プリミティヴクール

シーカヤック海洋冒険家で、アイランドストリーム代表である、平田 毅(ひらた つよし)のブログ。海、自然、旅の話満載。

パワナ

2010-09-29 23:48:52 | インポート
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 ル・クレジオの「パワナ」(菅野昭正訳、集英社)という、捕鯨がテーマの短編小説を読んだ。
 ぼくはル・クレジオの作品が大好きなのだ。

 たくさんのクジラが子を産みに来る、秘境めいた未知なる美しい潟湖が、ある日捕鯨者たちに発見される。最初はまだ小規模な捕鯨だったが、やがて世界中の捕鯨船団がやってきて根こそぎにし、壊滅状態になってしまったのだった。

 でその、最初期の発見者であるとある2人の年老いた捕鯨漁師の回想でこのお話は成り立っているのだけれど、その海や自然にまつわる描写の何と美しいこと。クジラたちの息づかいと風に吹かれて波立つ入り江の海景全体とが同調し、海が脈打ち始めるような描写。読みながらしばし、自分が漕いできた数々の美しい海の光景が脳ミソの中でフラッシュバックしたりもした。
 淡々と静かに続くそんな描写ゆえに悲しさを誘うのだけれど、
 なぜかとても新鮮でもあった。

 捕鯨と言えば今、非常にデリケートな問題になっているけれど、
 いろんな言説にしろニュースにしろよくよく見てみると、
 「政治」と「感情論」の2つ、
 賛成派も反対派もほとんどこの2つでやり合っているように見受けられる。
 あるいは何を言ってもそのどちらかに回収されてしまうので、
 デリケートも何もあったもんじゃなく、
 あえて何も言いたくなくなる今日この頃である。

 しかし冷静になってよくよく考えると、クジラという存在ほど象徴的な生き物はいない。つまりこんなドデカイものを生み育み養う地球という空間、海という場所の神秘や、スケールの大きさや、深さや豊かさってやつを象徴しているものはいないと思うのだ。そしてこのル・クレジオの小説「パワナ」。老漁師に淡々と語らせることによって、アッパーではなくダウナーで回想させることによって、この問題に付きまとういわゆるやかましい「政治性」と「感情論」が背後に隠れ、海という世界の本当の美しさ、神秘性が浮き彫りになっている。
 そこに新鮮さを感じたってわけ。
 捕鯨について考える時、たぶんほんとは、賛成反対でヤイヤイヤイヤイといがみ合うことよりも、忙しい日常で歯牙にもかけなかったそんな世界をイマジンすることの方が遥かに大事なのではなかろうか、と思うことがある。

 ちなみにシーカヤックでクジラやイルカの類いに出くわすことがある。ここらへんでは黒潮がダイレクトに来ている串本・潮岬で出会うことが多い。
 いきなり出会うと非常にドキっとするけれど、やはり水族館とかと違う彼らの野生の息吹に触れるとほんとすごいなあと感動する。だって陸上で歩いていていきなり何メートルも十何メートルもある野生生物に出会うことってあるわけがないでしょ。それが海では突如出会ったりすることがあるわけなのです。陸上で言うなれば、そこら歩いててふとティラノザウルス・レックスとかにいきなり出会うくらいの衝撃に相当するのではないか、と大げさではなく思ったりもするのです。
 なんせ、アマゾン河の流量の約500倍もあると言われる黒潮にたわむれる、
 野性の生き物なわけやからね。
 シーカヤックではそんなやつらのナマナマしい息吹と唐突に対峙することもある。


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