やることはいつも一緒だ。テキストを作って、練り込んで、ステージの上でそれを読む。時々、「今回は本気でやった」とかそういうことを言う人がいるけれど、私は別に人前でお金をとって朗読するのに本気でなかったことなどあるわけないので、やっぱりやることは基本的にはいつも同じである。
変態的なのかもしれないけれど、今でもライヴの前には毎回、「ここでやらかしたら自分もオシマイだな」と思ってしまい、しかもそう思うとワクワクするのを禁じ得ないのである。
例えば、どこか地方でライヴをした時、そこの人たちの前でダサいことをしたら、その土地では私はダサい奴だということになり、二度とかかわってはもらえないだろう。それは地元でだって同じことで、千葉でダサいことをしたら、私は地元で朗読活動ができなくなり、そこらへんをうろうろしているお兄さんとして生きてゆくしかない。いや、もう「お兄さん」と呼ぶのには若干疑問がある年齢なので、「おじさん」と呼ばれても仕方がない。「そこらへんをうろうろしているおじさん」というのは、字面を追うとほぼ、ただの不審者である。
今この時ステージに立ち、初めて出会った人に自分のパフォーマンスを認めてもらえる機会は今この時しかない。「もうしません」なんて言ってもダメなのである。そんなセリフをあとで百回言っても、風の中に消えていくだけだ。誰も聞いてはくれない。世の中の人たちはみんな忙しいのだ。みんな自分の守るべきものがあり、するべきことがあるのだ。お金までとって人のエネルギーと時間を消費させておいてなおかつダサいことをして、あとからくどくど謝るような奴にかまっている暇などないのだ。
そう考えるとステージに立つということは大変怖いのだが、人間はみんな死ぬものである。ひとりの人間に与えられている時間は限られていて、どの一瞬も二度と戻ってこないのだとすれば、生きていくということ自体が元来、あらゆる瞬間においてとてもシビアな側面も持っており、ステージに立つということだけが格別怖いこととも言えないのではないか。
ましてや、私は、文章を書いたり朗読をしたりすることが得意だと自称している男なのであって、得意なことをすることでもって自分という人間を他者に問われる機会があるということは、これはもう幸せとしか言いようがない。だからきっと先にも書いたように、「ここでやらかしたら・・・」みたいなシチュエーションを好きでいられるのだと思う。ありがたいことだ。
昨日、関西の詩人を迎えて新宿ゴールデンエッグで開催された「西へ東へ ~屋根裏ポエトリーナイト×猫道節~」。会場へ向かう電車の中で、私はひとり例によって例のごとく「ここでダメだったら関東全体の恥になるのね!あたしが主宰してるイベントもみんなたたまなきゃいけないのね!帰りに練炭を買って車の中で燃やすしかないんだわ!きゃー、どうしよう!♪☆」みたいなことを考えつつワクワクしていた。経験上、そういう妄想が盛り上がる時は調子がいいのである。
会場入りの際にちょうど関西組と一緒になった。「屋根裏ポエトリーナイト」の元締め、中井拓哉さんは以前、東西詩人交流会のシンポジウムで会って以来、他の人たちは全員初対面だ。関東組の詩人は知っていると言えば知っている人ばかりだが、ミュージシャンの二名はやはり初対面、満員のお客さんの中にも知った顔は数名しかいなかった。ホームだけどアウェイ感満載で心地良い。
関西の詩人たちは、みんな「手ぶらでは来てない」感じで、何かしら関東では見られないようなギミックを保持していた。
関東組では、青木研治さんが一番印象に残っている。楠田陽子さんのピアノとのコラボも素晴らしく、会場をグリップする力が抜群だった。
私は「神さまの人生」を朗読した。中井拓哉さんのピアノはものすごく読みやすかった。
打ち上げで誰かも言っていたが、今、日本の各都市にはけっこういろいろなポエトリーイベントがある。四年に一回くらい、持ち回りでオリンピックみたいなポエトリーリーディングのお祭りを開催したっていいと思う。閉ざされた場所で独自に続けることで発展するものもあるし、それが他の視点に触れることで何らかの再発見に至ることもある。各都市それぞれ招致運動などしたら楽しそうだ。その折には、千葉も立候補しようと思っている。ただ顔を合わせてお酒を飲んだってわからないことも、どんなことであれ真剣にお互い得意なことをして自分の存在を賭け合えば理解し合える。それはきっと、観て、聴いている人にも楽しんでもらえるものになるはずだ。
