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鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

白村江の戦い(記紀点描㊷)

2022-01-28 20:10:17 | 記紀点描
【百済の滅亡】

654年、孝徳天皇が自らが建設した「難波の長柄豊崎宮」で亡くなり、かつて天皇位(皇極天皇)に昇った姉の宝皇女が再び天皇となった。斉明天皇である。

孝徳天皇時代の皇太子だった中大兄皇子が践祚するのがふさわしいのだが、中大兄皇子は半島情勢の緊迫に対処するのに忙しかった。つまり対外的な施策が山積みされていたため、祭祀などに関わる時間に多くを取られる天皇の位に居るのを良しとしなかったのだろう。

しかし660年(斉明天皇6年)の7月に百済が滅びるという事態になった(斉明6年7月条の割注=高句麗僧・道顕の書『日本世記』による)。その経緯は次のようであった。

<(百済からの使者の報告)「今年の7月、新羅、力をたのみ、勢いを作りて、隣(百済)に親しまず。唐人を引き構へて、百済を傾け覆せり。君臣みな俘(とりこ)にし、ほぼ残れるものなし。(中略)西部恩率・鬼室福信、怒り、発奮して任射岐山に拠る。・・・}>(斉明6年9月条)

朝廷に百済からの使者が到来し、百済が新羅と唐の連合によって敗れ、王族や家臣たちは残らず捕虜となった。しかし恩率の鬼室福信だけはひとり岐山という城に立てこもり、新羅・唐を敵に回して戦っている――と言って来た。

さらにそのひとり奮闘している鬼室福信から救援の依頼が来たのである。それを受けて660年12月斉明天皇は難波宮(孝徳天皇の長柄豊崎宮)に行き、<福信の乞い(救援依頼)に従い、筑紫に御幸して救いの軍を遣らんと思ひ、まずここ(難波宮)に幸して、諸軍器を備ふ。>と、駿河国に船の準備を発令したりしている。

【斉明天皇の筑紫下りとその死】

斉明天皇(在位654~661年)の「筑紫下り」の経過をピックアップすると次のようであった。

・660年12月・・・長柄豊崎宮に逗留し、出発の準備
・661年1月・・・出航(難波津)
・同年 2月・・・伊予の熟田津(石湯行宮)
・同年 3月・・・那の大津(筑紫)磐瀬行宮
・同年 5月・・・朝倉宮(筑前朝倉郡)を造営したが、朝倉社(麻氐良布=まてらふ=神社)の山中のご神木を切り倒したためか、同行した官員たちが変死する者が多かった。
・同年 7月・・・斉明天皇崩御(68歳)

(※67歳という高齢では、難波を出発してからまる4か月の船旅は相当に堪えたろうと思われる。天皇の死因はそれが過労を招いたことによる老衰に近かったのだろうが、その一方で朝倉社の神の怒りが天皇の命を奪ったという見方もある。)

斉明天皇の死の翌月、中大兄皇子は母天皇の棺を引いて那の大津に行ったのだが、その時、朝倉山の上に大笠をかぶった鬼が現れ、その様子を眺めていた。一同は奇怪なこととそれを見ていたそうである。この鬼が現れたという描写は、救援軍の行く末を暗示しているかのようである。

【百済救援軍の発遣と白村江の戦い】

661年7月、母の斉明天皇が筑紫の朝倉で客死すると、息子で皇太子の中大兄はすぐには即位せず、「称制」に入った。称制とは即位の式を挙げずに天皇の朝機を行うことである。実際、都を遠く離れた筑紫に居ては即位式の挙行は不可能であったろう。

中大兄は皇太子のまま長津宮(博多)に移り、そこで「水表の軍政を聴こしめす」(天智天皇即位前紀7月条)。その最大の軍政こそが百済救援軍の派遣であった。翌月、阿曇比羅夫、河辺百枝らに命じて救援軍を組織した。

9月には人質として倭国に居た百済王子・豊璋(ホウショウ)を百済王に立てようとして、織冠を授け、救援軍と同時に出航させた。

翌年(662年)の5月に豊璋(ホウショウ)は百済王に立ったが、作戦(戦略)は孤軍奮闘していた鬼室福信の方がはるかに上で、次第に豊璋(ホウショウ)と鬼室福信の間に亀裂が入り始めた。そしてついに翌年(663年)の6月、豊璋は福信を拘束し、謀反の罪を着せて殺害してしまう。

この鬼室福信の殺害を知った新羅・唐連合は時節到来とばかり、救援に来た倭国軍との戦いに臨んだのであった。

倭国軍の構成は水軍であり、百済の王都のいくつかが流域にあった「白村江」(現・錦江)の河口に集結し、遡上して豊璋が籠城している周留城に向かおうとしたが、倭国水軍に先んじて河口を占拠していた唐の水軍と交戦した(8月27日~28日)。

この「白村江の海戦」について日本書紀は倭国水軍の軍船の数は記録しないのだが、相手の唐水軍については「大唐の軍将、戦船170隻を率いて白村江に連なれり」と書いている。

倭国側の軍船数についたは、『旧唐書』の「劉仁軌伝」に<倭国水軍と白江(白村江)の河口で遭遇した。4度戦い4度とも勝った。倭国水軍400隻を焼き払った。>とあり、最低でも400隻はあったことが判明している。

さらに朝鮮の正史『三国史記』「新羅本記」には「倭船千艘が白沙(白村江)にとどまれり」とあり、焼かれて沈没した船は400であったが、その余に無事な船がかなりあったことを示唆している。この戦役の後に倭国へ百済の王族など多数が亡命しているから、その余の無事だった船が使われたはずである。

さて船の損害は400艘と分かったが、人員の損害はどれくらいだっただろうか?

まずどれだけの軍士が半島に向かったのか。これの正確な数は分からないが、まず661年9月に百済王子の豊璋を百済に送る際に170艘と言う船団を組んだことと、翌年(663年)3月に、上野毛君稚子将軍と阿部引田臣比羅夫将軍に引率された将士の数は27000人あった。

とすると170艘に乗った人員が分かれば、27000人に加えればよい。一艘の軍船に何人のクルーが乗るのかは記録に無いが、おそらく20人くらいかと思われ、そう考えると170×20で3400人と出る。したがって27000+3400で30400人。およそ3万人の水軍が半島に向かったことになる。

このうち焼かれて沈没した400艘の人員は400×20で8000人となり、沈没しないまでも火矢の犠牲になったり肉弾戦で切られたりしてさらに2000人とすると、合計1万人が戦死ということになり、出陣した兵士の3割が死亡するという大敗であった。

(※人質だった百済王子・豊璋は戦役の最中に幾人かの家臣とともに逐電してしまう。行き先は高句麗だったという説があるが、高句麗も668年には滅ぼされるので、豊璋の居場所にはならなかったろう。)

