悠遊自適

団塊世代でいち早く世捨て人に・・・!
ゆったり遊び、何事にも心煩うことなく過ごす術の開発と
記録を綴る。

遊郭(花街)で遊ぶ・・・壬生狼

2006年09月20日 07時07分35秒 | 京都散策
ハローワークで失業認定を受け、11時前に開放されたのでブラブラと歩いて
西方面に・・・久しぶりに「島原遊郭」にと進む。

堀川通り、大宮通り等の大通りは避け、路地裏を楽しみながら大方の見当をつけ
キョロキョロしつつ歩いて、”島原商店街”と看板に記載された通りに出た。

何年か前に来た折の覚えがある通りで、花街への入り口”大門”目指して向きを変える。
連休明けの曇り勝ちな日和に、散策者と思しき人々はゴク少数です。

島原の正式名称は”西新屋敷”で、島原と言われるのはこの地への移転騒動を
同時期に起きた”島原の乱”になぞらえたものだそうです。(案内板)

今、この地に当時の賑わいを思い起こす様子は殆んどありませんが、建造物が
ちょこっとだけ往時を偲ばせてくれます。
”置屋”「輪違屋=わちがいや」と”揚屋”「角屋=すみや」が、近代的な町に
ぽつんと残され保護されている。

(置屋 輪違屋)                           (揚屋 角屋)


揚屋とは、置屋が抱える女性を呼び寄せ宴席を設ける場所だそうです。
まぁー今で言う料亭のようなもんか?
で、置屋から揚屋までの移動が”大夫道中”として、読み物や映画等で語られてます。

角屋の裏に、歴史がずっと遡る史跡碑があった。
”東鴻臚館跡碑” 平安の昔、海外の使節を接待した場所がここにあったそうです。
対象国は”渤海国”に限られてたそうですが、”渤海国”って知ってる?

丁度平安の頃、現在の中国東北地方とロシア沿海地方、朝鮮半島北部にまたがる地域を領土とした国家らしい。 
まぁーいいか、そんな遠い昔のことは・・・

大門が花街の東入り口で、西には西門が・・・ここは碑が建ってるだけでした。
他には”花街”につきものの、歌舞練場もあったそうですが、これも今は碑があるだけで
地元の福祉関連の施設になってました。
まぁー全体にはあまり見るべき物はなかったなぁー・・・

(東鴻臚館跡碑)                          (西門跡碑)


この町からあの新撰組屯所の在った壬生が近く、新撰組も良く利用していたらしい。
で、その逆ルートで新撰組屯所へ向けて出発!

足の調子が悪い状態で、30分程度歩きましたか・・・比較的近いです。
昔は田んぼ等の田舎風景でしょうが、今は間を五条通がどかっ!と分断している。

屯所として有名なのは”八木邸”ですが、隣に当初屯所としていた”前川邸”がある。
が、ここは公開してなく、新撰組グッズを販売するだけらしい。

となると、八木邸へと行って見る。
中に入ると高いので写真撮影のみ、中では解説のボランティアがあり、
新撰組初代芹沢局長襲撃の際に生じた、刀傷などがそのまま残ってあった。(以前、入った)

すぐ南には”壬生寺”があり、新撰組はこの境内で軍事訓練をしていたそうで
中に入ると新撰組壬生塚があったんで100円払って入場する。
規模は小さいが、近藤勇の胸像はしっかり印象付けられた。

それから”あぁー新撰組”の歌碑があり、100円入れると三橋美智也の歌が
聞こえると言うので、やってみた。
懐かしい高音を堪能して壬生寺を後にして、新撰組の墓がある”光縁寺”に向かい
写真のみ写して、”あぁー新撰組”を鼻歌しながら、午後からの絵画教室へ向かった。

(新撰組屯所跡と八木邸)                     (壬生寺)


(新撰組壬生塚)                          (新撰組の墓がある光縁寺山門)


絵画教室の帰り、恒例の”鯛”の刺身用の短冊を買って帰り、長男孫にパクパク食われて
チョッピリ不満のじぃーちゃんでした。
で、今、20日早朝・・・”タイ”でクーデター勃発との事。ふ~ん!
やっぱり、軍部も不満やったんかなぁー・・・