鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

母を憶う数々の歌

2023-08-20 09:53:44 | 母性

「おもう」という日本語に当てる漢字は相当あるが、「想う」は「回想」とも表現でき、そこはかとなく「おもわれる」「おもわれてならない」とやや受動的だが、「思う」はあれこれ斟酌してこうではないかという「おもい」で、「考える」に近い。ともすれば能動的な「批評・批判」となる。

先日のブログで『母を想い、父を思う』と漢字を変えて表現したのは、そのあたりを考えてのことだった。

母親に対する「おもい」の中で、もっとも濃厚なのは母親への追慕だろう。母親を想い出し、絶対肯定的に慕う「おもい」である。追慕は懐かしさと慕わしさの合わさったある意味で宗教的な感情に近い。「追憶」とも表現できる。

世界中の母親は時代に関わりなくそれぞれの子どもにとって「追憶」の対象である。(※ただし子供の成長過程に応じてちゃんと寄り添ってくれた場合だが―。)

万葉集の第20巻の中には奈良時代に東国から九州北部の辺境の海岸地帯に出征して異国(主として朝鮮半島の新羅)からの侵入を防ぐための任務に就いた「防人」(さきもり)がいたが、彼らが出征時に詠んだ歌(ほとんどが短歌)が100首余り載せられている。

その中でも次の「母とふ花」の一首は極めて追慕感が強い。

<時々の 花は咲けども 何すれぞ 母とふ花の 咲き出来ずけむ>(巻20、4323番。天平勝宝7年=755年)

(訳)季節ごとにいろいろな花が咲くのだが、どうして母という名の花が僕のそばに咲いてくれないのだろう。

この歌は丈部真麻呂(はつせべのつかい・ままろ)という人物詠んでいる。山名郡(遠江より東の国だが国名は不詳)から防人に選ばれて九州へ赴く際なのか、向かう途中なのか、任地に着いてからなのか、詠んだ日時は分からないのだが、とにかく母親を「花」に喩えて詠んでいる。

「ああ、お母さん、会いたいよ」という想いが、普通なら恋人か若妻になぞらえそうな「花」を母親に供しているのだ。

真麻呂がこれを詠んだ年月は天平勝宝7年2月で、この年は第45代聖武天皇の世であった。奈良では東大寺の大仏殿が完成した頃で、聖武天皇にとっては仏教による国家統一に「花」を添える大仏の建立だったが、庶民の「花」はやはり母親だった。

時代は1100年も降るが、明治の半ばに熊本県の人吉出身の音楽家・犬童球渓という人が訳詞した名曲「旅愁」は文部省唱歌として人口に膾炙しているが、この原曲「Doreaming of Home and Mother」(「生家と母を夢に見て」)を作詞作曲したのはアメリカ人オードウェイという人だ。

以前にも人吉旅行を書いた時に触れたことがあるが、原曲と「旅愁」とは似ても似つかないのである。「旅愁」は一口で言えば「故郷の父と母が懐かしいが、今は故郷のことを夢路に見るだけだ」 だが、オードウェイの方には父親は一切登場せず、母親一辺倒の思い出なのだ。

夢に母が出て来ると天使が現れる。眠っている自分の横に母がいて、自分の髪を撫でてくれるーーという母へのおもいは追慕を通り越して母がまるで「聖母マリア」のごとき存在であるかのように書かれている。

ここまでくると、甘ったれるないい加減にせよ、と突き放したくもなるが、このように熱烈な母親崇拝を抱くなるような家庭環境だったオードウェイが羨ましくもある。

もっとも母親がカギを握っている歌詞を持つ歌は、意外にもビートルズが唄っている。「レット イット ビー(Let it be)」がそれである。

この歌に登場するのは「マザー メアリー(Mother Mary)」で、自分に困りごとがあると、マザーメアリーがそばに来て、「レット イット ビー」とささやいてくれる。

