さわらぬ神に祟りなし」、つまり鬼門と化したのである。オバマ大統領が行きたくても行けなかったわけである。

アメリカ軍は日本との戦争で「良い日本人は死んだ日本人である」というキャッチフレーズを作ったが、これはアメリカ大陸に渡った欧米の開拓民が現地人インデアンとの戦いで生んだフレーズ「良いインデアンは死んだインデアンである」の焼き直しであった。

異教徒は一般市民であろうと死んでも仕方がない――というロジックは戦後アメリカが起こしたベトナム戦争でもイラク戦争でもアフガニスタン戦争でも一貫している。

もちろんそれらの戦争で核爆弾が使われることはなかったし、一般市民への殺戮も時を経て少なくなって来たのは現代社会のネットワークや報道などによる暗黙裡の規制が働いたのだろう(ロシアのウクライナ侵略ではそんなことお構いなしだが)。

それにしても78年前の8月、たった2発の原爆による犠牲者の凄まじさよ。一瞬にして広島長崎あわせて10万、一か月以内にさらに10万、合計20万の無辜の一般市民が殺されたのだ。

今度の広島サミットに債務(国債発行)の上限問題で揺れているアメリカのバイデン大統領は参加できないような報道があったが、それは逃げ口上のように思われる。

同じ民主党からの大統領バイデンが、核廃絶を訴えていたオバマの主張にどう折り合いをつけるか、そこが聞きたい。また地元主催ということで張り切っている岸田首相が核廃絶に向けて何と言うのだろうか。「アメリカの核の傘論」という矛盾に満ちた話はもう聞きたくない。