2011年12月31日(土) 曇り時々晴れ
8;00
宿を出発。
少し街道から外れ瀬田川に沿って琵琶湖を眺めながら歩く。
広々として気持ちが良い。
京阪電車の駅を越え、やがて膳所(ぜぜ)の街道商店街にはいると右、湖側に再築された膳所城が見える。
「ぜぜ」ときけば百人一首の「あさぼらけ 宇治の川霧 たえだえに
あらわれわたる ぜぜのあじろぎ」 が先ず浮かんでしまうのだが、歌の方は「瀬々」であり
こちらの「膳所」とはまた別。
この「膳所」とは読んで字の如く、天智天皇の時代、この辺りの場所を料理する場所→御膳を設える場所として選んだところから来ている。
大晦日というのにあまり賑わいのない商店街を抜けると右側の湖畔に膳所城、左側に膳所神社がある。
しばらく歩いて左側に木曽義仲や芭蕉の墓がある義仲寺、さらに行くと左側の道の奥に
滋賀県庁の瀟洒な建物が見える。
県庁の一本向こうに国道1号が走っている。旧東海道は大津市街を迂回するように続き、
やがて大きな161号線にぶつかる。
10:00
街道から左に折れれば大津駅から京都、右に折れれば
北国街道へと続く。
↑
国道脇の本陣跡
161号を左折し、道標だけの大津本陣跡を通り過ぎると、前から懐かしい顔が!
京都まで同行する桃子ちゃん夫妻である。
待ち合わせの安養寺に早めに着いたのでここまで北上してくれたらしい。
いろいろ話を弾ませながら大きな国道を歩く。(このあたり国道1号と161号が合流している)
待ち合わせに選んだ安養寺は、百人一首にある蝉丸の歌
「これやこの
ゆくも帰るも別れては
知るも知らぬも逢坂の関」
に詠まれている「逢坂の関」所縁のある寺。
京都を出る時、あるいは京都に入る時に大津と京都の境であるこの関で
多くの別れ、出会い、再会があったのだろう。作者の蝉丸を祀った下神社、上神社を
過ぎると道に沿って「逢坂の関」の石碑がある。
11:30
やがて滋賀県、京都府の境を抜ける静かな山里の道になる。
左側に糸車のようなこんな器具が置かれた小さな木造の家がある
何かと思って見ていたら家のおばさんが出ていらして、
「どこからおいでですか?」と聞く。
「東京からです」というと
「ちょっと待って、いいものあげるから」と家に入って再び出てらして「これ、ここを通る人にあげてるんです」と可愛い組み紐?の根付けをくださったのである。
玄関先の器具は組紐(織り紐?)の機械とのこと。
「お正月は嵐山に行って細木和子さんい会うのですわ」と仰る。
いろいろな催しにも出品され、どうやら名のある組紐屋さんらしい。
表札には「太田」と出ていた。
途中、右側に小さな寺、このあたりから京都三条大橋まで敷かれた道は右側が車道、左が人道とされていた。その車道に敷かれた石のレプリカが置かれている。
ここから三条大橋までは約6,7キロくらいだろうか、その間にこれだけの石を敷き、その上を通った牛車、そこに乗せられたたくさんの荷物、それを曳き、また押す人々。その隣を歩く旅の人々の声が何100年の時代を越えて聞こえてきそうである。
石についたわだちが、その歴史を物語っている。
名神高速の下をくぐり、やがて山科。
山科といえば、浮かぶのは赤穂浪士の大石内蔵助が隠れ住んだ場所。
「やましな」・・・・その柔らかな語感と字体は京都への入り口になんともふさわしい。
やがて狭い坂道に入りせっせと上っていると汗が出る。
上りきって九条山を越える県道143号線。
さあ、ここからは蹴上(けあげ)を越え京都三条にまっしぐら。
左の広大な京都蹴上浄水場に沿って下ってゆく。
・↑ 南禅寺へのトンネル。上は琵琶湖疏水だろうか?
↑ 坂の下に京都市街が見え始める。
とうとう平安神宮の赤い鳥居が左手奥に見え始めるとしみじみと
「よく歩いてきたなあ」という感慨がわいてくる。
昔の旅人は現在のようにいったん歩いて帰宅して、という繰り返しではなく、旅立ったら
各地で宿泊しながらひたすらここまでやってくるので感動はいかばかりかと思う。
12:50
人が賑やかに通りすがる三条大橋についに到着!
京都御所に土下座する高山彦九郎の銅像、東海道中膝栗毛の弥次喜多コンビの銅像が橋のたもとで出迎えてくれる。
ちなみにこの弥次喜多コンビは京都に来る前に伊勢に寄っている。
当時はお伊勢参りは今日への旅までの必須コースでもあったらしい。
さて、大橋について思議な事にここがゴールで大感動という感じはあまりない。
行き止まりではなく、歩きだせばもっともっと先まで道は続いているからかしら。
日本橋を何気なくスタートしたときと同じように気負わず、淡々と歩いていたら着いた
という感じ。
記念写真を撮って三条大橋のそばで昼食。
ビールが美味しかった!
