デンマークやドイツにそれぞれ3ヶ月間ほど滞在していましたが、そうした期間の中で何故か日本が外側から見えることがしばしばありました。それは、日本で普通に暮している中では気づきにくいことでもあります。
「エコノミック・アニマルJAPAN」 これもその一つでした。
日本は資源小国、様々なものについて原料等を輸入しそれを加工して輸出・・・、ハイ、経済大国です。小学校や中学でも習ったことでもあります。また、「経済」そのものはどこの国にとっても重要なことであることは言うまでもありません。
しかしながら、しばし日本を離れ、その地で暮しながら日本から飛んでくるニュースに接したりしていると、これでいいのだろうか・・・と思えるような場面に時々遭遇するのでした。おそらく、そうした経験をした方も多いと思います。
先ずは生活面や風景・景観から肌身で感じること。生活そのものや仕事そのものでの苦労や楽ではない点、夫婦げんか・親子げんか・兄弟けんか・・・こんな場面を日常的にみると日本のそれと変わりはないでしょう。でも、そんな中でも可能な限り生活や人生そのものを楽しもうとしている姿も垣間見られるのです。
一方、社会生活を通してみる場合、他人への気遣いや弱者へ差し伸ばす救いの手・精神性、そしてマナーの高さはデンマークやドイツの方が一歩先んじていると感じました。
また、持続可能社会への意識や取り組みそのものの高さについても、市民目線や政策面としても大切なものは何かを、より正しく判断して選択できていると感じるのです。エネルギー問題も然りです。
そうした情報に現地で接した時、日本が比較して見えるのです。この国は大丈夫だろうか?・・・と。
「経済を最優先に考えます」と国を導くべき人が叫び、また、相応の人々も生活することを目の前にして同調しているかのような姿が見えるのです。確かに、生活しなければなりません。貨幣経済の中に置かれている我々としては「お金」が必要です。しかし、それを得るためには何をしてもいいのでしょうか。答えは明白で「否(いな)」でしょう。
「経済」という言葉を隠れ蓑(みの)にして、お金を稼ぐためなら何でもやる・・・、原発さえも輸出する・・・、全く納得しかねる論理です。世界最高の安全基準云々は何の保証にもなりません。「技術はいつの世も未熟である」と言った方がありますが、正にその通りなのです。事故は起こりうるのです。そして、原発事故の場合は地球レベルの汚染や災害につながることが他の通常の設備やマシンと決定的に異なる点なのです。
オリンピックの東京誘致が決った時(2013年秋)、私はドイツに滞在中でした。誘致そのものには嬉しい気持ちが湧いたのですが、安倍総理のあのスピーチの中身「・・・コントロールされている」・・・これは許せませんでした。
滞在先の家で、この事について言及した時のことです。あれはウソ、福島原発の過酷事故は完全にはコントロールできていません。汚染水は漏れています・・・そんな事を話し合ったのです。私は日本を代表してドイツの一農家に滞在していたわけではないことは言うまでもないことですが、それでもドイツ人と話をするわけですから私の後ろには日本があるかのように感じてしゃべっていました。日本人として恥ずかしかったのです、泣けるくらい。
一国の首相が世界を相手に大嘘を吐いた・・・。知らなかった・・・では済まされないし、そう言う意味ではなかった・・・と「いいわけ」するのでは常套手段すぎるので情けない。こんな風に感じたのは私一人ではないでしょう。
こうした瞬間「エコノミック・アニマル、JAPAN」、強烈に感じるのです。諸外国の人々からも同様に見えているのではないかと思います。
再生可能エネルギー(太陽光発電等)の買取にブレーキがかかったニュースも最近ありましたね。送電網の未整備や発電そのものの不安定さ等にも問題があることは技術者であれば容易に推察・理解できることではありませんか。しかし、だからこそ、こうした分野も含めて日本の技術力をさらに高め、関連する産業や雇用機会を創出して行くことが、真のリーダーの役割の一つでしょう。また例えば、食糧自給率を格段に高めることも必須事項の一つでしょう。つまり、経済を確立して行くための方法論が違うのです。
他に関心を高めなければならないこともいくつかあると思いますが、多くの点で方向性を誤っているのです。その他の一つとしてですが、宗教的にも比較的客観性を有している日本だからこそ世界平和に貢献できることもあると感じています。積極的平和外交などという誤魔化しの言葉で軍事外交的な路線を目指す方向性も間違っています。
国民は目先のことだけにとらわれることなく、真の目的や目標を見すえてあるべき姿や実現のための方法論を考えなければなりません。表面上の言葉に惑わされることなく、真意を看破しなければなりません。一方で、政治家は政治不信を招かないよう、国民・市民のための「仕事」をしてもらわなければなりません。自分や身内のことに重きを置いた思考をする政治家は舞台から降りるべきです。
それにしても、12月14日は投票日。信頼たる政党はどこにいるのか!? ・・・頭が痛いですね。
尚、そもそも論で言えば、得票率が過半数に満たない政党が過半数の議席を確保して国政を司ることそのものにも大きな疑念を抱きます。議員定数の削減云々を声高にしている方もいますが、その前に考えるべきことはこちらでしょう。議会制民主主義の限界なのでしょうか? 政治家がシッカリしていればこうした心配も減るのでしょうが・・・。
