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倭人とは?(2)

2023-05-25 09:35:42 | 邪馬台国関連
さて「倭人とは?(1)」では日本の古文献である記紀に記載された「倭人」を調べたのだが、「倭人(ワジン)」はもとより「倭(ワ)」という三国志魏書東夷伝でおなじみの「倭人・倭」の使用はなかった。

「倭」という漢字はすべからく「やまと」と読まれ、記紀編纂時点の「大和」とほぼ同義で使われていたのである。

そこでいよいよ中国古代の文献を調べるのだが、無論いわゆる「魏志倭人伝」とこの伝が記載されている『三国志・魏書』の「東夷伝」こそが日本人の先祖「倭人」の淵源であることに間違いはない。(※日本という国名は天武天皇時代の673年頃に「登録」され、中国の唐王朝も670年代には倭国から日本に改めている。)

だが「倭人」という名称は、「倭人伝」より前に実は『論衡』『漢書』『後漢書』『倭人字磚(ジセン)』などにもわずかながら登場している。

【2、中国の古文献に見る「倭人」】

魏志倭人伝に書かれた以外の「倭人」について見て行くが、内容的な時代順に並べると次の通りである。

①『論衡』
②『漢書』
③『後漢書』
④『倭人字磚(ジセン)』

①の『論衡』(ロンコウ)は前漢時代の王充(オウジュウ=AD27~97)が著した一種の歴史哲学書で、当時流行していた歴史理論「讖緯(シンイ)説」(歴史事象の繰り返し説)を批判したものであるが、「倭人」が登場するもっとも古い文献である。以下の4か所に「倭人」が出て来る。

 第8 儒僧篇「周の時、天下泰平にして、越裳(エッショウ)は白雉を献じ、倭人は暢艸(チョウソウ)を貢ず。」
 第13 超奇篇「暢艸は倭人より献じられる。」 
 第18 異虚篇「周の時、天下泰平にして倭人来たりて暢草を献ず。」
 第58 恢国篇「成王の時。越常(エツジョウ)雉を献じ、倭人、暢を貢ず。」

すべては同じ内容の記事なのだが、4か所のうち2回は越からの白雉とともに周王朝に対して倭人が暢艸(チョウソウ)を献上している。越を越裳(エッショウ)とも越常(エツジョウ)とも記録しているが、「越人」と解釈して良いだろう。越とは今日の長江(揚子江)下流域以南を領域とする古代国家であった。

時代は周王朝でも第58の恢国篇によれば「成王の時」というから極めて古い話である。周の成王は周王朝の2代目で在位はほぼBC1000年代である。したがってこの倭人がもし列島の日本人の先祖であれば縄文晩期の日本人ということになる。

暢艸(チョウソウ)は即位等の行事に神に捧げる酒に浸す薬草の一種であり、ウコンのことではないかという説がある。また紀伊半島に自生している「天台烏薬(ウヤク)」との説もあり、どちらにしても列島の南部に自生しているので、周王朝に貢献した倭人の出自も列島南部と考えられる。

ただ、列島南部から直接東シナ海を横断するのは困難で、かといって九州北部から朝鮮半島沿岸部を北上して、周都の洛陽まで行けたのかという疑問があり、列島南部で採取した暢艸(チョウソウ)はいったんは半島南部に送られ、そこから半島に在住していた倭人によって大陸の周王朝に届けられたと考えるのが妥当であろう。

以上、『論衡』の記事は「倭人」が列島以外にも常住していたことをほのめかしている。

②の『漢(前漢)書』ではその「地理志」の「燕地」の条に現れている。次の通り。

<東夷は天性が従順で、西南北(の諸族)とは異なる。孔子は中国で道が行われていないのを悼み(=嘆き)、海に浮かんで九夷と共に住もうとした。もっともなことだ。
 それ、楽浪海中に倭人が住み、分かれて百余国をなし、定期的に朝貢して来るという。>(同書地理志・第8下「燕地})

後半の「それ、楽浪海中に倭人が住み・・・」は高校の歴史の教科書ではお馴染みの史料として掲載されているが、前半まで載せている教科書は少ない。これが意外に「東夷」と呼ばれる朝鮮半島から列島の諸族の属性を端的に表しているので重要なのである。

「天性従順」という属性だが、これはそのものずばりだろう。そしてこの「従順さ」は一言で書けば「倭」という漢字で表される。したがって「倭人」とは「従順な人々」を意味することが分かる。

前半にはまた「東夷」のほかに「九夷」が出て来るが、これは「東夷」とほぼ同義である。これは後で魏書の東夷伝に触れる時に詳しく述べるが、簡単に言えば朝鮮半島と列島の諸族7族に加えて遼東半島と山東半島に住む「夷人」の2族を加えた九族のことで、いずれも「楽浪海(東シナ海)」に属する諸族のことである。

後半では、その東夷は百余国に分かれており、前漢王朝に定期的に朝貢していたとする。漢書は前漢の時代(BC202~AD8)の地歴書であり、その前漢王朝に朝貢した中に列島の「倭人」は無かったから、楽浪海中に百余国に分かれて住んでいた倭人とは朝鮮半島及びその海域に住んでいた倭人ということになろう。

そんなことがあるだろうか? 

一般的にこの「百余国に分かれていた倭人」は半島最南部の狗邪韓国(のちの任那)から対馬海峡を渡った九州島及び東の列島の国々、つまりほぼ当時の列島の倭人の国々全体を指すとされて来た。しかし前述のように前漢時代(前202~後8)の当時、列島の倭人国から漢王朝に定期的に朝貢していた国があったとは認められていない。

そう考えるとこの「楽浪海中に分かれて百余国になって住み、しかも前漢王朝に定期的に朝貢した」倭人とは朝鮮半島およびその海域に住んでいた倭人ということになる。

魏志倭人伝に詳しいが、半島南部の三韓(馬韓・弁韓・辰韓)の国々の数は馬韓が50国、弁韓と辰韓あわせて24か国、これだけで75か国ほどとなり、あと扶余・高句麗・濊(ワイ)の3か国、その内でも濊(ワイ)は今日の北朝鮮全域を領域としており、三韓の国々と同じように小国が分立していた可能性が強い。

朝鮮半島内部だけでも「百余国」は数えられ、それぞれの国が単独で、あるいは集団で前漢に朝貢していたのではないか。定期的に朝貢するようになったのは前漢の武帝(在位:前156年~前87年)による半島征伐で衛氏朝鮮が滅ぼされ、半島に真番・臨屯・楽浪・玄菟の4郡(直轄地)が置かれたことに起因しよう。

この北朝鮮領域の濊(ワイ)以南は三韓を含めてすべて「倭人」による諸国だったとみても、あながち間違ってはいないと思われる。「楽浪海中に百余国に分かれて住み、前漢王朝に定期的に朝貢していた」のは半島の濊(ワイ)以南の「倭人の百余国」だったとしてよいのではないかと思う。

※③『後漢書』④『倭人字磚(ジセン)』は(3)に続く。