太陽光発電シニア

太陽光発電一筋、40年をはるかに過ぎたが何時までも興味のつきない厄介なものに関わってしまった。

要らない記憶

2018-01-22 09:06:46 | 思い出話

暖かい日は釣りに出掛けるがこのところサッパリである。顔なじみは何名か来ているが矢張り釣果はない。アタリすら無いのだ。昨年も一昨年も冬場結構なサイズも釣りあげたが昨年の秋頃からピタット釣れなくなった。これも黒潮の大蛇行のせいと勝手に納得している。さすがに魚が居ない時は漁師でも高価な釣り具を持った名人でも釣れないだろう。潮加減など気にせず、天気だけを頼りにやって来る私などもってのほかである。魚から見れば何も居ない水中に餌を投げてじっと待っている姿は滑稽だろう。いやそうなると魚は居る事になるから、一体誰が滑稽と思うのか。勿論野次馬のおじさんはそんな冷たい事は言わない。頑張ってと声を掛けて去って行く。

昔中学校の時に一番後ろの席に居た秀才のS君が、夕方の授業の時、先生、暗くて良く聞こえませんと声を挙げた。秀才の言う事だからと皆一瞬納得してしまった。状況と発言の整合がとれていない。昔TVの該当インタビューでギュウギュウ詰めの通勤バスに乗り込もうとしている人にマイクを向けて、あなたにとって幸せとは何ですかと訊いていた。他の客に押されながら答えたのは「無理です」。無理を幸せと感じるのか。今そんな事言われても答えることなど無理ですと言いたかったのだろうが妙にその掛け合いが面白かった。学生時代にデモの外側列に女子大生を配置しようと提案した奴が居た。男子なら機動隊は容赦なく引っ剥がしにくるが女子大生なら簡単には手は出せないということだ。真剣さが足りないと言う事で彼は大顰蹙をかったが、今に思えば彼は後に大物になったのではないかと思う。北朝鮮の軍事パレードの先頭に南北統一国旗が掲げられたらそれは軍事目的か平和目的か解釈に迷うと書いた。多分この発想は女子大生に守られた学生時代のデモから来ている。残念ながら女子大生配置を思いついたのは私ではない。その証拠に後に大物にはなっていない。

柳家喬太郎のハンバーグができるまでという大変面白い落語があることは以前書いた。中で別れた奥さんが訪ねてきてハンバーグを作ってくれて、それを美味しそうに食べるシーンがある。食べる仕草の時、手拭をフォークに見立てて美味しい美味しいと食べるのだが、手拭を口に銜えた時、奥さんが「美味しいと言ってくれるのは嬉しいけど随分食べにくそうじゃありませんか、その手拭」と言う。この時空がぐにゃりと曲がる瞬間は主体が存在矛盾となる。魚がここに魚など居ないと嘲笑う釣り場の想像の元か。

夕食にアンコウ鍋が出てきた。スーパーのパックだろから仕方がないが身は殆どついていない。皮も食べられると言うが皮すら少なく軟骨と何処かの骨が目立つ。それでも肝を潰して出汁をとったとのことでスープは旨い。骨を集めて骨格標本を作るのはケンタッキーフライドチキンなら出来そうだが、パックのアンコウ骨で生体が想像できるほど組み立てるのはほぼ無理である。それにしても初めてアンコウを食べた奴の空腹具合は想像に絶する。

どうしてこんな意味も無い記憶、何時まで残っているのだろう。教訓にもならず非生産的この上ない。しかし、頭の中はいつも時空を超えて無限の広がりをみせてしまう。理解され難い初老の冬である。