先日2月6日、
熊野新宮は神倉神社の「お燈まつり」に参加しました。
1400年以上続く、縄文系の色濃い火祭りで、
もう15年以上前に参加して以来、2回目でした。
日本古来の自然信仰の聖地である熊野の、「水」に対する「火」という組み合わせから生まれた祭りという気がしますが、火というのは「業」を焼き尽くすとか、こう、一等「人間精神」に近しい自然現象かと思われます。
この近くの熊野市には、カグツチという火の神の子を産んで死んだイザナミノミコトが埋葬された「花の窟神社」という場所もありますし、またそもそも「熊野」という地の自然は1500万年ほど前に火山の爆発でできたということもありますし、それから那智大社では7月14日に別の「火祭り」も行われるということで、熊野とは「水」の聖地であるとともに「火」の聖地でもあるわけです。
人間という存在はとかく、コントロールしきれない欲望やエゴを抱え、争いが絶えず、戦争や環境問題を巻き起こして他の民族はおろか他の動植物全体をも危機に陥れる、全くどうしようもないところのある業を背負った生き物ですが、だけど生まれてきたいじょう生きていくしかない。そこでこう、「がーっ」っと業を焼き尽くすように炎を燃え上がらせそして生まれ変わって新しく心根を入れ替えていきていく、少しでもよりよく生きていく、という祈りと叫びが渾然一体になったところから生まれたみたいな祭りかと思います。
だから荒々しい祭りです。
ケンカもあちこちで起こっています(15年前に比べたらだいぶおとなしくなっている感じがした)。
また下界にはジュラルミンの楯を持った警察隊が張っている。
それに向かってヤンキーたちがジャンピングキックしながら突っ込んでいくということもたびたび起こります。
草食系の現代では絶滅したようなヤンキーもまだいるわけです。
(ユーチューブで警察隊とのケンカの模様などもアップされてるようです)
といっても死人が出たりとか、
社会問題になるような事件が起きていないのもまた、
ひとつのバランス感覚かと思います。
山に上がってたいまつに一斉に火をつけ、何千人もの「おーっ」という地鳴りのような声音が響くこの現場に居ると、1年1年こうやって祭りを執り行い早1400年以上もの年月が経つという、その年輪感をとくと感じました。そして1400年後のことなども想像しました。
ぼくもその中の一粒子になったというわけです。
ただただ火のついた松明を持って山から石段を降りるだけのシンプルな祭りなのですが、シンプルだからこそいい祭りです。きっちりせこせこ収まりきった超管理社会の現在では考えられないノリの祭りです。