なお、この海戦には筑紫(九州島)から多くの軍士や船子が加勢したはずで、その人的損害はその後の筑紫の停滞につながったと思われる。特に南九州鴨族は勇猛な水軍を誇っていたが、その損失只ならず、以降は蛮族(化外の民)「隼人」として貶められるようになったと考えられる。



「押し羽振る」考(記紀点描㊶)

2022-01-26 10:02:16 | 記紀点描
【難波長柄豊崎宮の造営】

蘇我蝦夷・入鹿の誅殺(乙巳の変)後に皇極天皇の後を継いだ第36代孝徳天皇(在位645~654年)は「改新の詔」を出しているが、その中で京師(帝都)の建設も打ち出している。

それが具現化されたのが6年後(650年)の難波の「長柄豊崎宮」であるが、その帝都の正確な位置は分かっていない。

難波に王宮を築いた天皇としては仁徳天皇が名高く、その宮は「難波高津宮」で、この宮についてはおおむね現在の大阪城跡に重なる高台のようだが、その約250年も後になって建設された長柄豊崎宮の場所が分からないとは不思議である。

ただこの孝徳天皇の築いた宮について、万葉集にそれを詠んだ歌が載せられていた。これが参考になろうか。

この歌は万葉集の巻6,通し番号でいうと1062番の歌である。詠み人は田邊福麻呂という人物で、この人の歌集の中から21首を採用したというあとがきが付せられている。長歌だがさほど長いものではないので次に記載しよう。

<やすみしし わが大君の あり通ふ 難波宮は いさなとり 海片付きて 玉拾ふ ¹浜辺を近み 朝羽振る 波の音騒ぎ 夕なぎに 櫂の声聞こゆ あかときの 寝覚めに聞けば 海若(わたつみ)の 潮干のむた 浦渚には 千鳥妻呼び 葦辺には 鶴が音響(とよ)む 見る人の 語りにすれば ²聞く人の 見まく欲りする 御食(みけ)向かふ 味原の宮は 見れど飽かぬかも>

この長歌に対する短歌2種も紹介されている。 

<あり通ふ難波の宮は海近み 漁童女らが乗れる船見ゆ>
<潮干れば葦辺に騒ぐ白鶴の 妻呼ぶ声は宮もとどろに>

長歌では単に「難波宮」とされているので仁徳天皇(在位推定396~427年)の「難波高津宮」と勘違いされやすい。しかし仁徳天皇時代では文字(漢字)が日本に入って来た極く初期(百済の王仁氏が持参した千字文や漢籍を最初に学んだのは応神天皇の皇子ウジノワキイラツコで、405年頃)であり、万葉仮名は生まれていなかったので、田邊福麻呂のこの歌が記録されることは有り得ない。

この長歌もだが、短歌2種に歌われている難波宮は間違いなく孝徳天皇の「長柄豊崎宮」である。その内容からは豊崎宮の位置がいかに海辺に近かったかが分かる。仁徳天皇の難波高津宮も海に近い位置にあったにしても高台であり、こんな海辺ではなかった。

それまでの宮は皇極天皇(在位642~645年)の「飛鳥板葺宮」であった。そこは大和という海に縁のない土地であり、かつ蘇我氏の専横とその誅殺という「血塗られた土地」でもあった。それを払しょくし、天皇親政の国家を打ち立てようとした孝徳天皇にとって難波は最良の土地であったのだろう(仁徳天皇も河内王朝と言われるように河内から難波を新国家の土台と考えていた。和風諡号に「徳」が共通しているのはそのためか?)。

しかしその構想は大和在住の豪族たちからすれば余りにも理想に流れ過ぎていた。皇太子であった甥の中大兄皇子(のちの天智天皇)は孝徳天皇の皇后になっていた実妹の間人(はしひと)皇后を引き連れて大和へ帰るという強硬手段に出た(653年)。孝徳天皇は翌年難波宮で崩御し、その後、下線2のように人が羨むような景色の良い長柄豊崎宮(味原宮)は打ち捨てられてしまう。

(※下線2の「味原(あじはら)」とは「あじ=鴨」の「原」ということで、宮近くの葦辺には鶴とともに多数の鴨が群れていたことを示す別称である。)

【羽振る(はふる)の意味】

ところで下線1の「朝羽振る」という用語だが、これを注記では「羽振る、は鳥が勢いよく羽を振る様で、力がみなぎる様子」と解釈し、この下線部を「海辺に近いので、朝になると鳥が羽を勢いよく震わせるように波がざわざわと音を立てるのが聞こえ、夕方に凪ぐ時は海辺近くを往く船の櫂の音が聞こえてくる」とする。

「羽振る」は実は崇神天皇10年の「武埴安彦と吾田媛の叛乱」事件の時に使われている(崇神天皇紀10年9月条)。

この叛乱の首謀者である武埴安彦と吾田媛を、私は南九州から大和に入った最初の王朝「橿原王朝」の血統と考えており、橿原王朝樹立の120年ほど後(270年頃)に北部九州から大和入りした崇神王権(「大倭」王権)への抵抗が反乱の真因だとする(詳しくは「二人目のハツクニシラス崇神王権の東征(記紀点描③)」で述べている)。

この首謀者二人は崇神軍に敗れ殺害されてしまうのだが、武埴安彦勢力が敗れるシーンに「羽振る(はふる)」が使われているのだ。

<ヒコクニブク(崇神軍の将軍)、埴安彦を射つ。胸に中てて殺しつ。その軍衆、おびえて逃ぐ。すなわち追ひて川の北に破りつ。而して(埴安軍の)首を斬ること半ばに過ぎたり。屍骨さわに溢れたり。故に、その所を名付けて「羽振苑(はふりぞの)」といふ。>(崇神紀10年9月条)

この記事によれば、ヒコクニブク(崇神)軍がまず敵の大将武埴安彦を討ち取り、その後総崩れになった埴安彦軍士を多数討ち取ったが、死体をそのまま打ち捨てていたためにそこを「羽振苑」と名付けている。

この時の「羽振る」は注記には「ハフルはもと放擲(放り出す)の意」とある。だからこの部分は「殺された兵士の沢山の死体を捨ててそのままにしておいた」という意味であり、「はふる」の転訛が「ほうる」だろうと思わせる解釈である。

この「羽振る」の原義から考え、上の項で見た長歌の下線1の「朝羽振る」に適用すると、これは「朝を放り出す」とは解釈できないだろうか。

どういうことかと言えば、波の音が耳について朝が朝ではなくなる、つまりおちおち寝ていられないという解釈ができないだろうか。要するに「朝のまどろみが捨て去られる」となろうか。「朝羽振る 波の音さわぎ」はけっして「朝に鳥が羽をばたつかせるような勢いで、波が騒がしい」という無粋な現象ではないと思うのだ。