このあと三条、四条の間を散策。白川に沿って祇園、四条河原町に戻って先斗町(ぽんとちょう)界隈を歩く。
↓ 夕暮れの白川沿い。
5時頃、桃子ちゃんたちと別れを告げ、いったん平安神宮近くのホテルに荷物を置き、今度はバスで再び先斗町に繰り出し、小さな店に入ってビール日本酒で京料理を堪能。
↑ ぶり刺身。とろけるような身とポン酢、白髪ねぎの組み合わせが最高。
このほか、京人参の葉と水菜の胡麻和え、山椒ご飯も美味しかった☆
ここの板前さんから東海道は五十三次を終えたら五十七次がありますよ、と耳よりな情報をゲット。
伏見、枚方を抜けて大阪まで歩く道らしい。
そう、道はどこまでも続く。昔の細道曲がり道、人々の往来、新しい道路がその上にできあがったとしても、道にはゴールはなくいつまでも続く。
本日の歩行距離:約16㎞。江戸日本橋から492㎞。
>私はあの先の鰻屋さんで、昼食をとりました
憶えてますよ~~^0^「かねよ」でしょう?
わたしたちも入ろうかと思ったのですがまだお昼には早かったのでパスしました。
「山科」という地名が出た時は感動ものでした。
>下田街道、中山道、富士山の周り一周、鎌倉街道(上道)、甲州街道~塩の道、そして今は、身延道。
すごいなあ、ひぽちゃんは!!お仕事しながらなのに素晴らしいです。
道は無数ですね、ローカル線を乗り継ぎながらの歩行も考えていますよ☆
歩いた人だけが味わえる、なんともいえない気持ちですよね。
蝉丸の歌はあまりに有名だから、逢坂の関はああ、ここがあの百人一首の・・・と妙な感慨がありました。
私はあの先の鰻屋さんで、昼食をとりました。
ここまでよくがんばったね、もう少しだぞ[E:dash]って。
やまびこさんは次は大阪までの57次を歩かれるのですね。
う~ん、そこもあったかぁ[E:wink]
東海道の後歩いたのは、下田街道、中山道、富士山の周り一周、鎌倉街道(上道)、甲州街道~塩の道、そして今は、身延道。
いろいろ大変だと思いますが、これからもお互い健康にのんびり歩き続けられるといいですね。
やる気にさえなれば何だってできますよ^^。
なんだかムラムラと五十七次への意欲が湧いてきました~[E:dash]。
>稲荷のオキツネさんは
で思い出した。豊橋で買ったいなりずし弁当は安くてシンプルで美味しくて駅弁の条件をすべて満たしていました。
さらにちゃんと紐で結ぶ折詰、今時珍しいよね。写真写せばよかったわ・。
次は五十七目指さな。
伏見稲荷のオキツネさんは、チカラ持ってまっせ。
亀山以西は確かに大変でした。
ただ鉄道網が発達していないおかげで、亀山~水口あたりは穏やかな
日本の里山風景と古い街道の面影が色濃く残されていて印象に残りましたよ。
>追加の4宿は、伏見、淀、枚方、守口ですね。そしてGoalは高麗橋(京阪本線・北浜駅近く)ですね。
またしても耳より情報、ありがとうございます。
五十七次で大阪へ行ったら次は神戸・・なんてどんどん繋がりますね^^。
京都~江戸492㎞は一応の目安ですね。昔の街道と現在とではかなり道が移動している部分もあるし、わたしたちなんか迷ってばかりなのでたぶんもっと歩いてると思います^^;。
今年もよろしくお願い致しますね☆
オメデトウございます[E:happy02]
義父母の面倒を見られたりと色々と大変だったかと思いますが、暑い日も寒い日も旅行されて、感服しております[E:good]
予告しましたが、亀山以西は大変だったんじゃないですか(?_?)
鉄道網が充実していませんからね。
あ、そうそう、義仲寺と滋賀県庁は行きましたよ。懐かしいですね。
>ここの板前さんから東海道は五十三次を終えたら五十七次がありま
>すよ、と耳よりな情報をゲット。
これは聞いたことがありますよ。追加の4宿は、伏見、淀、枚方、守口ですね。そしてGoalは高麗橋(京阪本線・北浜駅近く)ですね。
東海道五十七次が成立しても、豊臣ゆかりの関西では「京街道」あるいは「大阪街道」と呼んで、あえて東海道という表現を使わなかったという。当時、大阪城には豊臣家が健在であったため、徳川幕府は京都から大阪への街道の延伸をしなかった。
その後、1615年(慶長20)に大阪城が落城すると東海道を大阪まで延長したそうですね。
無理しない程度に「街道てくてく旅」を続けてください。旅日記も楽しみにしています[E:note]
>江戸日本橋から492㎞
とある本では493.8㎞と書かれていた記憶がありますね。まあ125里っていう記述もありますからね。
今年もヨロシクお願いします[E:notes]