この「そのままでいいのよ」を補えば、「あなたはそう困らなくていいの。今まで通りにやりなさい」ということで、母親からこう言われたら、たいていの子どもは自信を取り戻すだろう。

この「マザー メアリー(Mother Mary)」とは作詞作曲したジョンレノンからすれば、「聖母マリア」に近い存在なのかもしれない。

ビートルズの「レット イット ビー」はたまにカラオケで唄うことがあるが、ここまでマザーメアリーの存在の大きさを強く感じて唄うことはなかった。

オードウェイにしてもジョン・レノンにしても、母親の存在感を最大限に味わった人 たちではなかったろうか。

日本の歌謡曲では母親をタイトルに持つ歌はかなりの数になるが、その中でも寺山修司作詞の 『時には母のない子のように』は母親の存在感を実に端的に表現している。

『時には母のない子のように』(1969年リリース。歌手はカルメン・マキ)

「時には母のない子のように だまって海を見つめていたい

時には母のない子のように ひとりで旅に出てみたい

だけど心はすぐ変わる 

母のない子になったなら だれにも愛を話せない」(2番は省略。最後のフレーズは同じ)

この曲では最後のフレーズ「母のない子になったなら だれにも愛を話せない」が肝だろう。

母親とは心身の内に、愛を多量に持っている存在だということである。

そのような母親の見返りを求めない愛情が、子の心の成長に最大の恩恵をもたらさずして他に何があるだろうか。

 

 

 

 


母を想い、父を思う

2023-08-18 14:18:57 | 母性

昨日は旧盆に「母を想う」として母のこと、特に私ら4人の子ども時代に母が普通の母親のようには寄り添ってくれなかった状況について、弟の不登校から始まった我が家の「不都合な」出来事を書いた。

こんな不特定多数の人々が見るであろうITメディアに載せるべき話題ではないと、否定的な心情が頭をもたげるのだが、もう歳も歳だし、オープンにして嗤われても構うまい。

とにかく我が家は核家族でありながら両親が教員生活をフルタイムで送っていた家であった。家事万端は住み込みの女中さんに任せていた。

といって、一人の女中さんがすべてを消化し切れる仕事量ではなかったので、母も早朝に起きて何らかの家事をこなし、夕方の帰宅後はたいてい台所に立って料理の大半を取り仕切った。

繕い物なんかもすべてではなかったが、大方やっていたように思う。やっていたようだ、という書き方だが、具体的にどのような姿でどうやっていたかの記憶はない。多分、もう眠りについていたのだろう。

姉が一番上(唯一の戦前生まれ=1941年)で、下は3兄弟(1946年生、1950年生、1951年生)であった。

3兄弟が揃って小学校に入っていた時、兄が6年生、私が3年生、弟は1年生であったが、この成長期の3兄弟が全部小学校にいるとなれば、炊事・洗濯、学校関係の行事や提出物、持ち物の準備、など親はかなり忙しいはずで、専業主婦のほかにもう一人お手伝いが欲しいくらいだったと思う。

ところが我が家はフルタイムのサラリーマンかつ「ダブルインカム」で、母は男性教員と同様の仕事量があったから、我々との密接な関係はかなり阻害されていた。

姉などは思春期以降、母を「あんた」と呼んでいたが、それくらい母子関係は希薄であった。娘は家庭の中で母の行動を見習い、あるいは手伝いをさせられて成長して行くのが当時、当たり前の姿であったのだが、姉はそれを阻害されていた。

姉にとっては「お母さん」という女としての成長の先の一つの目標であるはずの「母親の姿」が見えなかったことへの不満が「あんた」という母への「軽称」だったに違いない。

男3人の兄弟にしても面白かろうはずはなかった。私も兄もそんな母親の姿が容認できなかったのだが、反抗期になってもそれへの波乱は起こさなかった。

ところが弟は元来おとなしいタイプなのだが、中学2年の不登校以降は母親に対して反抗的な態度をしばしば見せていた。

弟の反抗も空しく、母のフルタイム教員生活は続行された。「中今」(なかいま=今最優先すべきことに取り組むこと)の原則からすれば、弟の登校拒否を防ぐためには母が教員を辞めて家庭に入り、子どもたちに寄り添うことが弟(のみならずすべての兄弟)にとって最上の方途であった。

