鴨着く島

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鬼界カルデラの大噴火が残したもの

2022-10-05 20:27:45 | 災害
薩摩半島から約60キロ南へ行った離島の薩摩硫黄島は、7300年前に大噴火を起こした海底火山「鬼界カルデラ」の外輪山で、その名の通り江戸時代から硫黄の産出地として知られていた。

その硫黄採取の様子がNHKの2006年12月に「滝沢秀明が火山探検に行く:鬼界カルデラ」というようなタイトルの特番で放映され、テレビ画面から写真を何枚か撮影しておいたのだが、今日パソコンに保管してあったのを見返してみた。当時は手掘りで大変な苦労をしたらしい。


鬼界カルデラは東西22キロ、南北19キロの大きさで、薩摩硫黄島はその北西部に噴出した外輪山が海上に姿を現した島である。

どのような理由で滝沢秀明がキャスティングされたのか、ビデオで撮っておいたわけではないので、理由は分からない。多分、その当時のNHKで大河ドラマがあり、滝沢が主役か何かを張った時期だったのだろう。とにかく興味があったのでテレビ画面からデジカメで撮影したのだった。

7300年前、鬼界カルデラの大噴火はこの図の赤い線で囲まれた部分のど真ん中で起き、噴火による大津波・大火砕流・大降灰を四周にもたらし、特に南九州にはそれらのすべてが襲いかかり、早期の縄文文明はほぼ壊滅したのであった。

巨大噴火の大きさは、富士山が江戸時代の宝永4(1707)年に起こした大噴火と比べても、その規模の差はけた違いであった。

鬼界カルデラの中心から半径200キロ見当では降灰の量は30センチ以上で、最も遠い1500キロ先の関東北部でも10センチくらいの厚さで降り積もっている。人類有史以来最大の火山噴火と言われているが、確かにその通りだ。

米を食料の中心とするようになった弥生時代以降にもしもこの大噴火があったなら、日本列島全体の米の生産量は2割程度に落ち込み、多くの餓死者が発生したに違いない。

鬼界カルデラの噴出の時は、幸いにも(?)まだ米のような栽培植物に依存しない時代だったので、壊滅的な被害は膨大な降灰、そして火砕流や火山礫の直撃を受けた南九州だけで済んだ。

不幸にして南九州の早期縄文人は、この大災害によって死滅したと言われている。

(※だが一部は生き残り(逃げ延び)、南九州以外の地で気息奄々としながらも暮らしを続けた可能性もゼロではないと思われる。東北・北陸の縄文時代に見られる「火焔型土器」は本当は火焔ではなく巨大津波の姿なのかもしれない。)

この時、当然だが、早期縄文人が製作した諸道具(土器類、祭祀用具など)を持ち運び出すことは不可能で、したがってこれらは火山灰の下にすっかり埋もれてしまった。これを「火山灰パック」と言うようなことがあり、そのおかげで南九州の早期縄文文明が姿を現すことになった。しかもワンセットで。

国分の南に高く突き出た上野原台地に、まさかこんな遺跡が埋まっていようとは考えられもしなかった時、ここを工業団地にしようとした旧国分市の思惑は見事に外れたのだが、結果としては考古学上の金字塔を打ち立てたとしてよいだろう。

そもそも「クマソ・ハヤトの盤踞する遅れた地域」として今も見られがちな古日向地域に、こんなにも古い時代に、他では見られない先進性を持った文明が存在するとは誰も思わず、特に中央の学者たちは自説が覆されるのを快く思わず、無視を決め込んでいるようだ。

青森県の三内丸山遺跡には大騒ぎするが、それは考古学の旧説保持者の連中がお墨付きを与えるからだろう。その三内丸山より4千年から5千年も古い上野原縄文早期遺跡にはもっと光を当てなくてはなるまい。

そして同時に、鬼界カルデラの再発にも気を配っておきたいものだ。