学習障害と英語指導を考える

特別支援の視点から。
どの子もハッピーになるような指導を。

「では、診断は何のため?」

2012年09月04日 | 特別支援教育について

前回のブログで、

その子に障害があってもなくても、

保護者が非協力であろうが、関係なく

教師の仕事は、変わらない

という意味のことを書きました。

 

これは、

「この子は障害っていう診断がないんだから、特別な措置はいらない」

という形式至上主義や

「この子は○○障害だから、○○をしなくてはいけない」

という思い込みから離れて

 

先生というのは、子どもがわからないことを教える人なんだ、

という原点に立ち返って考えると

とても当たり前のことだと思っています。

 

じゃあ、別に発達障害や学習障害なんて、診断を受けなくてもいいんじゃないの?

と思うかもしれません。

 

わたしは、2つの理由から

診断を受けることは大切だと思っています。

 

まず1つは、社会・学校において、公的な支援の対象となることです。

それは、恥ずかしいことではありません。

むしろ、多数の人たちと平等に生きていくための当然の権利です。

 

自分がどれだけ努力しても、できないことがある。

そのせいで、他の人よりもずっと条件が悪いにもかかわらず

同じステージで戦え!

と言われているのが、今の現状です。

当然ですが、負けっぱなしです。

 

その負け続けるつらさや苦しさを誰もわかってくれない。

別の場面ではずば抜けていることがあるのに、

このステージだけはどうしても、どんなにがんばっても他の子と同じようにできない。

だけれども、勝負を続けなくてはいけないのです。

 

生まれつき人よりもハンデがあるとすれば、

どうすれば「平等に」なることができるのでしょう。

 

教育的な配慮というのは、

そういう見えないつらさを抱えた子どもたちに

「平等なチャンス」を与えるためのものです。

目が悪ければ座席を前に、耳が悪ければイヤホンを装着するように

当たり前にするべき支援のことです。

 

そこに例えば、発達障害、学習障害という診断があれば、

特別支援教育の対象となり、

教員の加配、個別の指導、そのほかの基本的な理解と支援を得る条件が整います。

 

 

もうひとつの理由は、本人や親が「できない」理由を知ることで

自分を責めることから解放されることです。

いわき明星大学の山本准教授が行った調査で、

発達障害児童とその家族24組を対象にして社会や学校、家族とどのような

関わりを持っているか調べたものがあります。

それによると、

二次障害の少ないグループの78.9%が小学校低学年に診断を受け

障害を発見されていました。

受診したときの親の気持ちは

「診断が出て、ほっと安心した」

「何か違うと思っていたので、診断を聞いて安堵した」

「子どもの行動を思い返すと、納得できた」と

肯定的な回答が多く見られました。

 

診断を受けた後の姿勢についても、

「一生懸命、関わっていく」

「診断後、親も変わろうとしている」

「受診後は、かかわりが多くなった」

「本を読みながら反省し、口うるさく言わないようになった」

「すぐに叱るのではなく、どうしたの?と聞くようになった」

など、受診前よりも子どもへの積極的な関わりが

見られるようになりました。

 

本人にとっても、自分のことをよく知ることは

思春期以降、過剰に自分を卑下することなく

「ではどうすれば良いのか」へ気持ちをシフトするためにも

大切なことではないかと思っています。

 

発達障害・支援センターは、診断を伝える理由について

このように書いています。

「診断を本人に伝えるのは、悪い知らせを伝えるためではありません。

これまでうまくいかなかったことはどうしてだったのか、

またこれからどうすればもっと自分らしく、

そしてよい結果につながるのかをきちんと理解し、

これまでとはちがった視点で自分を見つめなおすきっかけにしてほしいからです。」

http://www.rehab.go.jp/ddis/こんなとき、どうする?/診断を伝える/本人に伝える/

 

 

なぜ自分が人と違うのかの答えに悩み苦しみ、

その後に理由がわかった当事者の声のほとんどは

 

「わかってよかった」

 

です。

「なぜもっと早く教えてくれなかったのか」

という声も聞かれます。

 

ですが診断は、

「あなたは(自分は)○○なんだから、どうせこれできないわ」

というように、

決して何かをあきらめる理由として使ってはいけないとも思います。

 

 

 

 

しかし、最後にもう一度書きますが、

教員はその子がどんな子であっても、

教育的な責任は、同じなのです。

教育目標があれば、

すべての子どもがそこに到達するために

どのように工夫すれば良いかを考える先生が必要です。

 

そして「どのように」を先生たちが ”一緒に” 考えていく必要があるのです。

でもいま、その場があまりにも少ない。

孤軍奮闘する先生たちの声を聞く度に、

もっと情報を共有できる場があれば、と思います。

 


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