そう捉えないと、下線2のような「海辺に近い景色(環境)の良さを聞いた人々が、ぜひ行って見たいものだと言う」という好奇心は湧かないだろう。「朝の眠りを覚ます心地よい波の音が聞こえてくる」という意味だと思うのである。千鳥や鶴の鳴き声とともに耳朶をゆする波の音は子守歌に違いない。

【押し羽振る――御宝主(みたからぬし)】

ところで、同じ崇神天皇の時代に次のような不思議な出来事があり、ここにも「羽振る」が出てくるのだ。

崇神天皇の60年7月に天皇は群臣の前で次のように言ったという。

<「武日照(たけひなてる)命の、天より持ち来れる神宝を、出雲大神の宮に蔵すといふ。これを見ま欲し。」すぐに武諸隅(たけもろすみ)を遣わして献らしむ。>(崇神紀60年7月条)

ところが出雲の当主で神宝を管理している出雲振根(いずもふるね)はたまたま筑紫(九州)に出かけており、その代わり留守を預かっていた弟の飯入根(いいいりね)が、神宝をその弟ウマシカラヒサとウカヅクヌに命じて崇神のもとへ献上した。

筑紫から帰って来た出雲振根はたいそう立腹し、代理人であった弟の飯入根を殺してしまう。それをウマシカラヒサとウカヅクヌが大和に訴えたところ、朝廷はキビツヒコとタケヌナカワワケを派遣して振根を誅殺する。

神宝の正統な管理者である振根が殺されたことで、出雲人は恐れをなして出雲大神を祭れなくなってしまった。

その時に朝廷に丹波の住人で氷香戸辺(ヒカトべ)というおそらく女性の首長もしくは巫女が次のように申し出た。

<己が子に小児あり。而して自然(おのずから)に言へり。

――玉菨鎮石(たまものしずめいし) 出雲人の祭る 真種の甘美(うまし)鏡 押し羽振る 甘美御神 底宝 御宝主 山河の水泳る御魂 静挂かる甘美御神 底宝 御宝主――と。>

「とても小児が言えるような内容ではありません。何かが子どもに憑いてこう言わせているのでしょう。」と氷香戸辺(ヒカトべ)は結論付けている。ただ氷香戸辺(ヒカトべ)自身、その意味するところは把握できなかったようである。

この不思議な歌を岩波文庫本『日本書紀(一)』の注記では次のように解釈している。

「玉のような水草の中に沈んでいる石。出雲人の祈り祭る本物の見事な鏡。力強く活力を振るう立派な御神の鏡、水底の宝、宝の主。山河の水の洗う御霊。沈んで掛かっている立派な御神の鏡、水底の宝、宝の主。」

注記では水底にある宝の主とは「鏡」であるという。そうすると最初の「玉菨鎮石(たまものしずめいし)」(玉のような美しい藻が生えている水底に沈んでいる石)も「鏡」ということになる。石が鏡とは何とも解せない話である。

しかもその見事な石(鏡)が「押し羽振る」(力強く活力を振るう)という状況が想像できないのである。そもそも立派な鏡を水の底に沈めるだろうか。水の底に沈めてそれを立派な神の形代として祭るとはどういうことだろうか? 鏡は青銅製だから鉄よりは錆びにくいが、それでも水の中に入れたらたちまち輝きは失われてしまうではないか。

したがってこの解釈は次のようでなければならないと思うのである。

「玉のような水草の中に沈められている石を出雲人が祭っている。その石は本物の見事な鏡さえ葬ってしまうほどの素晴らしい神なのだ。水の底にあるのは神宝中の神宝だ。山河の水が掛かるところある神霊、沈んでいる素晴らしい神。水の底にあるのは神宝中の神宝だ。」

要するに、水の底の石は本物の鏡さえ(要らないと)放り出してしまうほどの宝。鏡より大切な宝――と言っているのである。

水の底に沈められている石がどんな石なのかは不明であるが、とにかく宝の中の宝というほど価値のあるものなのだろう。

ただ石そのものなのか、それとも何か石組の中に納められている宝物なのか。

ここでふと思い出されるのが、筑紫(九州)の志賀島で見つかった「金印」である。あの金印の刻字は「漢委奴国王之印」で、漢王朝に朝貢した九州北部の奴国王が漢王朝の藩屏に連なる証として貰ったものであった。

その大切な金印がなぜ志賀島の海辺の「石囲い」の中に納められたのか。

ちゃんと「石囲い」をしたということは、奴国王が北部九州の勢力争いの中で不運にも没落し、いったんは北部九州を離れざるを得なくなったがゆえに誰にも分からないように海岸べりの、満潮になれば水没するような場所にわざと隠し、再起したらまた取りに来るつもりだったのではないか。

その奴国王こそが出雲大神ことオオナムチ(=大奴持ち=大国主)を祖神とする国王であり、北部九州における崇神王権(五十王権=大倭)との戦いに敗れ、出雲に流された一族の王だったのではないか。

崇神王権は奴国王が西暦57年に漢王朝から金印を授かったことを聞き及び、奴国王が流された出雲に金印があると睨み、その金印を差し出させるべく使者のタケモロスミを派遣したのだろう。

この派遣は出雲王権内の不和を招くという結果になったが、結局は鏡以上の「神宝」は見つからなかった。

次代の垂仁天皇時代にも天皇が物部十千根を派遣し、出雲に行って調べてさせたとあり、余ほど出雲の神宝中の神宝を手に入れたがった(垂仁紀26年8月条)ようだ。今度は物部十千根が首尾よく「これこそが神宝です」と持ち帰ったらしいが、また偽物の鏡を掴まされたのではなかったかと思われる。

鏡より大事な神宝中の神宝の金印は志賀島の海岸べりに眠っており、天明4(1784)年の発見を待たなければならなかったのである。

(※崇神60年に崇神天皇が出雲の神宝を探させた時、神宝の管理者で当主のイズモフルネは筑紫(九州)に行っていて、使者と会わなかったのだが、もしかしたらフルネは崇神からの使者派遣を察知し、「金印」を持って故地である筑紫に行き、志賀島の海中に石囲いを作り、そこに金印を隠匿したのかもしれない。)







 


母とふ花(記紀点描㊵)

2022-01-24 11:23:24 | 記紀点描
今回は「記紀点描」というより「万葉集点描」というべき内容である。

日本書紀内の「白村江の戦い」とその後に置かれた「防人制度」を調べていたが、その防人の端緒が孝徳天皇(在位645年~654年)の大化2年(646年)正月に勅令された「改新の詔」の2番目に、

<初めて京師を修(つく)らん。畿内の国司・郡司は、関塞・斥候、防人・駅馬・伝馬、を置け。(以下略)>

とあり、この中に「防人」が見える。

まだ律令制度は始まっていないので、国司は「コクシ」ではなく「くにのつかさ」、郡司は「グンジ」ではなく「こほりのつかさ」だが、畿内在住の彼らに関所、物見台、軍士、駅馬(早馬)、荷駄馬を置くように命じている。

