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天智天皇の死を巡って2⃣(記紀点描㊺)

2022-02-11 09:19:06 | 記紀点描
「天智天皇の死を巡って」の今回は『三国名勝図会』にその伝承のある地域のうち「頴娃郡」の伝説を取り上げる。(※『三国名勝図会』を引用する場合、『図会』と略記する。)

【薩摩藩頴娃郡に伝わる伝承】

頴娃郡は今日の南九州市(頴娃町と知覧町)と指宿市の開聞町域に広がり、その中でも開聞(ひらきき)神社(正式名「枚聞神社」)が古来の中心をなしていた。

この開聞神社の祭神について『図会』では諸書を勘案し、「祭神については諸説あるが、薩摩藩で権威のある『薩隅日神社考』(本田親盈著)ではサルタヒコ。『開聞縁起』では当地を竜宮界とみなし、ワタツミ。『開聞古説』ではトヨタマヒコ・ヒメ、シヲツチノオヂ。」などが参考になるとしている。

『図会』編集当時(1843年)の開聞神社の祭神は、ホホデミ・トヨタマヒメ・タマヨリヒメ・シヲツチノオヂ・潮干玉・潮満玉・天智天皇であったが、編纂者は、古い伝承には天智天皇はなく、天智天皇が祭神になったのは「天智天皇が寵妃・大宮姫を当地に訪ねるべく巡見したことから付加された」と編集者は書いている。

<天智天皇はかつて筑前朝倉宮に長くありて、その時、薩摩開聞山に巡視ありしを、「潜幸崩御」とし、大宮姫は天皇の内侍・妃賓のたぐいにして、この土に(流)謫せられしを、皇后と付会しせしなるべし。>(『図会』第2巻563ページ)

とあるように、天智天皇(中大兄皇子)が百済救援隊を組織して筑紫に下り、筑前の朝倉宮に長く逗留していた時に、そこで得た「内侍か寵妃」の類の大宮姫が、生まれ故郷の開聞のちに流されたのちに、ヒメを慕って指宿経由で開聞に「潜幸」した(ひそかに開聞までやって来た)。そして長く大宮姫と暮らし、そこで「崩御」したという伝承を紹介している。

そして大宮姫を「皇后」としているのは、単に天皇の側仕えの内侍か寵妃のたぐいなのを、当地では皇后に擬しているに過ぎない、と書いている。

『図会』の編集者は、この天皇と大宮姫とが一緒に暮らし、さらに二人の墓まであるという地元の伝承については、以上の結論を導くのに8項目の反証を列挙して詳細に批判しており、大宮姫が天智天皇の皇后であったということと、二人が開聞の地で長く暮らし、墓まで存在するという伝承については完全否定している。

したがって天智天皇の死は南九州の開聞山麓においては有り得ないという結論である。

しかし『図会』では骨子として次の2点については否定はしていないことに留意しておかなければならない。

(1)天智天皇が百済救援のために筑前朝倉宮に滞在中、南九州まで巡見に来ていること。
(2)開聞神社の鎮座する地域には「大宮姫」の名にふさわしい女人が存在したこと。

【薩摩藩の西海岸に残る大宮姫伝承】

天智天皇が筑前(朝倉宮及び長津宮=磐瀬行宮)に長く逗留している間に、南九州まで巡見の足を伸ばしたらしいことは、霧島市の国分清水山中にある台明寺の「青葉の笛」(青葉竹)の伝承や、後述の「志布志郷」の伝承にも見られるのだが、実は大宮姫伝承が薩摩藩の薩摩半島の西側の海岸部に伝えられているのである。いずれも開聞からは遠く離れた地域である。

(1)吹上郷の「久多島大明神社」・・・天智天皇の皇女が海上で生まれ、捨てられた島だという。皇女を産んだのはおそらく大宮姫だろう。(『図会』第1巻545ページ)
(2)串木野郷の「羽島埼大明神」・・・天智妃の大宮姫が頴娃に行く途中、ここに鏡を残したので「鏡大明神」となるが、のちに廃された。(『図会』第1巻724ページ)
(3)阿久根郷の「開聞九所大明神社」・・・大宮姫が頴娃に下る途中、波留(はる=地名)に寄られた縁で建立された。(『図会』第2巻18ページ)

以上の3か所だが、開聞への距離から言うと、(1)から(3)ではなく、その逆になるが、いずれにしても大宮姫は筑前から生まれ故郷の頴娃に帰るのに、筑紫(九州)の西海岸を経由して帰郷していることになる。

このルートは天智天皇が開聞に来るのに、大隅半島東海岸の志布志から薩摩半島東岸の指宿を経由する東からのルートを取っているのに対し、大宮姫の開聞への帰郷では西回りルートを取っていることを表しており、筑前からの南九州への船路としてはきわめて合理的なルートである。

これは「大宮姫」に値する女人が筑前まで行き、百済救援軍の指揮所である朝倉宮(または斉明天皇の遺体を運んだという長津宮)に出向したことは事実としてあったのではないかという推測を可能にしよう。

今「大宮姫に値する女人」と書いたが、そもそも大宮姫とは固有名詞ではないのではないか。要するに開聞神社という大社(大宮)に奉仕する伊勢神宮の斎宮(いつきのみや)のようなタイプの巫女的な存在の女性を「大宮姫」と言ったのではないか。(※埼玉県さいたま市は旧名大宮市だが、ここには武蔵国一之宮「氷川神社」という大社が鎮座する。それで大宮市と名付けられている。)

そのような存在の女人がなにゆえに筑前に行ったのだろうか?