しかしその最上の方策は取られず、母が教員生活をやめることはなかった。

母が教員生活をやめると、せっかく30年近く勤めて来たことによる収入のみならず、辞めた時の退職金や60歳まで勤めればすぐにもらえる「恩給」(と母などは言っていた)の額が少なくなる、などと計算が働いたらしい。

今から思えば、情けない話である。こんな計算的知恵はどうも父が振りかざしたようなのだ。

そこで今度は「父を思う」に話を移したい。

ここのカテゴリーは「母性」なのだが、話の飛躍は許してもらいたい。

父は明治40年(1907年)の生まれ、鹿児島県奄美大島の名瀬市の出身で、旧制大島中学を卒業後に代用教員として母校に赴任したが、期限後に鹿児島市にあった教員養成の夜間学校(戦後に新制鹿児島大学の教育学部)に通って正式の教員免許を取得し、再び大島中学に赴任したが、1年で辞めて東京に出た(おそらく昭和3年=21歳の頃)。

運よく東京府の小学校教員に採用され、赴任校で同僚として知り合った母と結婚したのが昭和14年(1939年)だった。戦時中は国民学校とは別の青年学校などで教えたが、軍隊への応招はなかった。

戦後は一時、新制高校の教壇に立ったが、すぐに新制中学校に移り、やがて教頭を経て校長になったのが昭和27年(1952年)だった。45歳くらいで中学校の校長はかなり若いが、当時の東京では学徒動員かれこれの戦争がらみで教員不足だったようだ。

戦争には招集されず、校長には若くしてなるという幸運に恵まれた教員生活だったはずだが、どうも金にはうるさかった。「戦時国債に応募したのだが、返されなかった」などと愚痴るのを聞いたことがあったが、「戦争に行った人はそれどころではなかったのに、ケチなことを今さら・・・」などと思ったことがある。

また郷里の奄美大島に家族そろって帰ったことはなかった。

奄美は1953年まで米軍の統治下にあり、確かにしばらくは帰ることが不可能だったのだが、日本への返還後は誰でも自由に渡航できた。両親とも教員だったのだから夏休みなどの長期休暇に一家そろって行けば行けたはずなのに、そうしなかったのは、今から思えば旅行費用が掛かり過ぎるからだろう。

またテレビも、日本国中で一大普及期だった上皇様と美智子さまとのご成婚の時には購入せず、奄美大島の林業試験場に勤めていてちょうど退職を機に東京の我が家にやって来た伯父(1901年生)が資金を提供してくれてやっと購入するという有様だった。

このような父だったから、母が教員生活を辞めるなんてことは許さなかったに違いない。母としてももうその頃はすっかり教員(サラリーマン)生活が「収入と恩給の得られる天職」だから辞めたくないと考えていた。つまりオヤジ流の「金(かね)本位主義」の妄執に引っ掛かってしまったのだ。

父が私に口癖のように「K大の理財科に進学したらどうだ」と、くどく言ったのを覚えている。K大を出れば大手の金融機関に就職でき、特に金融機関は給料もボーナスも高額だというわけである。こっちの希望よりもまず収入(給料)なのであった。

それよりも何よりも兄弟たちの切望は「母の寄り添い」だったのだ。母親の寄り添いこそが子どもの自己肯定・自己実現の最上のクスリだ。

結局、兄弟3人のうち誰も金融機関はおろか教員になった者もいなかった。ほぼ正式な就職はできなかった。姉だけは教員と結婚したが、弟は32歳で死んでしまった。

子どもへの寄り添いよりも「金(収入)への寄り添い」を優先した家族の姿がそこにあった。

 