この時の防人は、白村江の戦役(663年)敗退後の壱岐・対馬・筑紫へ配置された防人(さきもり=664年配置)ではなく、京師を含む畿内を守るための軍人であった。したがってこの時点での防人は中国由来の制度であるから「ボウジン」と読んだ方がよい。

我々の人口に膾炙する「さきもり」は和語であり、唐・新羅連合軍から「岬(みさき)」つまり海岸線を守るのが主眼であった故に「みさきもり」から「さきもり」に短縮した用語であろう。

いずれにしても制度としての防人は、664年(天智天皇称制4年)に始まった。「軍防令」として令制化されるのは37年後の大宝律令を待つのだが、防人の多くは白村江の戦役に出征しないで済んだ東国の民であった。
(※逆に言うとそれだけ筑紫(九州)の軍民は白村江の戦役に駆り出され疲弊してしまったということである。)

防人と言えば『万葉集』に防人自身の生々しい気持ちが歌われていることで著名である。

万葉集第20巻には「同じき歳(西暦755年)、乙未2月、相ひ替はりて、筑紫に遣はさゆる諸国の防人等の歌」という小見出しがあり、4321番の歌から始まって4436番まで、105首が掲載されている。(※116首のうち大伴家持が防人の気持ちを詠んだ8首と防人を督励した勅使などの歌3首を除いた。)

しかし今回新たに第14巻の中に相聞歌や譬喩歌などと並んで「防人の歌」という見出しで、わずか5首ではあるが防人の詠んだ歌があることに気付いた。この中には確か『万葉秀歌100選』に選ばれていたと記憶するが、「防人に立ちし朝けの金門出に手放れ惜しみ泣きし児らはも」という、出征してゆく防人が、我が子らとの門の外での悲しい別れを偲んで作った歌がある。

この5首を加えると防人自身が詠んだ歌は110首を数える。万葉集4516首あるうち決して多いわけではないが、ほぼ無名の東国の民の肉声が聞こえるという点では出色のものだろう。

さて、今回のタイトル「母とふ花」だが、これは第20巻に載る防人の歌105首の中にある歌(第4323番)で使われていたフレーズである。

この歌は実は詠み手は分かっている。「防人山名郡丈部真麻呂」である。山名郡がどの国の郡であるかは不明だが、そこから出征して来た「丈部(はせつかべ)の真麻呂(ままろ)」というおそらく独身の若者である。なぜ独身かというと、真麻呂の直前の歌(第4322番)の歌が、妻のことを詠んでいるからで、もし妻がいるのならば同じように妻を偲ぶ歌になったと思うからである。

その歌は、

<時々の花は咲けども何すれぞ「母とふ花」の咲き出来ずなむ>

という。「季節季節にまたあちこちに色々な花は咲いているのに、どうして母という花は咲いてくれないのか」と歌っているのだ。

――筑紫は東国出身の俺等にすれば、暖かく、いろいろな花が咲き乱れている。しかし俺にとって花と言えばやはり母さんだよな。今頃どうしているのやら、寒さの中で元気でいるだろうか。会いたいなア。

防人版の「瞼の母」だ。

「瞼の母」の番場の忠太郎は、5歳の時に家を出て行ってしまった母を探し回って20年、ようやく探し当てたが「やくざじゃ困る。堅気になっておいで」と突っ放される。その点防人の任期は3年だから、除隊後は堂々とかつ意気揚々と故郷の母に再会できる。

もっとも防人自身が自給自足の国防任務中に病でも患えば帰るに帰れなかった。そんなケースも多かったらしい。

だが「母とふ花」と、我が母を花にたとえて詠んだ丈部真麻呂は、無事に三年の任期を終え、故郷に待つ母の下へ帰り着いたに違いないと思って止まない。

(追記)
丈部真麻呂の出身地「山名郡」は遠州であることが分かった。今日の静岡県袋井市に属する一帯である。「遠州森の石松」の石松の出身は袋井市の北隣の森町という。



蘇我氏と葛城氏(記紀点描㊴)

2022-01-14 12:51:42 | 記紀点描
【蘇我氏の本拠地は葛城か?】

蘇我馬子(?~626年。大臣在位572~626年)は姪である推古天皇より2年早く死んでいる(推古34年=626年)が、その2年前の推古32年10月に天皇家の直轄地のひとつである「葛城の県(あがた)」を推古天皇に所望して断られたという記事が見える。

馬子は断られたが、次代の蝦夷はどうやら葛城をわが手中に収めたようである。蘇我氏のコントロール下にあった欽明天皇系ではない宣化天皇の系譜につながる宝皇女が、実弟の孝徳天皇(在位645~654年)の後を襲って皇極天皇(在位642~645年)として皇位に就くと、これ見よがしに葛城に天皇まがいの宮殿を建ててしまう。

<この年、蘇我大臣蝦夷、おのが祖廟を「葛城の高宮」に立てて、八佾(やつら)の舞をす。(中略)また併せて180の部曲(かきべ)を発して、予め双墓(ふたならびのはか)を造る。ひとつをば大陵として大臣(蝦夷)の墓とし、もう一つをば小陵として入鹿臣の墓とす。>(皇極天皇紀元年)

という塩梅であった。

父馬子の墓はかの有名な「石舞台古墳」で、暴かれてしまい今に無様な、見ようによっては飛鳥時代の記念すべき巨石遺構として残されているが、蝦夷と入鹿の「双墓」というのはほとんど関心を寄せられていない。しかし近鉄とJR和歌山線の合流駅の吉野口駅(御所市古瀬)に近い所に現存するそうだ。

さて蝦夷が天皇の宮殿まがいの建物を建てた「葛城の高宮」というと、思い出すのが葛城ソツヒコの娘で仁徳天皇(在位推定396~427年)に嫁いだ磐之媛である。

磐之媛は嫉妬深いことで有名だったようだが、仁徳がイワノヒメが紀州に三綱柏(ミツナガシワ=神事に使う植物)を採集に行っている間に、かねてよりモーションを掛けていた八田皇女を後宮に迎え入れると、嫉妬に狂ったイワノヒメはミツナガシワをすべて海に投げ入れ、仁徳の居る難波高津宮を素通りして、船のまま木津川(山代川)をさかのぼり、筒木の岡に宮を建てて籠城(?)してしまう。

この頃、イワノヒメが葛城の我が産土をしのんで詠んだのが次の歌だとされている。

<つぎねふや 山代川を 宮上り 我が上れば あをによし 奈良を過ぎ 小楯 倭(やまと)を過ぎ 我が見が欲し国は 葛城高宮 
我が家のあたり>(古事記によるが、書紀も漢字に違いはあるもののほぼ同じ)

イワノヒメの父は葛城襲津彦(ソツヒコ)であり、葛城を称しているからにはイワノヒメが詠んだように、「葛城高宮こそ我が家のあたり(近傍)」であり、その生まれ育った葛城をはるかに偲びながら筒木宮で亡くなっている(仁徳35年6月)。この時の心境は察するに余りある。

(※私見では仁徳天皇の在位は4世紀末から西暦427年(古事記の没年干支「丁卯の年」による)であるので、イワノヒメは370年代の生まれと考えられ、父のソツヒコは350年前後の生まれとしてよいだろう。)

馬子が所望した「葛城県」は、無論この「葛城高宮」を含むかなり広範囲な土地で、馬子はここが蘇我氏にとっても本拠地だったというのであるが、果たしてそれは本当だろうか?

