時々、NHKの放送大学の講義を見る。量子力学の講義があった。電子の振舞いについてである。数式で説明して行くのだが、本当に難しい。いっぱし太陽電池のことは学んだが、それは本当に狭い範囲で主に現象面からの理解であった。数式で表される一般論としての電子の挙動ではない。講義は本当に難しく、これを理解しさらに教えるという米谷教授の頭の構造は一体どうなっているのだろう。学生時代量子力学が選択科目であったのだが、1限だけ出席して諦めた苦い経験がある。これを一生懸命勉強している奴が居ると思うともう絶対に追い付けない。
どの範囲なら射程内か。たけしがTVで吐く独特のironyに満ちたコメントはちょとブログに似ている。「立行司のセクハラが問題になったが、彼はきっと土俵に上がるのが楽しみでしょうがなかったろう。特に土俵際で踏ん張る力士の筋肉に満ちた尻やふくらはぎは堪らなかったろう。時々土俵から足が出るのを見落としたんじゃねえか。」くらいは言いそうである。北村弁護士が、白鵬の張り手やカチ上げが横綱の品格からして相応しくないと言うのはおかしい。ルール内ではないですか、それなら横綱だけは禁止というルールを作れば良い、と本気で怒っていた。そもそも品格などと言う定義のはっきりしないものを持ち出すのはおかしいと言ったのも似たようなブログを書いたことがある。まあ、この辺までが劣等感を感じない範囲だろう。
北朝鮮がオリンピックに参加表明したことを、騙されてはいけない、韓国は日米韓で北朝鮮に圧力を掛けていることを忘れてはならない、と警鐘を鳴らす評論家が随分多い。裏返せばスポーツに政治を持ち込んで北朝鮮にオリンピックに参加するなと言っているのだろうか。オリンピック期間中はアメリカも手が出せない(軍事行動は無い)ことを狙っており時間稼ぎ(核搭載のICBM完成の)だという穿った見方もある。懐柔策に騙されるな、笑顔で握手しながら懐で銃を構えている可能性もあると言いたいのだろうが、残念ながら多くの評論家はだからどうすればと言うところまでは発言しない。コメンテーターで出るタレント評論家くらいなら確実に追いつける。この辺までだと偏屈者のオジさんの射程内である。
知力では到底追いつけそうに無い人は沢山居るが、これなら自分でもできるのではないかと思う事がある。格好良く言えば人間力を磨くことであり、「私」を無くし「他」に生きる事であろう。かってネパールの貧しい山村で農業開発に晩年を捧げた近藤先生のお会いした時、何と凄い生き方だと思った。アフガンで活躍している中村先生をドキュメンタリーで見た時も同じ感じだ。もっと古くは宣教師の英語を習った時期があるが、夫婦でよくお茶に招待してくれた。元配管工のおじさんだが、私欲が一切ない。直接宗教の話は一切しなかったが神に身を捧げたからであろうがやはり似たような感じだった。如何にも自分の生活が矮小なものかと恐れ入った次第である。彼らの圧倒的存在感に打ちのめされたものだが、これらは本人が選んだ「生き方」の問題であり、自身もそこに身を置く事に喜びを感じていただろう。。その意味では自身は犠牲を払っているという気持ちなど更々無かったろう。決して他に追いついたり、圧倒することが目的ではない生き方、我より他を優先する生き方、歳に関係なく生き方なら決められるかも知れない。