ル・クレジオの「海を見たことがなかった少年(モンドほか子供たちの物語」という小説を読んだ。
子供って案外無垢ではなくズルかったり計算高かったりするものだけれど、しがらみがない分、そして経験値が白紙な分、物事をありのままに「裸の感覚」でとらえる力を持っている。ここに出てくる子供たちもまさにそうで、特に人を見る、というか人を下から見上げる目の鋭さとやさしさ、そして自然と交感するときの歓喜に満ちた描写が素晴らしい、いい短編集だ。
普通の子もいれば浮浪児やどこかに消えていっていなくなってしまう子など色々出てくるけれど、表題の「海を見たことがなかった少年」という、学校の寄宿舎を脱走して海を見に行くダニエルって子の話は、そんな裸の感性を持った子供が触れる、しかも生まれて初めての海ということで、海の感覚描写がとてもフレッシュかつ、陶酔感があって素晴らしい。
ただ表面をきれいに仕上げてるってのではなく、内奥深く捉える海感覚なのだ。
で、その中に出てくる「別の海」っていうフレーズに、オヤっと思うというか、ピンと来たのだった。
「海のことが話題になっているときでさえ、それは長いあいだ彼の興味を惹きはしなかった。しばらく耳を傾け、2,3のことを訊ねる。それから彼は話題になっているのが本当の海のことというわけではなくて、海水浴、ダイビング、砂浜、日差しといったものであることに気づくのだった。すると彼は立ち去り、自分のベンチか階段のところへ戻って腰かけ、空を見つめていた。彼が話を聞きたいのはそんな海のことではなかった。別の海、といってどんなのか分かっていたわけではないが、とにかく別の海のことなのだった。」
シーカヤッカーにはこの「別の海」って感覚、よくわかるんだよね。
あなたにも分かるでしょう?
海開きの期間中だけ楽しむブイの内側の海や、清涼飲料水のCMのビキニのギャルのバックに映されているような海ではなく、リアルな海の鼓動と一体化して心と身体の内奥深く捉える、本物の「海」。
さてようやく長かった夏が終わり、海景の透明感がひときわ美しい秋に入ってきましたが、これからの季節こそ、浜辺に人がガヤガヤしていたアレとは違う、いわゆるひとつの「別の海」の輪郭鮮やかな、シーカヤックシーズンなわけです。
よろしく。