葛城ソツヒコの事績とも照らし合わせる必要性を感じるので、以下に考察を加えてみたい。

【葛城襲津彦(ソツヒコ)の出自】

葛城ソツヒコは孝元天皇記によると建(武)内宿祢の子である。孝元天皇の皇子の比古布都押之信(ヒコフツオシマコト)が紀国造の祖であるウズヒコの妹の「山下影日売(ヤマシタカゲヒメ)」を娶って生まれたのが武内宿祢であった。

ところが書紀の景行天皇紀によれば、屋主忍男武雄心(ヤヌシオシヲタケヲココロ)が「阿備柏原(アビノカシハラ)」に9年いた時に、紀値の遠祖ウジヒコの娘のカゲヒメを娶って生まれたのが武内宿祢だという。

私見では「阿備柏原」は大隅半島の「阿比の柏原」の生まれと考えている。「阿比」は「阿比良比売(あひらひめ)」の「阿比」で、「アビ」とは「鴨」のことである。(※家鴨と書いてアヒルと読ませるが、この「アヒ」は鴨の別名に他ならない。)

武内宿祢の父がヒコフツオシマコトかヤヌシオシヲタケヲココロなのか両者に発音上の共通点がないのが気になるが、今はこの点については、また別の機会に譲りたい。

さてこの葛城ソツヒコだが、父は武内宿祢であり、その系譜は葛城ソツヒコー〇(イワノヒメの兄)―玉田宿祢―円(つぶら)大臣―韓媛(からひめ)と続き、カラヒメは父の円大臣が雄略天皇に滅ぼされてから天皇に嫁ぎ、清寧天皇(在位480~484年)を生んでいるが、清寧天皇は皇后を娶らず、結局子供が無かったので葛城氏の系譜はここで終わっている。

蘇我氏の系譜と照らし合わせてみると蘇我稲目(推定500~570年)の父蘇我高麗(こま)の時代に当たるようだが、高麗は全く王権に関与していないし、葛城氏の系譜とクロスすることはないのである。蘇我氏と葛城氏は武内宿祢の血統であることは確かなのであるが、両氏の交流について史料上は全く見えていない。

だから蘇我馬子が葛城氏の本拠地である葛城県(あがた)が我が本貫の地であると言ったり、とりわけ「葛城高宮」との所縁の由来は不明とする他ない。(推古天皇32年条及び皇極天皇元年条)

もっとも葛城ソツヒコも実は葛城地方との所縁についてはよく分かっていないのである。武内宿祢は私見では南九州大隅半島の「阿比(良)」の柏原の生まれであり、神功皇后の時代に北九州で生まれたホムタワケ(応神天皇)を「南海経由で紀の水門」まで船行したからには南九州の水運を掌握していた。

応神天皇は武内宿祢にとっては孫の世代に当たっている。一方の葛城ソツヒコは神功皇后の時代から水軍を指揮して半島に渡る活躍を見せている。

ソツヒコの初見は神功皇后の5年(推定年371年)で、その3月に人質になっていた新羅の王子ミシコチホッカンを巡る騒動を解決するため半島に渡ったのだが、蹈鞴(タタラ)の津に軍を置き、新羅を攻めている。この時に捕虜として連れて帰った新羅人を「桑原」「佐糜(さび)」「高宮」「忍海(おしぬみ)」に住まわせている。

このうち「高宮」が注目に値する。あの「葛城高宮」のことだろうか。これによって、葛城ソツヒコが葛城の中心領域である高宮を手中に治めていたことは確実視されるのである。

もう一つソツヒコの存在が確からしいという証拠が同じ神功皇后紀の62年(推定年380年)の記事である。それは「百済記」の引用なのだが、この年に新羅からの朝貢がなかったのでソツヒコ(百済記では「沙至比跪」)を派遣して攻めたとある。

ソツヒコは、しかし、新羅の画策で美女二人をあてがわれ、新羅を討たずにかえって加羅国(狗邪韓国=金海市)を撃ってしまい、加羅国からの知らせに驚いた神功皇后は「木羅斤資(モクラコンシ)」を遣わして旧に復させた。この木羅斤資(モクラコンシ)こそが蘇我氏の系譜にある「満智(まんち)」の父ではないかと言われており、そうであればこの時に蘇我氏と葛城氏は所縁を得たということになる。

ソツヒコは神功皇后から痛く叱責され、ついには大和に帰れず、「(沙至)比跪、免れざることを知りて、石穴に入りて死ぬといふ」(百済記)とある。しかしながら応神天皇の14年、16年及び仁徳天皇の41年にも登場し、最後の仁徳天皇41年(推定年415年)には紀角宿祢(きのつぬのすくね)が百済に行った帰りに一緒に帰国しているのが記事に見えている。

早くに死んだのか、半島のどこかで生き延びていて本当に仁徳天皇41年に帰国したのかの決定打はないが、いずれにしても葛城におけるソツヒコの影は薄く、娘の仁徳皇后イワノヒメが生まれ故郷の「葛城高宮」を偲びながら木津川ほとりの筒木の宮で亡くなった頃(仁徳天皇の34年=推定年410年頃)にはソツヒコが統治していた葛城県(あがた)は葛城氏の手から離れ、天皇家の所有(直轄地)になっていた可能性が高い。

ところで葛城ソツヒコはこの葛城県で生まれたのだろうか?

