世の中には、「あの人は生まれながらのクリスチャンですよね。」と言いたくなるような人がたまにいるが、実際には、生まれながらにクリスチャンという人は、この世には一人もいない。また、洗礼を受けたからといって、クリスチャンだとも一概には言えない。
クリスチャンの信仰というものはある種、結婚のようなものであり、第三者にはなかなか計り知れない所がある。傍目からは「どうしてあんな人と!?」 と思わず疑いたくなるようなカップルでも、当人たちは結構幸せにやっているのである。まぁ、ある種のインスピレーションとでも言うべきか。
ところが、このインスピレーションとは全く無縁と言いたくなるような人たちがいる。それは、頭がいいとか悪いとか、お金持ちとか貧乏とか、親切だとか不親切とか、刺青を入れているとか入れていないとか、そういったこととは全く関係がない。
そう考えると、救われるべき人は最初から決っているのだとする改革派の人たちの主張も、まんざら分からないでもない。しかし、それが神の意志だと考えると、おかしなことになって来る。
ただ神の憐れみによって、ある時、真の神と出会った。そうした体験をした人がクリスチャンである。神の憐れみにえこひいきはないのだから、問題はその憐れみを憐れみとして認知するかしないか、それを受けるか受けないか。そこにかかって来る。
いずれにせよ、救いの責任は、神様側にではなく、人間側にあるのである。
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クリスチャンの信仰というものはある種、結婚のようなものであり、第三者にはなかなか計り知れない所がある。傍目からは「どうしてあんな人と!?」 と思わず疑いたくなるようなカップルでも、当人たちは結構幸せにやっているのである。まぁ、ある種のインスピレーションとでも言うべきか。
ところが、このインスピレーションとは全く無縁と言いたくなるような人たちがいる。それは、頭がいいとか悪いとか、お金持ちとか貧乏とか、親切だとか不親切とか、刺青を入れているとか入れていないとか、そういったこととは全く関係がない。
そう考えると、救われるべき人は最初から決っているのだとする改革派の人たちの主張も、まんざら分からないでもない。しかし、それが神の意志だと考えると、おかしなことになって来る。
ただ神の憐れみによって、ある時、真の神と出会った。そうした体験をした人がクリスチャンである。神の憐れみにえこひいきはないのだから、問題はその憐れみを憐れみとして認知するかしないか、それを受けるか受けないか。そこにかかって来る。
いずれにせよ、救いの責任は、神様側にではなく、人間側にあるのである。
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