日本庭園こぼれ話

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一乗谷朝倉氏遺跡(戦国武将の庭②)再編 ---(福井県福井市)

2020-05-11 | 日本庭園

福井市の東南約10キロに位置する一乗谷は、その昔、文明3年(1471)から、天正元年(1573)に織田信長に亡ぼされるまで、朝倉氏五代にわたり、越前の中心として栄えた地でした。周囲を山々に囲まれた狭い谷間に、縫うように流れる一乗谷川に沿って、その100年の栄華の跡が点在しています。

(上: 朝倉館跡と庭園の遺跡が、一乗谷の栄華を物語る)

朝倉氏の居館、庭園、武家屋敷、寺院、町屋、そして山間部には山城や砦、櫓など、いわば一つの町がそっくり埋もれていたのが、昭和42年からの数次におよぶ発掘調査により、時を超え、その姿を現したのが、「一乗谷朝倉氏遺跡」です。

朝倉館前でバスを降りると、一乗谷川を挟んだ右側(西側)が「復元町並み」で、左側(東側)が「領主の館群」になっています。復元町並みは、発掘調査によって検出された町並みを、埋まっていた塀の石垣や建物の礎石を用いながら、資料に基づき再現したもの。

(上: 戦国時代の一乗谷にタイムスリップの「復元町並み」)

南北約200メートルの道路を中心に、土塀、薬医門、武家屋敷、町屋群など、建物の内外の細部に至るまでが復元され、町並みとともに、当時の生活様式なども伝わってきます。

また、家屋が復元されていない、その他の広大な敷地についても、区画整理がなされ、時には庭の跡などもあり、15~16世紀当時の一乗谷の「大都市」の様子にびっくり。

(上: 豪壮かつ格調高い石組が印象的な「諏訪館跡庭園」)

橋を渡って、対岸の「領主の館群」へ。一番南端の一段高くなったところに、「諏訪館跡庭園」があります。五代・朝倉義景の愛妻・少将の館につくられた上下二段から成る回遊式林泉庭園で、この谷の庭園中もっとも規模が大きいものです。

特に下段の滝周りは、高さ4メートルを超す滝添石を中心に、天端の平らな巨石を随所に配し、豪快な中にも安定感のある構成が印象的です。

諏訪館跡から小径をはさんで、その先が「中の御殿跡」。義景の母・高徳院の居館といわれるもので、土塁と塀が巡らされた平らな草地に、礎石が点々と顔を覗かせています

さらに進むと「湯殿跡庭園」。一乗谷の遺跡の中では、もっとも古い作庭とされる、四代・孝景の頃の回遊式林泉庭園です。

(上: 変化に富んだ「湯殿跡庭園」の石組)

この庭もやはり巨石で構成され、複雑な汀線を囲むようにある、石組は、変化に富み、見る角度により様々な景が現れます。滝石、三尊石、鶴石、亀島などの石組は、室町前期のものとされています。

湯殿跡庭園のある台地から見下ろすと、眼下には広大な屋敷跡。(トップの写真)

この朝倉氏館跡は、一辺約80メートルの正方形の敷地。東側は山に接し、残りの三方は高い土塁で囲まれ、外側には堀が巡らされています。整然と並んだ礎石が、かつての御殿や主殿、会所、武者溜、厩舎などの配置を示し、建物に付随する庭園も、導水路とともに発掘されています。

それらの庭園は、先ほど見てきたような豪壮なものではありませんが、汀の庭石が建物の礎石に兼用されているなど、建物と庭園のかかわりがよくわかるのが貴重です。また主殿と思われる建物の正面の位置に、長方形の花壇跡があるのが、都会的な洗練を感じさせます。

入口の唐門(上の写真)は、もともとはこの館のものでなく、義景ゆかりの寺の正門。江戸時代前期の建築ですが、構造物として唯一あるこの門は、館の往時の姿を、より具体的にイメージするのに役立っています。

館跡の先の細い坂を少し登った高台にあるのが南陽寺跡。三代・貞景が娘のために再興した寺で、朝倉代々の女が尼僧として住居したそうです。その一画、枝垂れ桜の傍らにある石組が「南陽寺跡庭園」。規模は小さいのものですが、金閣寺庭園の石組を模したとされ、将軍足利義昭を招いて観桜の酒宴を催したというエピソードも。

(上:傍らの枝垂れ桜が、なぜかもの悲しい雰囲気の「南陽寺跡庭園」)

一乗谷の今は、のどかな山里。室町時代の100年間、公家や文化人が集まり、都に匹敵するほどの華やいだ日々があったことなど、これらの遺跡がなければ、決して推し量ることができません。織田の軍勢に攻められ、凄惨な戦いが繰り広げられたことも・・・。

朝倉氏の栄華を語る夢の跡として、背後の城山にある一乗谷城を含めた278ヘクタールが「国の特別史跡」に、また前記の朝倉氏4庭園が「国の特別名勝」に指定されています。

# 詳しくは、朝倉氏遺跡保存協会へ  www3.fctv.ne.jp/~asakura