というのは葛城ソツヒコは余りにも対半島政策に駆り出されることが極めて多いからである。大和という海の無い地方に生まれ育っては到底考えられないほど、海を渡った半島との外交交渉の矢面に立ち過ぎるのである。

私は武内宿祢を南九州「阿比(鴨)の柏原」すなわち大隅半島の肝属川河口の生まれと考えるのだが、その子である襲津彦も南九州生まれとした方が半島との密接なかかわりから考えて整合性を得るように思われのだ。

第一に「襲津彦」という名だが、これは「襲(曽)の男王」という意味なのだ。つまり南九州を意味する「襲(曽)」こそが出自ではないかと思われるのである。

【葛城襲津彦と日向襲津彦】

「襲津彦」にはもう一人いて、その名を「日向襲津彦皇子」という。

この人物は景行天皇と妃の日向髪長大田根との間に生まれたとされる。景行天皇の男子だから「皇子」が付くが、名の骨格は「襲津彦」ということである。
 
第12代景行天皇は和風諡号を「大足彦(おおたらしひこ)」といい、子とされる13代成務天皇の和風諡号「若足彦(わかたらしひこ)」、そしてヤマトタケルの子とされる14代仲哀天皇の和風諡号「足仲津彦(たらしなかつひこ)」とともに、「足(たらし)王権」などと名付けられることもある。

景行天皇と成務天皇の時代を4世紀の第2四半期(320年代~350年頃)と私は考えてはいるが、景行天皇の実在については是としつつも、成務天皇の実在は薄いと思っている。武内宿祢と同じ誕生日だったことと武内宿祢が初の「大臣」に就任したことなどを考え合わせると、成務天皇は武内宿祢その人ではなかったかという考えが捨てきれない。

そして次代の14代仲哀天皇に至っては、半島南部の旧弁韓(のちの任那)の統治者であり、新羅(旧辰韓)と九州北部の倭人連合(大倭)との連携に釘を刺すべく、壱岐の女王出身の神功皇后(和風諡号は息長足姫で、息はオキと読まずにイキと読む)とともに狗邪韓国を出発地として九州島に侵攻して来たと考えている。

その一方で景行天皇は祖父崇神と父垂仁が残した北部九州倭人連合(大倭)を督励すべく、九州に派遣されていたことがあったのであろう。そのためいわゆる南九州への「クマソ征伐」が創作されたのだ。これが創作であるという根拠は、北方の蝦夷征伐には長々と「征伐の大義」が述べられているのに、クマソ征伐には全くそれが無いことである。

創作するにしても「南九州日向は我が皇祖の故地であり、そこに盤踞する化外の民クマソは征伐しなければならぬ」というような「大義」は書いておくべきであろう。それは露ほどもなく、ただ「朝貢がないから征伐する」というのである。景行天皇の「親征」などなかったと見るべきだ。

しかし景行天皇紀には親征の途中の日向で「御刀媛(みはかしひめ)」と出会い、豊国別皇子を産ませている。この皇子は日向国造の祖ということになっている。日向国造なのに豊国別という名が不審だが、最初の名は「日向国別」だったのが豊国別に変化した可能性は有り得るだろう。

そこでこの項の最初に挙げた「日向襲津彦」だが、父は景行天皇、母は日向髪長大田根(媛)という。母の名に日向が冠してあるのは無論ヒメが日向(古日向)の生まれであることを示すとともに、「髪長(かみなが)」は「神長」(かみおさ)でもあるから、古日向では並びなき巫女的な女王であった。

景行天皇の子ではないことは先の御刀媛に産ませた子が「豊国別皇子」と「皇子」が付されていることから推察される。要するに天皇の子ではないということである。

では誰の子か? 私は武内宿祢ではないかと思う。その日向襲津彦が南九州鴨族の一員として、航海に習熟し、半島へ、あるいは紀の水門へと船足を伸ばすことが可能になったことで、大和への足掛かりを求めた時に、かつて父の武内宿祢がそうしたように、紀の水門(紀ノ川の河口)から紀ノ川をさかのぼり、奈良県五条市のあたりから陸路で葛城地方に入ったのであろう。

葛城地方は南九州に由来する鴨系の大社が林立しているように、南九州とは縁が深い地である。そこを本拠地とした時に、名を日向襲津彦から「葛城襲津彦」に変えたのではないか。

こう考えると、葛城襲津彦が神功皇后の5年に脈絡なしに突如登場し、しかも人質だった新羅王子を向こうに届けるなどという大役が回った理由の説明がつく。紀の水門から南九州に回り、そこで南九州鴨族の交易船に乗り換え、北上して半島に行ったのではないかと思うのである。

【葛城の鴨系大社群】

葛城地方には上で触れたように鴨を冠する大きな神社が3つもある。

『延喜式』の「神明帳」によれば、①鴨都味波八重事代主命神社、②高鴨阿治須岐託彦根命神社、③鴨山口神社がそれである。それぞれ読みと祭神を挙げると、

①かもつあじなみ・やえことしろぬし命神社。祭神は八重事代主命。
②たかかも・あじすきたかひこね命神社。祭神は阿治須岐託彦根命。
③かも・やまくち神社。祭神は大山祇神。

①と②の神社の祭神は出雲系の神である。するとどちらにも「鴨」が付くことに違和感を感じるはずである。

両神社のホームページを参照してみると、どちらも弥生中期からの遺跡が発掘され、当時から祭られていたという。②の「高鴨」神社の場所が最初期の中心地であり、のちにやや低湿な①の鴨都味波神社のほうに移り、コメ作りに励んだという。

ところで①の方を神社サイドでは「味」を省略して「鴨都波」とし、「かもつば」と読むのだが、これは『延喜式』の「神明帳」を無視している。「味」を入れて「かもつあじなみ」と読むべきである。

そう読むことで②の「あじすき(阿治須岐)」の「あじ」に通うのだ。「あじ」とは「鴨」のことに他ならないので、①と②の神社名が生きてくるのである。

祭神はたしかに出雲族の神であるが、祭る由縁が神社名で示されている。オオクニヌシが葦原中国を皇孫に譲って出雲に引っ込んだ一方で、息子の事代主は「海中に没して消えた」(古事記には「その船を傾けて、逆手を青柴垣に打ちなして、隠れき」とある)のだ。

このことは事代主の海中逃避、すなわち「亡命」を意味しているのだろう。その行き先が南九州だった可能性が考えられる。神武東征の時に海上で出会った「塩土翁(しおつちのおじ)」は事代主だったという説もあり、オオクニヌシの子の事代主は海路についてもよく知っていたようである。

鴨族と出雲族の関係は相当古くからあったと思われる。

3つ目の「鴨山口神社」は祭神が大山祇(おおやまつみ)といういわゆる山の神であり、皇孫二ニギが高千穂から薩摩半島南部へ移動した時に「阿多地方」で「カムアタツヒメ(別名コノハナサクヤヒメ)」に出会い結婚したのだが、その父が大山祇(大山津見)であった。

大和地方にはこのような「山口神社」が多いが、葛城のこの「山口神社」には「鴨」が冠せられているのが他の山口神社と違う点だ。そして、この付近の大字地名が「櫛羅(くしら)」であり、同時に小字が「湊」というそうであるが、「櫛羅(くしら)」は大隅半島内部の「串良」が想起され、海の片鱗もない葛城地方に小字「湊」があるのも海の民南九州との所縁を感じざるを得ない。