母を想う

2023-08-17 11:43:55 | 母性

旧盆の8月13~15日を過ぎて、16日は送り盆だ。

お盆だからと言って、我が家では祖霊棚に特別なお供え物をするわけではないが、今年は母の没後25年ということで果物と水ようかんなどをお供えした。水とお茶は毎朝供え替えている。

母は平成10年の10月30日に他界した。大正4年生まれで、享年83歳であった。

生地の東京では一般的に新暦の7月15日にお盆を迎えるのだが、平成10年のその日に盆の読経に来るはずの某寺の僧侶を仏前で待っているうちに人事不詳に陥った。何でも当日はかなり寒かったそうである。

すぐに近くの医院に入院したが、人事不詳から回復せず、その日から数えて108日後の10月30日に息を引き取った。葬式の前日だったか、兄か兄嫁かからそう聞いて感慨深いものがあった。108日の108という数字がまず意味を感じたし、旅立った10月30日は私の結婚記念日だったからである。

人事不詳の108日の間に、何回か私の視界の中で「オーブ」と言われる霊的なものを見ていたが、あれは母の魂だったと思われてならない。夢ではほとんど記憶に残るような母を見ておらず、あれがそうだったのか100パーセントの確信はないが。

母は7歳上の父と教員同士の職場結婚をしたのだが、子ども4人を生んでもそのまま教員生活をつづけた。二人とも次男・次女同士だったので核家族であり、子どもの養育は乳飲み子時代のそれぞれ4週間寄り添っただけで、あとは「お手伝いさん(女中)」に任せて働いた。

教員だから夏休みを中心に長期休暇があり、その点は恵まれていたと言えば言えるが、それは父母の方の感覚であって、我々子ども4人からしたら、「母ちゃん、もっとそばにいてくれ」というのが本音、というより「本能」であった。

朝学校に行く時に母はもう出勤しており、午後学校から帰っても母はいない。「行っておいで、気を付けて」も「お帰り、今日は学校どうだった?」も聞いたためしはない。

それどころか入学式も卒業式も母の参列はなかった。同じ区内の公立小学校では入学式も卒業式も同じ日に行われるからだ。今なら副担任がいて都合が付けられるのかもしれないが、その当時はそんなものはなく、担任である以上、赴任校の式から抜け出すわけにはいかなかった。

4人の子どもたちはそこそこに健康で学校をたびたび休むというようなことはなく、その点では父母の仕事の遂行に寄与していたのだが、弟は中学2年(14歳)の時に不登校に陥った。体の欠陥ではなく、精神の欠陥というか不安定のためである。

こんな時、普通なら母親が寄り添うのだろうが、我が家はそうしなかった。むしろ弟の不登校を「だらしがない」というような本人へのダメ出し的な観点でとらえてしまったのである。

母が「(弟の)首にロープを付けて学校に引っ張っていきたい」というのを聞いたことがあったが、「それを言っちゃあお仕舞い」で、我々からすれば全く反対に「母の首にロープを付けて家に留めておきたい」だったのだ。

収入が減るのを畏れた金(かね)本位主義の妄想に、父のみならず、母までが陥ってしまったのかと、今さらながら残念至極である。収入の事などは2の次、まずは母が学校をきっぱりやめて、弟のみならず子どもたちに寄り添うべきだったのだ。

弟は2年後には精神病院へかかることになったのだが、母の退職は父の長期入院と死亡の年(1970年)であり、それは弟が不登校に陥り、精神を病み始めてから何と5年後のことであった。

青年期は精神的な成長も大きいが、精神的な症状の進行も早い。5年という歳月が弟の精神を大きく蝕んでしまったのである。その後若干は持ち直したかに見えた弟の疾患は元に戻ることなく、32歳の若さで他界してしまった。

神道の考え方に「中今」(なかいま)という言葉があるが、これは「今に中る」(いまにあたる)ということで、「今現在何が一番大切か、優先すべきかを考え、それに取り組む」ことで、この考え方は宗教によらず人間社会の普遍的な真理だろう。

