太陽光発電シニア

太陽光発電一筋、40年をはるかに過ぎたが何時までも興味のつきない厄介なものに関わってしまった。

短歌の世界

2019-07-28 08:33:21 | 日記

昨日の市民講座は趣の変わった「現代を生きる短歌の世界」というテーマだった。政治や経済関係のテーマが続いたがさすがに短歌となると門外甚だしくきっと自己満足講師の独断場と思いきやそうでもなかった。最初は令和で話題になった万葉集あたりからの話と想像していたが現代短歌についてであった。アララギ派に代表される近代短歌の延長上にある現代短歌である。幾つかの作品を挙げて解説を行う。講師は40過ぎの若い歌人で短歌の世界の裏が垣間見えて面白かった。

芭蕉のような俳人のいで立ちで現れたらちょっと引いたが普通のシャツ姿でサラリーマンが昼休みに出てきたような親近感が持てる姿でちょっと親しみも感じた。フランス料理のコックが背の高い帽子、トックを被って汚らしい髭面で出てきたら如何に世界的に有名であっても、髭を隠せ、料理に落ちるではないかと言いたくなる。勿論そのようなコックが居る高級フランス料理店に行ったことはないが。芸術家気取りの人がベレー帽を被るのも、指揮者が長い髪を振り乱すのも、歌手が長い髪で殆ど顔を隠すのも、形の変わった帽子を斜めに被り出る番組ごとに変えるのも、ネクタイ代わりにクビに何か巻き付けるのも、一度真面目なサラリーマン風に7:3に分けた髪型で出てきて勝負してみろと言いたくなる。形から入るのは仕方がないがあまりに拘りがきついと中身がないように思えて辟易する。

講師は正直である。短歌だけでは食っていけない。多くの歌人が句集を出すがほぼ自費出版でそれだけで飯が食えるひとは限られている。自分も短歌が好きで30頃から同人誌などに投稿してきて句集も出したが食えるまでには行かない。今も会社員としても普通の会社で働いている。創作活動は夜か休日に限られる。好きでなければ続かないと言っていた。芸術家ぶって上から目線の講義かと思っていたが普通の人で好感が持てる。

俳句は五七五で必ず季語が入るが短歌にあるのは五七五七七という字数制限だけであり内容は自由であると。しかも字余り、字足らず、句またがりなどがあって本当にルールが少ないとのこと。作品の価値というのは、作者の意図を正確に読み取ることが正解ではない。その歌が一番輝くように読むことである。その意味では誤読(意図や描写を勘違いして読む)を含めて短歌の世界と言える。短歌は理屈をつけて読みたがるが主語は「私」で見たものを其のまま写す写実が現代短歌であり、何をそこから読み取るかは読む人任せである。ここまで言い切られると、抽象画を鑑賞するようにあらゆる解釈が成り立ち質問ネタもなかった。多分何を聞いてもすべてにそれらしい理屈があるだろうと思って質問はしなかった。紹介された句の中でちょっと気に入ったもの、

「サラリーマン向きではないと思ひをり みーんな思ひおり赤い月見て」 田村元

終電を目指して急ぎ足で新橋のSL広場を通り過ぎようとふと空を見上げると赤い月、いつまで続くこの生活、てな心情か。自作も必要だろう。

「故郷の 駅に近づき デッキにて 隠れて引いた ブランドの紅」拙老

始めてのお盆休みだろうか、田舎に帰る夜汽車で若い娘さんが、都会にも慣れたと親に見せたい一心か。