【山城国風土記逸文】

葛城地方と南九州との近しい関係は『山城国風土記逸文』からも類推される。

山城国風土記によれば、京都の賀茂(鴨)神社の由来を大略次のように書いている。

<「賀茂建角身(かもたけつぬみ)命」は最初「日向の曽の高千穂峰」に下り、その後神武天皇以前に大和の葛城山に移り、しばらくして山代国の木津川に臨む岡田の賀茂を経て木津川を下って乙訓郡から鴨川をさかのぼり、久我(くが=今の下鴨神社の地)に到って定着した。そこでそこに賀茂建角身を祭る神社が造られた。それが賀茂社である。>

日向の曽の高千穂の峰に下ったのは皇孫ニニギノミコトだが、南九州の鴨族の伝承でも祖神は高千穂峰に降臨したようである。しかし逆に言えば、この鴨族の祖が高千穂の峰に天下ったという伝承が先にあり、皇孫の高千穂降臨説話が生まれたと言えなくもない。

ともあれ、伝承ではこのタケツヌミが南九州から大和の葛城地方に移動したと言い、それを文書化したのが「山城国風土記逸文」であった。けっして南九州の風土記による我田引水的な造作ではないという点に着目すべきである。京都で最も由緒のある下鴨神社の成り立ちが南九州からの移住者が元になっている――というのはその意味で第三者的な客観性があるとしてよい。

葛城地方の鴨系大社3社の林立は南九州に出自のある鴨族と、神武東征以前に大和地方に居住していた縄文系の出雲族(三輪山をご神体としていた)とが融合した証拠である。武内宿祢の子である「日向襲津彦」が紀の水門(紀ノ川河口)から紀ノ川をさかのぼり、五条から北へ峠を越えたところが葛城地方であり、そこに難なく本拠を構えたのちに「葛城襲津彦」と名を替えたのであろう。

【結語】

蘇我氏も、もとはといえば武内宿祢の子孫であり、大和では葛城地方に隣り合った蘇我川流域を所領としていた。しかし雄略天皇(在位457~479年)の時代に前代の安康天皇の暗殺(西暦456年)を巡って葛城襲津彦の曽孫の円大臣(つぶらのおとど)が攻め殺されたことにより葛城氏は没落の憂き目にあってしまい、葛城地方は天皇の直轄地となっていた。

葛城襲津彦が新羅などから連れ帰った渡来人を使役して美しい田園地帯としていた葛城地方を目の当たりにして、蘇我馬子が我が所領にしたいと推古天皇に申し出たのは、父祖が同じ武内宿祢であったという由縁があったというべきだが、しかし、葛城高宮は葛城氏の本拠地ではあったが蘇我氏の本拠地ではなかったのである。

※なお、葛城高宮は第2代綏靖天皇(和風諡号カムヌマカワミミ)の「葛城高岡宮(高丘宮)」と重なる。綏靖天皇ことカムヌナカワミミ(推定在位200~210年頃)は神武こと南九州投馬国王タギシミミの系譜であり、古日向(南九州)からの移住者の受け入れ場所としても機能していたに違いない。

のちに葛城襲津彦がまだ古日向にいた時分の名乗りの日向襲津彦として葛城地方に入った西暦350年頃になると、高所の葛城よりまだ御所市街地に近い低湿地の方の米作りが大きく発展し、葛城の段々田はやや荒れていたのではないかと思われる。襲津彦はそこに新羅からの帰化人を多数住まわせたのだろう。


蘇我氏の専横と没落(記紀点描㊳)

2022-01-08 15:10:33 | 記紀点描
【蘇我稲目から孫の蝦夷まで大臣を独占】

蘇我氏が朝堂に重きをなした最初は蘇我稲目が宣化天皇(第28代、在位536~539年)の元年に大臣(おおおみ)に就任してからのことである。

大臣という役職は成務天皇時代に武内宿祢が大臣(おおおみ=文官のトップ)になって以来、絶えて久しくなかったのだが、約200年後に復活した役職であった。

この時代には大連(おおむらじ)職(軍事を担当)として天皇側近の大伴氏と物部氏が先祖代々勤めていたが、文官としての大臣就任は蘇我氏が初めてである。

蘇我氏は実は成務天皇時代に大臣となった武内宿祢の子孫で、その系譜を示すと次のようになる。

武(建)内宿祢―蘇我石川宿祢―満智―韓子―高麗―稲目―馬子―蝦夷―入鹿

大臣になった稲目は、成務天皇時代に大臣に就任した武内宿祢から数えて6代目に当たる。これによって武内宿祢の活躍年代がおおむね特定できる。

まず稲目の誕生の時期であるが、宣化天皇の元年(536年)に大臣に就任したことは分かっている。その時の年齢が記されていれば直ちに逆算できるのだが、その年齢は残念ながら不明である。

そこで仮の年齢を当てることで、誤差はあるにせよ武内宿祢の活躍年代及び誕生年代もある程度類推できる。

仮に稲目が宣化天皇元年(536年)に36歳で大臣に就任したとしよう。そうすると稲目の誕生年は西暦500年ということになる。

武内宿祢は稲目の父・高麗から数えて5代前である。文官の男子直系の家筋ではおおむね一代が25年から30年であるから、5代前は稲目の誕生をさかのぼること(5×27.5年=)137.5年。そうなると500年-137,5年=362.5年である。この時代は仲哀天皇から神功皇后へ実権が移り変わる時だから、仲哀天皇に嫁ついだ神功皇后の時代がおおむね370年を含む時代になる。

(※文官の家系が一代おおむね30年というのは、藤原氏、有馬氏、大村氏、近衛氏、九条氏、二条氏、一条氏、日野氏など貴族の家系から判明している。武官ではやや短く25年である。)

したがって武内宿祢は370年をややさかのぼった330年頃の誕生ということになる。この誕生年は武内宿祢の生まれが景行天皇の3年だという日本書紀の記事にまさにどんぴしゃりである。私見では武内宿祢は330年頃に生まれ、仁徳天皇の終末期425年頃に90歳余りで亡くなっている(「景行天皇紀」「仁徳天皇紀」)。

天皇家に仕える臣下として武内宿祢と同じ「大臣」に就任したのは、ある意味で当然と言えるのかもしれない。

稲目が宣化天皇の元年に大臣になってから、大臣職は蘇我氏の専門職となった。

稲目から次代の馬子、その次の蝦夷まで、実に110年にわたって蘇我氏が大臣職を担っている。その占有ぶりは次の通り。

蘇我稲目・・・第28代宣化元年(536年)に大臣就任。第29代欽明天皇の31年(570年)死去に伴い退任するまでの35年間。

蘇我馬子・・・父の死の2年後の第30代敏達天皇元年(572年)に大臣就任。第33代推古天皇の34年(626年)死去に伴い退任するまでの55年間。

蘇我蝦夷・・・父の死の同じ年(626年)に大臣就任。皇極天皇の4年(645年=大化元年)に自死して退任するまでの20年間。

以上で分かるように蘇我稲目が536年に大臣に就任してから、孫の蝦夷が退任する645年まで、親・子・孫の三代にわたり110年間も文官の最高位にあった大臣(おおおみ)を独占したのであった。