この先例と言っていいのが「神功皇后」だろう。神功皇后は新羅を討つ前に武内宿祢とともに様々な神がかりを示していたことは「仲哀天皇紀」に詳しい。一言でいえば「戦勝祈願」だが、大宮姫も「百済救援及び唐・新羅降伏」というような神がかりの戦勝祈願を行ったのだろう。

しかし結果は百済救援軍の無残な敗北であった。当然ながら大宮姫と思しき巫女的女人は叱咤された挙句、傷心のまま故郷の開聞に送還されたのだろう。

しかし筑前にいる間に中大兄皇子の寵愛を受けることになった。もちろん妊娠するだろう。その結果が吹上郷「久多島大明神」の項に書かれた「産んだ子を捨てた」という伝承につながろう。また祈願の際に使用した「鏡」ももう不用とばかり、串木野の羽島埼に廃棄したのだろう。

このような巫女的な女人の存在を示唆する事例が、同じ開聞神社を巡ってあらわになった一件があったのである。それは『図会』第2巻「頴娃之ニ」に載る伝承だが、これは事実と思われる。

【巫女の存在の実例と大宮姫】

この巫女は開聞宮からやや東に離れた指宿市山川町利永にいたという。この巫女が神がかりになり、大略次のような託宣を下している。

<江戸時代以前から、開聞神社は神道の総本家と言われる京都の吉田家には従うことの無い独立した古社であったが、明暦3(1657)年に神官であった紀仁右衛門と弟の半助の両人が伊勢参拝の時に京都の吉田家に上り、任官(神階・官位)を受けたところ、弟の半助は京都で亡くなり、兄の仁右衛門は帰郷後に死亡してしまった。
 
それどころか、妻子や下僕まで併せて7名が死ぬ事態となったのであった。そうした時に利永の祝女(はふりめ=巫女)が神がかりし、「当社の神官の法式を犯し、吉田家より任官等を受けたゆえ、神罰その身に及ぶ」という託宣を述べたという。そこで神社の別当寺であった瑞応院の住持・快周法印と祠官のすべてが開聞神にその非を謝罪することになった。

そのため紀氏の男子一人は許されて生き残った。その子は後の紀権右衛門である。>’(『図会』第2巻・605~607ページ)

江戸時代に入ると、京都の吉田家が神社の格付け(神階)や神官の官位について取り仕切るようになり、全国に影響を及ぼすようになったが、古社である開聞大社は吉田家の傘下には入らず、独立した古式を温存していた存在であったことのわかる資料である。

この古式を守らなかったがゆえに、開聞社を代表する神官家である紀氏が大きな痛手を蒙った。紀氏に起きたこの大量死の原因が開聞神の「神罰」であったと託宣を下したのが、利永にいた祝女(はふりめ)であった。沖縄に見られるノロのような存在だろう。

この時代になるとすでに開聞社など大社に属する祝女(巫女)はもう存在せず、おそらく別当寺という神社の事務方がすべて男子(僧侶)であった関係だろうか、斎宮に当たる巫女を神社の内部に置くことは禁じられていたのかもしれない。

とにかく開聞神社からは東に数キロ離れた一般の村落内にいた祝女(はふりめ)に神がかりしたのであった。

時代をずっとさかのぼった古代以前、神社は寺院とは違い、斎宮に相当する若くて神がかりに向いている処女が仕えていたと思われる。開聞神社においては「大宮姫」と言うべき処女が仕え、「神懸かりによる託宣」が事あるごとに行われていたと考えられる。

その中でも優れた祝女が選ばれて、筑前に上り、朝倉宮及び長津宮で「戦勝祈願」に奉仕したのではないか。「イキナガタラシヒメ」とか「ヒミコ」「トヨ」といった具体名は分からないが、戦勝祈願を行った。しかし残念ながら唐・新羅連合軍との戦いは惨敗に終わってしまった。

祈願明けに彼女はお役御免になり、中大兄皇子の寵愛を受けた。しかし祈願の結願ならずということで、故郷の開聞に送還されることになったはずである。戦いが終わったのが663年の8月28日であったから、それからさほど時期を置かずに船上の人になったに違いない。

二人は結ばれず、彼女(大宮姫)は九州の海岸を西回りで開聞に帰り、中大兄皇子は筑紫滞在を切り上げて大和に帰った。

中大兄皇子は661年に母の斉明天皇が朝倉宮で崩御したのち、即位式を上げられずに天皇になった。これを「称制」と言うが、この時期に筑紫と対馬に防人と烽(とぶひ=のろし)を置き(664年)、長門と筑紫に城を築き(665年)、百済からの亡命者2000人を近江に移したり(666年)と、唐からの攻撃に備えることに集中していた。

そして667年3月には都を近江に移し、同年11月には守りの仕上げと言うべき「高安城」「屋島城」「金田城」を百済人を使って構築した。668年1月3日、ようやく近江宮において天皇として即位したのであった。

しかし669年に最大の腹心であった中臣鎌足を失い、その2年後には自身も崩御する。天皇位に就いてからはわずか4年後のことであった。

この死について様々な説が出されているが、「白馬で山科山中に入り、そのまま行方知らずになった」という『扶桑略記』説を検証するのがこの論考のの目的であった。次は『三国名勝図会』に載る「志布志郷」の「御廟伝承」を取り上げたい。








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