(巻頭写真)ドイツのミュンスターにある平和の間。30年戦争が終結した1648年、国際平和条約を締結した場所のひとつです。
「エコノミック・アニマルJAPAN」 これもその一つでした。
日本は資源小国、様々なものについて原料等を輸入しそれを加工して輸出・・・、ハイ、経済大国です。小学校や中学でも習ったことでもあります。また、「経済」そのものはどこの国にとっても重要なことであることは言うまでもありません。
しかしながら、しばし日本を離れ、その地で暮しながら日本から飛んでくるニュースに接したりしていると、これでいいのだろうか・・・と思えるような場面に時々遭遇するのでした。おそらく、そうした経験をした方も多いと思います。
先ずは生活面や風景・景観から肌身で感じること。生活そのものや仕事そのものでの苦労や楽ではない点、夫婦げんか・親子げんか・兄弟けんか・・・こんな場面を日常的にみると日本のそれと変わりはないでしょう。でも、そんな中でも可能な限り生活や人生そのものを楽しもうとしている姿も垣間見られるのです。
一方、社会生活を通してみる場合、他人への気遣いや弱者へ差し伸ばす救いの手・精神性、そしてマナーの高さはデンマークやドイツの方が一歩先んじていると感じました。
また、持続可能社会への意識や取り組みそのものの高さについても、市民目線や政策面としても大切なものは何かを、より正しく判断して選択できていると感じるのです。エネルギー問題も然りです。
そうした情報に現地で接した時、日本が比較して見えるのです。この国は大丈夫だろうか?・・・と。
「経済を最優先に考えます」と国を導くべき人が叫び、また、相応の人々も生活することを目の前にして同調しているかのような姿が見えるのです。確かに、生活しなければなりません。貨幣経済の中に置かれている我々としては「お金」が必要です。しかし、それを得るためには何をしてもいいのでしょうか。答えは明白で「否(いな)」でしょう。
「経済」という言葉を隠れ蓑(みの)にして、お金を稼ぐためなら何でもやる・・・、原発さえも輸出する・・・、全く納得しかねる論理です。世界最高の安全基準云々は何の保証にもなりません。「技術はいつの世も未熟である」と言った方がありますが、正にその通りなのです。事故は起こりうるのです。そして、原発事故の場合は地球レベルの汚染や災害につながることが他の通常の設備やマシンと決定的に異なる点なのです。
オリンピックの東京誘致が決った時(2013年秋)、私はドイツに滞在中でした。誘致そのものには嬉しい気持ちが湧いたのですが、安倍総理のあのスピーチの中身「・・・コントロールされている」・・・これは許せませんでした。
滞在先の家で、この事について言及した時のことです。あれはウソ、福島原発の過酷事故は完全にはコントロールできていません。汚染水は漏れています・・・そんな事を話し合ったのです。私は日本を代表してドイツの一農家に滞在していたわけではないことは言うまでもないことですが、それでもドイツ人と話をするわけですから私の後ろには日本があるかのように感じてしゃべっていました。日本人として恥ずかしかったのです、泣けるくらい。
一国の首相が世界を相手に大嘘を吐いた・・・。知らなかった・・・では済まされないし、そう言う意味ではなかった・・・と「いいわけ」するのでは常套手段すぎるので情けない。こんな風に感じたのは私一人ではないでしょう。
こうした瞬間「エコノミック・アニマル、JAPAN」、強烈に感じるのです。諸外国の人々からも同様に見えているのではないかと思います。
再生可能エネルギー(太陽光発電等)の買取にブレーキがかかったニュースも最近ありましたね。送電網の未整備や発電そのものの不安定さ等にも問題があることは技術者であれば容易に推察・理解できることではありませんか。しかし、だからこそ、こうした分野も含めて日本の技術力をさらに高め、関連する産業や雇用機会を創出して行くことが、真のリーダーの役割の一つでしょう。また例えば、食糧自給率を格段に高めることも必須事項の一つでしょう。つまり、経済を確立して行くための方法論が違うのです。
他に関心を高めなければならないこともいくつかあると思いますが、多くの点で方向性を誤っているのです。その他の一つとしてですが、宗教的にも比較的客観性を有している日本だからこそ世界平和に貢献できることもあると感じています。積極的平和外交などという誤魔化しの言葉で軍事外交的な路線を目指す方向性も間違っています。
国民は目先のことだけにとらわれることなく、真の目的や目標を見すえてあるべき姿や実現のための方法論を考えなければなりません。表面上の言葉に惑わされることなく、真意を看破しなければなりません。一方で、政治家は政治不信を招かないよう、国民・市民のための「仕事」をしてもらわなければなりません。自分や身内のことに重きを置いた思考をする政治家は舞台から降りるべきです。
それにしても、12月14日は投票日。信頼たる政党はどこにいるのか!? ・・・頭が痛いですね。
尚、そもそも論で言えば、得票率が過半数に満たない政党が過半数の議席を確保して国政を司ることそのものにも大きな疑念を抱きます。議員定数の削減云々を声高にしている方もいますが、その前に考えるべきことはこちらでしょう。議会制民主主義の限界なのでしょうか? 政治家がシッカリしていればこうした心配も減るのでしょうが・・・。
(巻頭写真)ドイツのミュンスターにある平和の間。30年戦争が終結した1648年、国際平和条約を締結した場所のひとつです。