プリミティヴクール

シーカヤック海洋冒険家で、アイランドストリーム代表である、平田 毅(ひらた つよし)のブログ。海、自然、旅の話満載。

2012第十次瀬戸内カヤック横断隊レポート 

2012-12-07 08:21:24 | インポート
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 ※瀬戸内横断隊のサイトにも同様の投稿分ですが、レポートをアップしておきます。

 「瀬戸内という小宇宙を旅して」 平田 毅

「ぼくは自然の中の、目には見えないけれど研ぎ澄まされた五感で感知できるものを愛す。なぜなら目に見えるものばかり追いつつ(拝金物質主義)、五感で絶対感じられないもの(放射能)に恐れおののくという、イビツな世の中の逆を行きたいからである」 ・・・ぼくがシーカヤックをやる理由

 【横断隊に参加した動機について】
 ぼくの今住んでいる和歌山・湯浅の海は、太平洋を循環して流れる海流「黒潮」と、瀬戸内海を行き来する「潮汐流」とが合わさる場所だ。北限と南限が重なり合うクロスボーダー地点とでも言うか。生まれ育った場所ではなくヨソ者だが、もうかれこれ十年近く住んでいて、しかも濃密な時間を過ごしてきた土地でもある。元々、シーカヤックガイド業を始めるためにやってきた。風波を遮る大きな湾になっていて、スクールやツアーをやりやすいという利点、また、京阪神の都市部と南紀の大自然とを繋ぐ絶妙のロケーションにあることも魅力だった。「熊野」地方と呼ばれ一帯が自然聖地になっていることでも明らかなように、紀州では南に行けば行くほど自然がワイルドかつ濃密になるが、逆に超ド田舎になっていく。田舎だけど不便すぎない湯浅は、色々とやりやすい、住みやすい場所だったわけだ。
 ここを基点に、ぼくは南の方ばかり見続けてきた。紀伊半島のすぐ南にはアマゾン川の500倍もの流量を誇る世界最大級の暖流「黒潮」がとうとうと流れている。景観のワイルドさ、温暖多雨が育む山の緑の濃密さ、強い太陽光線に裏打ちされた空気の隈どり濃さが、熊野を熊野たらしめ、聖地を聖地たらしめている自然力だが、それらを支える母胎が「黒潮」という大いなる流れなのである。
 紀州の海に漕ぎ出でてみると、すぐに黒潮の気配を感じることができる。ぼくはその感覚が好きになった。「水に合う」ってやつである。以来シーカヤッカーとして紀州の海だけでもう二千日くらいは出ているだろう。黒潮フィーリングは岬一つ越えると変わってくるし、同じ湾内でも微妙な濃淡があったりする。まるで絶妙なる筆使いのようなものだ。そこを職場とする二千日。よく半分冗談、半分本気で「絶対音感ならぬ絶対黒潮感みたいなものがオレには具わりつつあるぜ」などというと、変人扱いされることしばしだけど、ぼくの中ではかなり具象なる感覚なのだ。
 そしてここ最近気になり始めていたのが「じゃあ瀬戸内の潮汐流の世界は?」ということだった。和歌山・湯浅湾には黒潮だけじゃなく瀬戸内の潮汐流の水も入っているし、海上保安庁の海域区分としては何と「瀬戸内エリア」になっている。だがほとんど何も知らない。基本的に紀州の海は北に上がれば上がるほど自然の濃密さが薄まり人工海岸率が上がってゆく。そしてさらに北上すると大阪湾の汚い海になってゆく。だからどうしても紀伊半島の南の方や国内外の別のフィールドに目がいくわけだが、もちろん大阪湾だけが瀬戸内でないことは分かり切っている。要するに意識が抜けていたのだ。十年ほど前にシーカヤック単独日本一周した時も外周を回ったので、瀬戸内には入っていない。「次の未知なる世界はこっちかもな」それが今回の横断隊に参加するきっかけでもあった。
 横断すればきっと何か感じるものがあるだろう、と。各エリアの経験豊富な達人たちと同じ時間を過ごせば、きっと深いものが得られるだろう、と。
 というわけで黒潮の海と対比して、今回の旅で感じた瀬戸内の海についてまとめてみたい。先入観を入れず、まずは肌で感じた第一印象を大切にし、これを基に来年以降はより瀬戸内観を深めていく旅をしよう。今回は、長い付き合いの、手始めなのだ。

 【人と自然景観】
 島から島へ渡っていく旅が始まるや否や気づいたのは、まず自然景観が人と近いなということだった。太平洋の海岸線は、外洋に面していればいるほど荒々しく、どこか人間を寄せ付けないところがある。そこにこそ、目先の些事やゼニカネに追い立てられる日常のチマチマ感を蹴散らすような、ワイルドなあっぱれさを感じさせてくれて魅力的なのだが、一方の瀬戸内の景観はそんな野性的アンタッチャブル性の皮膜をひっぺがし、島々や浜辺や沿岸の木々たちがぼくの目に、肌に、すごく近いような、優しいような印象を受けた。それが何より新鮮だった。だけどそんな親近感ある自然の中を錯走する異次元的混沌である「潮汐流」という存在が、極めて異彩を放つ。その動きはまるで生き物のようだと思った。ぼくにとって黒潮も生き物のような存在だが、黒潮ってやつはもっとこう、超越性というか、架空の生き物のような趣がある。しかし瀬戸内の潮汐流は、より刻一刻と手に取るように変化してゆくせいか、そして人と近い景観の中で立ち現れるせいか、しばし実在する生き物のような錯覚に陥らせた。きっと潮汐流が基になった神話も山ほどあるのだろう。そういや記紀神話冒頭の「島生み神話」も淡路島周辺の激潮が基になっている。また、読むのが非常に難しいという意味において、人間の複雑な感情を思い起こさせた。海図にも潮汐表にも記されない激潮がバンバン出てくるこの海を読み、自在に渡っていくというのは相当凄いことなのだろう。もしかしたら人の気持ちを読みとるというか、汲みとるトレーニングになったりするのかもしれないな。

 【海水色のグラデーション変化】
 旅が進みゆくにつれ変わってゆく海。
 黒潮の海は「南北」の移動でブルーの質感が変わるのだが、瀬戸内の海は「東西」の移動でグリーンの質感が変わる。方角なんて一見どうでもいいことに思えるかもしれないが、それによって太陽光線も変わり、その影響で景観の見え方も変わり、意識も気分もガラッと変わるというのもシーカヤック旅なのだ。海水カラーの違いは両者の海のプランクトン含有量の違いがなせるものだが、沿岸域の豊饒を演出する触媒のような暖かいブルーの水(黒潮)と、それ自体が豊饒そのものの緑の海(瀬戸内)。面白いなと思った。

 【遠心性と求心性とネットワーク性】
 水平線の向こうが国内であることも新鮮だった。それが広範囲に渡るという意味では日本全国、瀬戸内以外そんな海はない。太平洋岸では、特に紀州の海では、水平線の向こうはパプアニューギニアやオーストラリアとなる。それが瀬戸内では広島とか愛媛とか九州ということになるのだ。で、それは文化形成にとって結構デカい要因ではないかと思う。
「海は広いな大きいな、行ってみたいなヨソの国」という童謡があるように、思えば紀州の海民は、世界各地に移民している。湯浅からちょっと南に下った御坊・日の岬の人々は、大阪の堺あたりの漁民との漁業権争いに負けた後、カナダ・バンクーバーに渡り、サケ漁に従事した。成功して帰ってきた彼らは向こうの習俗も持ち帰ってきて、そこは今でも「アメリカ村」と呼ばれている。最南端・潮岬の出雲崎という漁村からは主としてオーストラリア北部のアラフラ海にある木曜島に移民し、真珠貝採取のダイバーとして活躍した(どうやら鎖国中の江戸時代かそれ以前から行われていた渡海のようだ)。その潜水技術は彼らによって持ち帰られ、やがて全国に広まっていった。またハワイに移民した人々もいる。彼らの持ち帰った一本釣り漁法は「ケンケン釣り」と呼ばれ、カツオやマグロ釣り漁の手法として今でも残っている。南紀でよくみかける、長い竿を立てて海上を走る中小型の漁船がそうだ。そのほかにも北中南米に渡った人たちがいる。日本の移民史をひもとくと紀州の漁民が非常に多いことに気がつく。水平線の向こうに想いを馳せ渡ってゆく、そんな「遠心性」が太平洋黒潮圏の文化最大の特徴でもある。
 一方、水平線の向こうも同じ国である瀬戸内の世界は「求心的」だと感じた。新天地を求めようとして向こうに渡ってもほとんど同じような文化の場所に辿り着く。そのような沿岸部では何か問題が起こってもそう簡単にどこか知らない場所へとスタコラサッサするわけにはいかないのではないか。必然的にその問題と真っ向から向き合い、新たな解決を見い出してゆくことこそが「新天地」となる。物理的にもそうせざるを得ない場所に思える。
 ・・・と書くと「瀬戸内は閉ざされた海域だ」と言っているように聞こえるかもしれないが、そうではない。現実的に東に行けば太平洋と繋がるし、西に行っても太平洋、日本海、東シナ海へと繋がる。そもそも、古来より交通と交易で発展してきた地だ。その「ネットワーク性」の要素もかなり大きいだろう。つまり「求心性」と「ネットワーク性」の融合した象徴的な海、それが瀬戸内のあるべき姿なのかもしれない。目の前の問題と「求心的」に向かいあい、横のつながりという「ネットワーク性」で解決してゆく。その意味で、シュレッダーダスト廃棄問題と戦ってきた豊島をスタートし、上関原発問題と戦い続ける祝島をゴールとする横断隊は、瀬戸内を知るにふさわしい旅だと思った。
 ぼくはどちらかというとこれまで「遠心性」を好むタイプの人間で、だからこそその象徴たる広い海と直結するシーカヤックを愛すようになったわけだが、今回横断隊に参加して、求心性ってやつも、より大事だと思うようになった。というのも一気に世界が狭くなり、かつ異文化が俄然近くなったグローバリズムの21世紀だが、何か問題が起こって嫌になったからといってさらに遠くの新天地を求めて地球の外側にまで行くことはできないからである。だいたい宇宙になど行っても面白くない。目の前の問題と地球の問題は密接に繋がっているのが現在だ。むしろ「遠心的」「求心的」と分けるより、遠心性を突きつめてゆくと求心性の重要性に行きつき、求心的にローカルを突きつめてゆくと逆にグローバルな地平に行き着くというのがこれからの世の中だ。そしてその両者に絡んでくる「人との繋がり」というネットワーク性の重要性。瀬戸内という小宇宙は世界の海という大宇宙の縮図であり、密接に繋がっていると感じた旅だった。

 【チームとしての一体感】
 漕いでいる最中の脳味噌はガラ空きだ。個人として色んなことを考えつつ、チームとして旅することの面白さも日増しに感じ始めていた。全てのことを自分でする、自立した「個」の集団だからこその一体感である。誰かがお膳立てして進んでゆくツアーならばそうはならないだろう。またちょこっと漕ぐだけのツーリングでもそうはならない。真剣勝負で苦楽を共にしないと深い充実感は共有できないのだ。祝島でゴールした時の感動は、懐かしいようでもあり、生まれて初めてのような感覚でもあった。これぞ「祭り」なのかもしれない。魂を鼓舞し、同じ釜のメシを食った一人一人の友情を、すごくいい感じで結びつける、祭り。00年代の日本のシーカヤック界は、ツアー主体で展開されてきた。まだまだ確立されていないジャンル、プロが食べていくための第一段階として、敷居を限りなく下げたツアーをメインにせざるを得なかったからである。サービス業である必然として、苦楽の「苦」の部分を取り除き、おいしい「楽」の部分のみを提供することを旨とする傾向が強かった。だけどそれは本当のシーカヤックではなく、肝心なものが抜け落ちている。別にマゾなわけじゃないが、「しんどい、不便な」要素もなければ、心って感動しないようにできている。まあ、度を越えた「苦」は勘弁だが、人間、ぬるい便利さラクチンさに浸かりすぎると心までフヤケ切ってしまう。プロとしてシーカヤックに携わるものとして、今後の展開のヒントにもなった。自立したシーカヤッカーを育ててゆくこと。

 【地球の自転と月の引力の音色】
「潮の干満という壮大な律動も、地球と宇宙の間でやりとりされる様々な力を感じとって起こるものなのだ。水は極めて感じやすい物質であるため、このやりとりを受け止める“感覚器”として作用するのである」テオドール・シュベンク

 できるだけ先入観や知識的なバイアスをかけず、五感での第一印象を大切にしようというのが初参加者としての個人的テーマだったが、ひとつだけかけたバイアスがある。それは月の引力に対する意識だ。月の引力によって水が劇的に動き回るという、よくよく考えれば実に不可思議な現象の「メッカ」が瀬戸内海である。だから地球と宇宙との間でやりとりされる様々な力みたいなものをイメージしたり、その感覚器としての水の神秘性や、星の楽器として奏でられる水の音色などをイメージした。
ちなみにぼくは黒潮の海を漕ぐ時、地球が自転する姿をイメージする。なぜならその回転によって生まれるのが黒潮という海流だからだ。暗黒の宇宙にひとりサファイアのように美しく輝く水の惑星が回る姿。ウォルト・ホイットマンという詩人に「回転する地球の歌」という題の詩があるが、黒潮とはまさにそんな流れだ。一方地球と月との合作である潮汐流とは、「interplanetary music(惑星間相互音楽)」というニュアンス。
 一回一回のシーカヤッキングをより深いものにするために、ちょっと宇宙っぽいイメージを持ってくるのも面白い。それをぼくは「プラネット感覚」と呼んでいる。
 ときに今回は満月の大潮まわりだった。毎朝ハルさんが焚いてくださるセージの聖なる香りの中、しばし月のプラネット感覚を瞑想し、海に出た。そして最終日の早朝、前方に満月、後方に朝日のご来光という中で向かう祝島への道のりのことは、いつまでも忘れることはないだろう。チーム全体の不思議な一体感を感じながら、満月に導かれて目指す祝島。

【祝島と上関原発について】
 瀬戸内横断隊の最終日、最後の最後、田ノ浦海岸から海峡を渡って祝島に向かう最中、なぜか、なにものかに「守られている感」がすごくあった。で、その見守られ感が、数年前にタスマニアン・アボリジニーの聖地「ザ・ナット」という沿岸の巨岩周辺を漕いだ時の感覚とよく似ていて、色んな出来事がフラッシュバックしたり、今現在の感覚と過去の感覚とがスパークしたりした。
帰ってきてさっそく「ザ・ナット」の写真を見てみると、やはり見た目はちょっと違うけれど、その時の「見守られ感」のフィーリングには通底するものがあった。
 その時感じたことを書いたブログ記事を思い出して読み返していると、滅び去ったタスマニアンアボリジニーたちも「上関原発を絶対たててはならん」と言っているような、不思議な気がした。
 そのブログとはこちら。
http://islandstream.blog.ocn.ne.jp/weblog/2012/01/post_239d.html 

 ・・・という文章をフェイスブックに載せたら、原さんとハルさんが非常に興味深いコメントを寄せてくださった。
 原さん「南オーストラリアのロックスビィダウズには国内最大のウラン鉱山があるそうです。先住民のコカサ族やアラバナ族が反対の声をあげているとのこと。そして日本最大のウラン輸入元はオーストラリア。決してザ・ナットも無縁の土地ではないようですね」
 ハルさん「友人の内田ボブさんがちょうど311の頃にタスマニアからオーストラリアに行ってました。そこで会ったアボリジニの人たちが、自分たちの聖地から収奪されたウランがあなたたちのクニで災いを起こした、とあやまってくれたそうです」
 遠心性と求心性とネットワーク性とが交錯する、旅のフィナーレ。
 不思議な気分がした。
 ぼくももっと行動を起こしていかなきゃ!!

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