ところが父母の優先順位は二人で働くことによる複収入(ダブルインカム)だったのだからたまらない。弟の不都合は後回しにされてしまったのである。

父も母もあの世で相当反省を強いられているような気がする。いまだに父母に関してほど良い夢を見ないのはそのせいかもしれない。金の必要のないあの世でまだ金の算段にしがみついているとは思えないが、執念を通り越した妄念に支配されていたら気の毒としか言いようがない。

そうは言っても父と母なしにこの世に生まれて来たのではない。父母の恩は感じているし、両親を否定するものではない。ただ、父母のとった道を反省しつつ我が道を生きて行こうと思っている。


「母の友」は健在

2023-04-26 21:42:51 | 母性
「母の友」という雑誌が1953年に生まれて今年で70周年だそうだ。

「友」というと思いだされるのが、子どもが小学校時代に夏休みに学校から課題として出される「夏休みの友」で、単に「友」と言い交わしていた。「友を早く終わらせなさい」というふうに。

夏休みの宿題では日記と絵や工作が主流だが、親としてはこの「友」のおかげで学習面の叱咤が軽く済んでいたのでありがたかった。

「母の友」という雑誌(月刊)は発行元が福音館書店で、この出版社は「くりとぐら」なる童話で著名だが、名称からしてキリスト教関連だろうと思われる。

しかし「母の友」は創刊の由来が、母親が忙しい合間を縫って子どもに童話の一つでも話して聞かせる手助けをしたいという趣旨だそうで、そこには宗教色は感じられない。

子どもに対して母親が寄り添いながら童話(昔話)を読んで聞かせるという姿は、宗教以前の行為に違いない。

当の子どもも、親や祖父母の語る昔話を好んで聞きたがるものだ。

ところが昨今はテレビやスマホによるそういった話のたぐいが、アニメを伴って画面の向こうに映し出されるので、親や祖父母の出番が少なくなってしまった。

その点で「母の友」の存在は貴重である。

昔話が上述のようにアプリに取って代われつつある現在でも、このような雑誌の上で読み継がれているとは奇跡に近いと思われる。

もっとも福音館書店ではタイトルの「母」が今日受け入れられるだろうか、というような危惧があり、変えてしまおうということも検討されたらしい。

昨今の母親による昔話の読み聞かせが薄れつつある時代、また性差(ジェンダー)を無くして行こうという時代に逆行しはしないか、そもそも「母」という言葉が重すぎはしないか、などと論議されたという。

しかしながら福音館書店はこれまで通り「母の友」として発行することに決めた。「親の友」でもなく「保護者の友」でもなく、やはり「母の友」として存続させるという。

大いなる決断だ。大いに支持したい。

母親が肉声で子どもに寄り添い、子どもと密接なやり取りをするのは哺乳類の一員である人間の自然な姿である。

子どもの自然な成長にとって母乳と同じかそれ以上に大切なのが母親との繋がり感だ。これあってこそ子どもは日々の安心感が得られ、明日への成長が保証される。

万葉の昔から母は特別な存在として見られていた。次の歌は筑前国司だった山上憶良が、天平3年(731)に肥後の国から都(大和)に上った熊凝(くまのこり)という若者が、旅の途中の安芸国で死んでしまったのを悲しみ、熊凝に代わって詠んだ歌だが、母親への格別な想いがひしひしと伝わる。

<たらちしの 母が目見ずて 雄々おしく いづち向きてか 吾が別るらむ>(万葉集第5巻)

――いつも心を満たしてくれた母の目の届かぬところで、男らしく死ぬ身だが、いったいどこを向けば母にさよならできるのだろうか、ああ、お母さん!