変態的なのかもしれないけれど、今でもライヴの前には毎回、「ここでやらかしたら自分もオシマイだな」と思ってしまい、しかもそう思うとワクワクするのを禁じ得ないのである。
例えば、どこか地方でライヴをした時、そこの人たちの前でダサいことをしたら、その土地では私はダサい奴だということになり、二度とかかわってはもらえないだろう。それは地元でだって同じことで、千葉でダサいことをしたら、私は地元で朗読活動ができなくなり、そこらへんをうろうろしているお兄さんとして生きてゆくしかない。いや、もう「お兄さん」と呼ぶのには若干疑問がある年齢なので、「おじさん」と呼ばれても仕方がない。「そこらへんをうろうろしているおじさん」というのは、字面を追うとほぼ、ただの不審者である。
今この時ステージに立ち、初めて出会った人に自分のパフォーマンスを認めてもらえる機会は今この時しかない。「もうしません」なんて言ってもダメなのである。そんなセリフをあとで百回言っても、風の中に消えていくだけだ。誰も聞いてはくれない。世の中の人たちはみんな忙しいのだ。みんな自分の守るべきものがあり、するべきことがあるのだ。お金までとって人のエネルギーと時間を消費させておいてなおかつダサいことをして、あとからくどくど謝るような奴にかまっている暇などないのだ。
そう考えるとステージに立つということは大変怖いのだが、人間はみんな死ぬものである。ひとりの人間に与えられている時間は限られていて、どの一瞬も二度と戻ってこないのだとすれば、生きていくということ自体が元来、あらゆる瞬間においてとてもシビアな側面も持っており、ステージに立つということだけが格別怖いこととも言えないのではないか。
ましてや、私は、文章を書いたり朗読をしたりすることが得意だと自称している男なのであって、得意なことをすることでもって自分という人間を他者に問われる機会があるということは、これはもう幸せとしか言いようがない。だからきっと先にも書いたように、「ここでやらかしたら・・・」みたいなシチュエーションを好きでいられるのだと思う。ありがたいことだ。
昨日、関西の詩人を迎えて新宿ゴールデンエッグで開催された「西へ東へ ~屋根裏ポエトリーナイト×猫道節~」。会場へ向かう電車の中で、私はひとり例によって例のごとく「ここでダメだったら関東全体の恥になるのね!あたしが主宰してるイベントもみんなたたまなきゃいけないのね!帰りに練炭を買って車の中で燃やすしかないんだわ!きゃー、どうしよう!♪☆」みたいなことを考えつつワクワクしていた。経験上、そういう妄想が盛り上がる時は調子がいいのである。
会場入りの際にちょうど関西組と一緒になった。「屋根裏ポエトリーナイト」の元締め、中井拓哉さんは以前、東西詩人交流会のシンポジウムで会って以来、他の人たちは全員初対面だ。関東組の詩人は知っていると言えば知っている人ばかりだが、ミュージシャンの二名はやはり初対面、満員のお客さんの中にも知った顔は数名しかいなかった。ホームだけどアウェイ感満載で心地良い。
関西の詩人たちは、みんな「手ぶらでは来てない」感じで、何かしら関東では見られないようなギミックを保持していた。
関東組では、青木研治さんが一番印象に残っている。楠田陽子さんのピアノとのコラボも素晴らしく、会場をグリップする力が抜群だった。
私は「神さまの人生」を朗読した。中井拓哉さんのピアノはものすごく読みやすかった。
打ち上げで誰かも言っていたが、今、日本の各都市にはけっこういろいろなポエトリーイベントがある。四年に一回くらい、持ち回りでオリンピックみたいなポエトリーリーディングのお祭りを開催したっていいと思う。閉ざされた場所で独自に続けることで発展するものもあるし、それが他の視点に触れることで何らかの再発見に至ることもある。各都市それぞれ招致運動などしたら楽しそうだ。その折には、千葉も立候補しようと思っている。ただ顔を合わせてお酒を飲んだってわからないことも、どんなことであれ真剣にお互い得意なことをして自分の存在を賭け合えば理解し合える。それはきっと、観て、聴いている人にも楽しんでもらえるものになるはずだ。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます