イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

彼女の袖机

2008年09月05日 23時32分02秒 | ちょっとオモロイ
会社では、L字型のデスクを使っているのだけど、それがなんとも使い心地がよくて、とても気に入っているのだ。現状、家の書斎には適当なデスクを3つ、コの字型に置いてあるのだけど、なんだかしっくりこない。みんなそれぞれバラバラに自己主張していて、オーガナイズされていない。一番使っているのはコンピューター用のラックだ。コンピューターにばっかり向き合っているのだから仕方がない。だから、真後ろにあるデスクには、なかなか振り向いてそこに向かおうとは思わない。書き物もあまりしないし、辞書を拡げるのも面倒くさい。部屋の模様替えをしたときに張り切って置いたはずの辞書類が、居心地悪そうに、不機嫌に雑然と並んでいる。脇にあるデスクもたんなる物置と化していて、食べものとか、ビールの缶とか、めったなことでは手に取らない文房具(セロテープとかホッチキスとか)に卓上を占拠されている。そのせいか、書斎にいるとスペースを上手く自分を活かしきれていない自分を感じてしまう。広々とした空間のなかにいて、自分を出せる空間というのがほんのわずかしかない。コックピットに座っているような、手を伸ばせば必要なものにすべてアクセスできるような、あの十全さがない。だから、のびのびと仕事ができない(と、仕事が進まないのを机のせいにしてみる)。なので、フリーになったら家でもやっぱりL字型の机にしたいな~とずいぶん以前から思っていて、ここ数日、ネットでいろいろ検索したりしているのだった。

軽い調査の結果、どうやら、オフィス家具の中古市場によさげなものがあるらしいことがわかった。家庭用の家具にはない、いかにもオフィスっぽい無機質さ、どっしり感、質実剛健さを感じさせる家具がたくさん売っている。ああ、自分がほしかったのはこれだ! というようなL字型デスクもみつかった。さらに、キャビネットとか、袖机!とか、特にこれまでは欲しいと思っていなかったものも目に飛び込んでくる。

気持ちが揺れ動く。会社で使っているような袖机、家にも欲しい。一番上の引き出しには文房具とか判子とか名刺とかを入れて、二段目にはお菓子とかお茶とか非常食とか歯ブラシとか髭剃りとか○○○○とか×××とかも秘かに隠しておいて、三段目には机の上においておくには邪魔なんだけど捨てるに捨てれない書類とかを格納しておく(しかし、実際にそれらが必要になるときは決してこない)。ああ、袖机。決して活用されることのない、だけどいなかったらちょっと寂しい、袖机。

なにより、あのキャビネットとか袖机とかには、オフィスというか会社というか、社会というか、なんだかんだ言って、結局世の中ゼニやで~というか、社会人たるもの10分以上遅刻するときは事前に電話の一本も入れるんやぞ~というか、そういった会社っぽさというか、非家庭的、非アットホームなもろもろを感じさせる何かがある。そういうものに囲まれているほうが、家で仕事をしていても、世の中は忙しくビジネスライクに動いているのだ、という感覚が維持できるのではないかと考えてしまうのだ。

何より、中古というのがいい。安いし、それに以前その机に誰かが座っていて、そこでいろいろなドラマがあったのだな~と思うと、なんというかそそられるものがある(やっぱり僕は変態なのでしょうか?)。たぶん、僕がネットで目をつけたL字型の机を使っていたのは42歳の田中主任(男)で、会社の業績もあまりよくなくて、社長は馬鹿なことばっかり言ってて、課長にはいつも怒られてて、取引先にも顔をみるのも嫌で嫌でたまらないという人が少なくとも3人はいて、でも田中は、総務の瀬戸田さん(28歳)に恋していて、だけど食事に誘ったことはまだ一度もなくて、というか瀬戸田さんにはやっぱりあまり相手にされていなくて、で、仕事にはあまり打ち込めないけれど、趣味の昆虫採取にはわきあがる情熱を感じていて、意外とパソコンのオペレーションも上手で、エクセルの関数とかもたくさん知っていて、昼食はけっこう脂っこいものばっかり食べていて、いい年して漫画ばっかり読んでいて、缶コーヒーも一日5本も飲んでいて、帰りにちょっと飲みに行くような友達も少しはいる。でも、田中の会社はおそらく倒産してしまったのだろう。まあ、田中も秘かにそれを心の底では望んでいたのかもしれない。会社がなくなってしまえば、もう毎日辛い思いをして出勤しなくても済むからだ。田中は内心ほっとしただろう。だけど、その後の田中を待っている人生は、甘くはない。田中は今どこで何をしているのだろうか。

そして今、デスクは中古市場に流れていき、ネットでその姿を不特定多数の人間にさらしている。デスクは口をもたない。だから、過去に何があったのかはまったくわからない。でも、そういう田中が来る日も来る日も、血と汗と鼻水をたらしながら使っていた机だと思うと、俺も頑張らないと、という気持ちが自然とわきあがってくるのである(まだ買ってはいないけど)。

そして、袖机。やっぱりこの袖机を以前使っていたのは、女性であってほしい。デスクは男が使っていたものでもいい。でもせめて袖机は、女性のものであってほしい。美人で気立てもよくて几帳面なA型の熊谷さん(32歳)のものであってほしい。熊谷さんは、人の目につくところはとてもキレイに整理整頓しているのだけど、袖机のなかは実はそれほどキレイに片付けているわけではない。たしかにきちんと物は整理されている。だけど、たとえそんな熊谷さんであっても、袖机のなかまで毎日毎日掃除しようとは思わない。熊谷さんだっていろいろと忙しいのだ。だから、紅茶とか、キャンディーとか、読みかけの小説とか、僕にはなんだかよくわからないけど女性がカバンに入れているイロイロな小物とか、そういったものがけっこう雑然とその袖机のなかには収められている。だけどそのそこはかとない混沌さのなかにも、やっぱり女性らしさというのは確実に生きていて、野郎が生きることによって生み出される阿鼻叫喚の汚さのようなものはそこには微塵も感じられないのである。逆に、熊谷さんが生きることによって湧き上がるエントロピーと、しんとした静けさのなかに佇むものたちの悲しげな散らかり具合が、熊谷さんが駆け抜けていった青春時代を彷彿とさせるのであり、僕の恋心にさらなる炎をともすのである。

君のいないオフィスに黙って袖机