母親と「授業参観」

2022-12-09 18:24:34 | 母性
昨日の8日は77年前に日本軍の真珠湾攻撃(日米開戦)があった日だが、今年の8日(7月)は安倍元首相が暗殺された日として記憶に残っている。

安倍元首相が、奈良県の近鉄西大寺駅前で参議院選挙候補者の応援演説中に背後から忍び寄った男・山上徹也容疑者の改造拳銃で撃たれ、そのまま息を引き取った事件だが、ちょうど5か月前のことであった。

山上容疑者は精神鑑定を含め、今なお「鑑定留置」という措置が取られており、精神鑑定医の検査の下に置かれているという。

鑑定医は精神鑑定はもちろんだが、成育歴なども詳しく調べているようだ。その中から暗殺の動機も解明できるようだが、12月8日付の朝刊にはその様子が4面記事に紹介されていた。

山上容疑者がこの事件を起こした理由としては、母が旧統一教会の信者となり、1億円という多額の寄付をしたことによって家族の経済状況がめちゃくちゃになり、本人は行きたい高校にも行けず、社会のルートから外れて行ってしまったことにあったことは知られている。

この際、母を憎むという方向には行かず、旧統一教会そのものを憎む方へ思いを募らせて行った挙句、統一教会に肩入れしているとしか思えなかった安倍元首相に刃が向けられたのだった。

このことが安倍元首相を狙撃した直接の理由だが、刃の先が旧統一教会でもなく自分の母親でもなかったのは不思議と言えば不思議である。

彼にとって母親は小さい頃に自殺してしまった父親亡き後、最大の心の拠り所だったので手に掛けられなかったのだろう。また旧統一教会は母親が熱心に通い詰めている場所であり、母親想いの彼には教会は憎いがそこを襲撃したら母親が悲しむかもしれない、居場所がなくなるかもしれない――との想いが心のどこか片隅にあったゆえ、襲撃できなかったのではないか。

鑑定留置中の山上容疑者に寄り添っている鑑定医に対し彼はこんな供述をしているそうだ。

<母親は統一教会の用事があって、学校の授業参観に来なかった。>

このあとを彼の心を忖度して続ければ、<だから母親から見捨てられたようで悲しかった。クラスの友達に引け目を感じた。>だろう。

父親がいて、授業参観でもPTAでも何でも、母親がちゃんと学校に顔を出していたのに、父親が自死し、母親が旧統一教会に入り浸るようになってからすっかり学校に来なくなったのが寂しかったのだ。母親想いの彼にとってこれは非常に由々しきことだったに違いない。

そんな心の傷も母親が気付いてすぐに回復されればしこりとして残らないが、山上容疑者の場合は、母親が完全に統一教会の虜になったためこころの傷はそのまま放置されてしまったのだろう。

ところが私の場合だが、母親は授業参観は無論のこと、PTAの会合にも、何と入学式・卒業式にも来なかったのである。

母親は小学校の教師であり、私の通学する小学校と同じ地域の学校に勤務していたので、どうしても私の小学校の入学式・卒業式と重なってしまい、担任を持っていた母が来ることはできなかった。

このことを考えると私なども山上容疑者同様に暴発してもおかしくない。しかし彼の場合は母親が旧統一教会に多額の寄付をした(させられた)ために家庭が破産状態に陥ってしまったのだが、私の場合はそうではなかった。

父親も教師で、当時の教師の給料は安かったらしいが、母親とのダブルインカムで4人兄弟だったが経済的には困るようなことはなかった。

しかし心理的には山上容疑者同様、母親が常に近くで寄り添うようなことはなかったため、淋しさが常に介在していた。

朝学校に行く時には母親が先に出勤しているので「行ってらっしゃい。忘れ物はないね」もなく、学校から帰って来ても「お帰り。今日はどうだった」もなかったのだ。山上容疑者がこれを聞いたら溜息をつくかもしれない。「嘘だろっ!」と。

慣れてしまう他なかったのだが、慣れ切れなかった弟は中2の時にとうとう学校を休むようになってしまった。そして精神科のもとへ・・・。「過ぎてしまえば」というトップギャランの唄があるが、いまだに過去のこととは思えないのである。