太陽光発電シニア

太陽光発電一筋、40年をはるかに過ぎたが何時までも興味のつきない厄介なものに関わってしまった。

木の思い出

2024-04-15 07:45:48 | 日記

 昨日の日曜は穏やかな快晴で最後のお花見を楽しんだ人も多いだろう。桜が仰ぎ見られるのは年に2週間くらいだろうか。散り際の潔さに人生を重ねる人も多い。「花は桜木 人は武士」花のなかで最も美しいとされる桜と人の中で最も尊敬されるべき存在である武士を比較し、桜の散り際の見事さに武士の死に際の潔いことを重ねている。西行の有名な和歌「願わくは 花の下にて 春死なん その如月の望月の頃」願うことには、春の満開の桜の下で死にたいものだ。それも(釈迦が入滅した)陰暦2月15日の満月の頃にという意。不思議な事に田舎に生まれたが桜の思い出は殆んどない。注目すべき木でもなかったのだろう。花が散った後の毛虫や小さくて酸っぱい実(さくらんぼ)は覚えているが。

桜吹雪の舞う街路樹の間を車で通り抜けた時、入学式ではなく人生の卒業式がふと過ったのは年のせいか。アリゾナのフェニックスではちょっと郊外に出ると砂漠の中に巨大なサボテンが沢山生えている。その昔インディアン達はサボテンを見て人生の何を感じただろう。バオバブの木は一度は見たいと思っていたが機会は無かった。南太平洋の島々では殆どの木は椰子の木である。人生に重ねようがない。子供の頃は山猿のような生活をしていたので木は見る物ではなく登るものであった。登り易い枝ぶりか、食べられる実が生るかである。年が行ってからは巨木だとか珍しい木に出会うと感激したものだ。さらに年が行くと老木と人生を重ねるようになった。

アリゾナやゴビ、タクマラカンの砂漠、モンゴルの大草原などの壮大な自然に接するとき、日本庭園など箱庭のような自然に世界を感じるより息苦しさを覚えたものだ。しかし今は箱庭のさらに片隅に身を置くことが心安らぐ。日本はやはり四季折々自然の中にそれぞれの想いを見出せる美しい国だと今は思う。書いていると有名だったTVドラマの「青年の樹」を思い出した。勝呂誉と大空真弓さん、美男美女とはこういう人達と子供心に思った。自転車散歩の桜の老木は時々大きな枝が枯れ落ちているが来年も花を咲かすだろう。桜の見方も年とともに変わって来る。