この間、稲目は各地に私領というべき「屯倉」を次々に開設し、それを文書に秀でた帰化人(渡来人)に管理させることで、揺るぎなき利権を確保したのだ。

【蘇我氏の没落】

稲目の専横時代はちょうど欽明天皇の時代とすっぽり重なっている。欽明天皇の在位は540年から571年の31年だが、稲目の大臣就任期間は536年から570年であり、まるで稲目が天皇位にあったかのような重なりぶりである。

稲目は文書に明るい「経済大臣」として、先々代の第27代安閑天皇(在位534~535年)が定めたとされる各地の屯倉(西国を中心に26か所)を掌握し、さらなる増設を画策した。

次の馬子はこれまた推古天皇の時代と重なっている。推古天皇の在位は593年から628年の36年だが、馬子の大臣就任期間は572年から626年までの実に55年の長きにわたっている。

この55年というのは6代前の先祖武内宿祢が成務天皇時代(西暦350年頃)から仁徳天皇時代(~西暦427年)まで勤めた約70年には及ばないが、記録上確実だという意味では驚くべき長さである。

その長期にわたる蘇我政権の経済的基盤は上で触れた屯倉の掌握であるが、天皇家との婚姻関係がそれを保証した。

稲目は自分の娘「小姉君(おあねぎみ)」と「堅塩媛(きたしひめ)」の二人を欽明天皇の後宮に入れた。そして生まれた皇子のうち31代用明天皇、32代崇峻天皇、33代推古天皇という3代の天皇を輩出させたのである。

また稲目の子の馬子も娘「法提郎媛(ほてのいらつめ)」を第30代敏達天皇の皇后にしている。

【仏教の先進性を取り入れた蘇我氏】

稲目も馬子も、宣化天皇から次代の欽明天皇の時代に百済(聖明王)から送られた仏像や仏具、経典、さらには仏殿(仏像を安置する舎殿)に魅せられ、積極的な導入者となった。

この様子は明治時代に西洋由来の先進文物によるいわゆる「文明開化」の様相に近かったと思われる。物部氏や中臣氏が崇拝する「神道」も、仏殿の普及に倣って社殿を構築し始めたと言われており、日本固有の文物もその先進文化の影響でそれなりの変化を蒙っている。(※神道における祝詞奏上も、仏教の「経典読誦」に倣って文書化した面もあるのではないかと思う。)

馬子は欽明天皇の孫(馬子の娘・堅塩媛の孫でもある)であり、かつ馬子の娘・小姉君の孫でもあるという自分の血の二重につながったひ孫の厩戸皇子こと聖徳太子とともに物部氏を滅ぼし、また百済との関係で失脚した大伴氏を排除してからはまさに権勢並びなき地位に上り詰めた。

その挙句、晩年の第33代推古天皇(在位593~628年)の32年(624年)になると、3年前にひ孫で推古天皇の皇太子だった聖徳太子をなくしたせいか、何を血迷ったか推古天皇に「大和の葛城県は私の本貫の地でありますれば、ぜひ賜りたい」と要求している。

これに対して「あなたは私の叔父に当たる人だが、その要求は吞むわけにはいかない。後世の笑いものになってしまう」と推古天皇ははっきり拒絶した。馬子が自分の妹の小姉君から生まれ、推古天皇から見れば従兄弟に当たる「穴穂部皇子」や「崇峻天皇」を暗殺したのを危惧したのだろう。

馬子が死ぬと子の蝦夷が大臣職を継いで蘇我氏の専権は3代目に入った。

馬子の死から2年後の628年に推古天皇が崩御したが、次代の第34代舒明天皇(在位629~641年)を決めるに当たっては敏達天皇の孫の田村皇子を推すグループと聖徳太子の子の山背大兄王を推すグループとの間でひと悶着があり、結局、山背大兄王が家族もろとも心中して舒明天皇の即位となった。

【蘇我氏の滅亡】

欽明天皇は第30代敏達天皇の孫であると同時に推古天皇の孫で、蘇我氏との血縁はまだ濃いものがあった。ところが舒明天皇の皇后に舒明天皇の兄弟である茅渟王の娘「宝皇女」(のちの皇極天皇)がなると、その皇子・皇女の血は蘇我氏からは一層薄いものになったのである。

そのためもあり、舒明天皇亡きあとに皇后の宝皇女が皇位に就くと、蝦夷氏は天皇を揶揄するかのようなふるまいを見せ始めた。その描写が次の史料である。

<この年(皇極元年=642年)、蘇我大臣蝦夷、おのが祖廟を葛城の高宮に立てて、八佾(やつら)の舞をす。(中略)また尽くの国民を挙げ、併せて百八十部曲(かきべ)を発し、予め双墓(ならびばか)を今木に造る。一つをば大陵といい、大臣(蝦夷)の墓とす。もう一つをば小陵といい、入鹿臣の墓とす。>(「皇極元年条」)

推古天皇に「葛城がわが本貫の地だから私領にしたい」と言ったのは馬子であるが、その葛城の高宮に祖廟を造り、その前で「八佾(やつら)の舞」を舞わせたという。八佾の舞は中国王朝では天子のみに許された集団の舞であり、またあらかじめ墓を造ったのはいいが、その墓を名付けて「大陵」「小陵」というのも天子扱いであった。

しかも墓の管理者に聖徳太子の乳部(みぶ)をこき使ったというので聖徳太子の娘・大郎女王に大層恨まれている。

こんな専横がとどめを刺される時が来た。いわゆる「大化の改新」につながる「乙巳の変」(645年6月12日)によって、入鹿が舒明天皇と皇極天皇の子である中大兄皇子(葛城皇子)によって誅殺されたのである。蘇我氏の国政専権は3代110年で幕を下ろしたことになる。

(※「おごる平氏は久しからず」という格言があるが、平氏の氏の長者平清盛が太政大臣と内大臣を兼務したのはわずか10年にも満たないことを思えば、蘇我氏の専横の110年はとんでもなく長い。)

この時の暗殺グループの中にいた中臣鎌子(のちの鎌足)が中大兄皇子に評価され、中大兄が天智天皇になってから取り立てられて「大織冠」になることでのちの藤原氏の国政への道が開けることになった。

(追記)なお、「大化の改新」後の孝徳天皇2年(646年)3月には、中大兄皇子の献策によって、かつて蘇我氏専横の経済的な基盤であった「屯倉」181か所が、御名入部(みないりべ=皇族の名による部民)とともに廃止され、ここに名実ともに蘇我氏一族の存立は瓦解した。