鴨着く島

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辺境と防衛

2022-10-09 19:46:08 | 日本の時事風景
南九州はいま対中国防衛の本土最前線になっている。

種子島では西之表市に属する離島の「馬毛島」(まげしま)に自衛隊の基地を造り、そこを米軍の「空母艦載機陸上離着陸訓練」、要するに航空母艦に載せて敵地近くに揺曳させ、甲板を滑走路にして攻撃するための米軍航空機の離着陸訓練を行う施設を造成しようとしている。

その際に国は「米軍再編特別措置法」に基づき、関係市町村に「再編交付金」を支払うのだが、西之表市の八板市長は最初は反対だったのだが、次第に折れはじめ、今は馬毛島の中に在った小学校の敷地を防衛庁に言い値で売ることに同意した。

この時点で西之表市は防衛省の軍門に下ったも同然で、今後は市議会の基地造成反対派への説得に市長が乗り出すことになる。ただ反対派との分断は「病膏肓に入る」ではないが、相当な紆余曲折を経そうである。場合によっては現市長の次期再選はないかもしれない。

同様に、ここ鹿屋市でも海上自衛隊基地に米軍の「MQ9(無人偵察機)」が持ち込まれ、対中国防衛の一環としての偵察行動の一翼を担おうとしている。何日か前には米軍の責任者が鹿屋市長を表敬訪問した。

その席で中西鹿屋市長は、休日など米軍人の行動制限なしの事態に危惧を抱いているという市民の思いを司令官に訴えたが、司令官もそのことは十分に心得ていると回答している。

鹿屋に米国の軍人が到来するのはこれが初めてではない。終戦直後の9月2日に鹿屋市の高須から米軍の一団が上陸し、現在の海上自衛隊航空基地に占領軍の軍務所を置いている。時の鹿屋市長は永田良吉で、永田は米軍に臆することなく振る舞ったことで、かえって米軍の信頼を掴んだという。

この米軍の日本本土への上陸と占領は「日本始まって以来の他国による占領」と言われるが、実はもっとはるか以前の天智天皇の3年(664年)には前年の「白村江の戦」で壊滅的な敗北を喫した日本(倭国)の九州へ、唐の将軍劉仁願が、また翌4年(665年)には劉徳高がそれぞれ「文書」を持参している。

この文書は「表函」と称されているが、要するに「降伏文書」であり、勝者の唐側が敗者の日本(倭国)へ降伏の条件を示したものである。

この降伏条件の詳細は記されていないのだが、おそらく日本側はそれを拒否し、これを重く見た唐はさらに郭務宗という人物以下2000名もの軍隊を派遣し、筑紫(九州)に「筑紫都督府」を設置している。(※この筑紫都督府は倭国の設置とする考えがあるが、そうではなく唐による設置だろう。)

幸いにも新羅が高句麗を破って半島を統一し、その後半島は唐の支配を排除したたため、唐による日本(倭国)の統治は免れた。だが、天智天皇は大和を離れ、近江に都を移さざるを得なくなった。おそらく筑紫都督府による戦犯捕獲(逮捕)の最高の対象だったためだろう。

(※この結末には実に謎が多いのだが、天智天皇の後任となった天武天皇の素性も同じ地平の謎の一環である。当ブログの「記紀点描」42から48までを参照してもらいたい。)

さて日本本土最初の米軍占領地となった鹿屋は、言うまでもなく本土最南端の「辺境」にある。そして沖縄とともに中国大陸とは「一衣帯水」の位置にある。

そこで目を付けられたのが、ここ南九州は対中国防衛への最前線になるということであった。米国がそう目を付けた以上、その戦略に従わなければいけないのが「日米安全保障条約」の宿命である。

要するにアメリカが中国を「仮想敵国」視している以上、同盟国日本もそれに従わなければならない不文律があるのだ。辺境の対中国防衛最前線の沖縄も南九州も、本土防衛のためには、当該施設が造られても文句が言えないわけである。

そこには自由も民主主義もない。「お国のためには」と言っていた戦時中とそう変わらない状況であり、かてて加えて「アメリカの自由と民主主義を守るためには」という日米安保ならではのフレーズが加わる。

かくて辺境の地に、地元の平和への念願とは裏腹の防衛施設が次々に造られることになる。「米軍再編交付金」という名目が空々しく響く。</span>