学習障害と英語指導を考える

特別支援の視点から。
どの子もハッピーになるような指導を。

「世界一強いお父さん」(The Strongest Dad in the World)で思ったこと

2013年03月01日 | 日記

今日は私のつぶやきです。

 

つい数日前、FBのお友達のページで紹介されていた

THE STRONGEST DAD IN THE WORLD...

を見て「こんな人がいたのか」と、

なんとももう、言葉がありませんでした。

(YouTUbeで動画もあります)

 

悲しい話では、ありません。

出産時の事故が元で麻痺を伴う重い障害を持った子どもと共に

フルマラソン、

トライアスロン、

クロスカントリースキー、登山、自転車での米大陸横断などに

挑戦し続けたお父さんの話です。

 

いえ、やはり親子の話なのだと思います。

Team HoytのHPに詳しい話があります。

http://www.teamhoyt.com/about/index.html

1962年に生まれたリックですが、医者は

「この子は一生回復しないし“普通の”生活など望めないから施設に入れるべきだ」

と告げました。

ですがHoyt夫妻はそうしませんでした。

リックは話せないし動けないけれど目で物を追うことができたため、

夫妻は色いろな所へリックを連れ出し、

学校にもかけあって進学させ、“普通の子”のように文字や言葉を教えました。

(後にリックの知的レベルに遅れがなかったことがわかります)

1972年リックのために車いすに接続された特別仕様のコンピューターを用いて

彼は文字を入力することもできるようになり、

1993年にボストン大学を卒業しています。

 

このお父さん、ディックさんは、マラソンが得意だったどころか、

水泳もできないし、自転車など子どもの時以来乗ったことがない。

 

1977年に、5マイルのチャリティーマラソンに参加したい、

とのリックの希望に応えて、

リックを車いすに乗せ、後ろから押して完走しました。

そのときにリックが、

"Dad, when I'm running, it feels like I'm not handicapped."

(「お父さん、僕は走っているとき、僕は自分が障害者だってことを忘れてたよ」)

と言った言葉が、ディックさんを変えました。

その後、トライアスロンを含む様々なレースに親子で参加し、

2009年のボストンマラソンが
1,000番目のレース参加という偉業へとつながっていきます。

リックが「もしお父さんに何かひとつできるとすれば、何を贈りたいですか」

と尋ねられたとき、

リックの返答は「僕が一番したいことは、父を椅子に座らせて、一度で良いからその背中を押したい」でした。

 

 

これは障害がある子どもを持つ親の単純なサクセスストーリーではありません。

確かにリックは大学を卒業するまでになりましたが、

この障害が消えるわけではなく、

困難は続いていきます。

 

 

この話を読んでいる私は、一人の親として読んでいました。

いくら親だと言っても

彼はなぜ、こんな大変なことを続けられたのでしょう。 

親として

「子どもに笑ってほしい」

「子どもに幸せを感じて欲しい」

「子どもと一緒に人生を生きていきたい」

子どもの幸せと自分の幸せを重ね、

そこに自分の一番の喜びを見出したからではないでしょうか。

 

もし子どもに一人で生きていくのには大変そうな障害があるとすれば

そしてその障害を変えることができないのなら

自分の全力を尽くしても

子どもの人生に寄り添っていきたい。

親としては、本当にそれしかできないのかもしれない。

わたしも、少し生きにくさを抱える子どもの親として、

そう思います。

 

 

Hoytさんの物語は、お父さんだけじゃなくて、

親子の話です、と冒頭に書きました。

それは、親の方こそ

子どもを通して多くのことを学ばせられるからです。

 

子どもへの思いがなかったら、

こんなにしんどい道は進まなかっただろう、

こんなに自分以上に誰かを優先させることはないだろう。

それは、おそらく障害を持つ子どもさんの親であれば、

みな同じではないでしょうか。

 

教員としての私は、常日頃、

保護者の方から本当に多くのことを教えてもらっています。

子どもに関する情報、専門的な情報だけではなく、

子どもへの献身的で忍耐強い態度、あきらめない強さを

教えてもらっています。

そのたびに「こんな素晴らしい保護者がいるんだ」と

保護者の子どもへの大きな愛情を感じて、

自分もがんばらなくては、と思います。

 

そして、そんな”素晴らしい保護者”が、

一夜にしてできたのではないことも、

自分の経験からわかっています。

 

親であれば誰だって、

自分のこどもに「こうであってほしい」という願いがあったはずです。

現実を受け入れるには、強さが必要です。

 

「障害のある子の親はみんな明るくて強いよね」

と誰かが言っていましたが

強くならざるを得ない状況があったから、強くなっただけ。

最初から強かったのではなくて、

”自分以外に誰も子どもを守ってくれない”

”自分以上に子どもを大切には扱ってくれる人はいない”

と気づいたときに、

変わったのだと思います。

 

そしてその変化を、後悔している人はいないのではないでしょうか。

私などは、子どもの「おかげ」で人間として成長させてもらっている、

と感じています。

それまで他者に依存する、あるいは自分のためだけに生きていた自分が

守りたい存在を得て「親」にさせてもらえて、

最大限に自分の能力を引き出してもらえた。

この子がいるから、ただ逃げ出したくなるような困難にも

立ち向かうことができた。

自分ひとりのためならあきらめたくなることも、

絶対にあきらめるなんてできなくて

自分の情けない力不足を痛感しながらも

進むしかなくて。

 

でも振り返ると、以前よりもずっと強く成長した自分がいる。

自分の人生が以前よりはるかに豊かになっている。

ずっと謙虚になり、

人の心の暖かさを”ありがたい”と思えるようになっている。

人の心の痛みもわかるようになっている。

 

それは子どもの笑顔や喜びというエネルギーの源がなくては、

あり得なかった成長です。

だから、子どもには「変わる強さを与えてくれてありがとう」なのです。

ディックさんも、リックさんに対して

そんな風に感じていたのじゃないか、なんて

思ったりもします。

 

ですが、わたしはまだ現実を受け止める準備がない、

一見、子どもを否定しているような保護者の方が沢山いるのも

知っています。

 

でもそれを責めるのには違和感があります。

「親はみんなすべからく強く子どもを守るべし」と

したり顔で責める人には

「どんな人も同じように強いわけでもなければ、人生の価値観も同じじゃないのに」

と不思議に思います。

 

また、「親が守ってくれなかった」から子どもが

必ずしも不幸なのではなくて、

子どもは、社会の中で育ち、

社会が育てるものなのだから、

”子どもたちを育てたい”という思いを共有できる大人が少しずつ力を出して、

どの子も大切に育てていければいいんじゃないの、と思い直しています。

逆に、親だけでも子どもは育たない。

やはり人の間で育つから、人間。

 

その子にとって、

自分の親が最強の城壁にならなかったとしても、

学校がある、友達がいる、

先生がいる。

 

先生の存在というのは、

ここでものすごく価値があるものになるのです。

 

 


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