Islander Works

書いて、読んで、人生は続く。大島健夫のブログ

詩の旅

2016-12-31 16:31:24 | 日常のこと
28日、無事にイスラエルより帰ってまいりました。

今回は今までの海外遠征の中でもわりと冒険要素が強く、スリリングなことや若干危ないこともいっぱい起きました。なんとか帰り着いた成田では荷物が出て来ず、2日経ってから送られてくる始末。しかし、帰るとまた途端にまた行きたくなってしまうのが不思議なところです。

テルアビブとエルサレムで一度ずつスラムを行いました。各スラマーは二巡ずつパフォーマンスし、優勝者のみ三作目を読むという形式です。お客さんたちはとにかくアグレッシブで、ジャッジも10点満点が乱れ飛ぶどころかみな平気で「25点」だの「30点」とかをつけます。8点とかをつける人がいると大ブーイング。無論、10点を越えた分はカウントされないのですが、司会者が言うには「Point is poetry」。「楽しみに来ている」お客様で満員の中、テルアビブラウンドはデンマークのエミールが、エルサレムラウンドはロシアのアレクサンダーがそれぞれ制しました。エルサレムラウンドの一巡目はトップで回れたのはいい思い出です。今回の出場者は全員、今年のW杯の上位進出者。気心が知れていることもあり、勝ち負けと言うより得意技や代表作を出し合うエキシビションのような色彩もありました。W杯からある種の競技性を抜くとこうなるのかな、とも思いました。


<エルサレムでのスラム後。左からカナダ代表プルーフロック・シャドウランナー、イタリア代表シモーネ、シモーネの恋人マルティナ、ベルギー代表カルメン、私>

スタッフの女性からはイスラエルの軍隊生活の話を聞き、また現地在住の日本の方からは民族間の関係など色々と伺いました。当たり前ですが、ただ街を歩いていて漠然と感じられるその国や土地と、詩を通して出会った一人ひとりの人々を通じて感じられるその国や人はいつも全く違います。何でもいいのですが、例えば「日本人」「イスラエル人」「ユダヤ人」「アラブ人」などといったボンヤリした存在が、目の前にいる血の通った一人の人間として認識し合うことができるようになる瞬間、詩人になって良かったと思います。

2016年はいろんなところに旅をしてきました。

3月にポエトリー・スラム・ジャパンに優勝し、5月にパリで開催されたW杯出場、そこから9月には三角みづ紀さん、橘上さんとともにブリュッセル詩祭に参加、その9月の後半には桑原滝弥さん、星野通映さんとともに宮城県・山元町ツアー。そして今回のイスラエルでのスラム。それ以外にも、全てのステージが、私にとっては一回一回、二度と戻ることができないラインを越えてゆく旅でした。

新しい年も旅は続きます。詩人として生きていきます。

皆様、2016年もありがとうございました。

良い新年をお迎えください。

大島健夫


12月25日~27日"Israel Slamstival"

2016-12-21 12:46:57 | 告知
2016年最後の朗読ステージは、イスラエルです。12月25日から27日まで、かの地で開催される国際ポエトリースラム"Israel Slamstival"に出場いたします。

25日にテルアビブで、26日にエルサレムでそれぞれスラムを行います。出場スラマーには、今年のポエトリースラムW杯で出会った懐かしい顔触れがズラリ。みんな上位進出者ばかりです。

今年、海外で朗読するのは、5月のパリのポエトリースラムW杯、9月のブリュッセル詩祭に続いて三度目となります。自分がイスラエルの地に立っている姿は、今回のオファーを頂くまで想像したことがありませんでした。こうした機会を頂けるのも詩のおかげ、ポエトリーリーディングのおかげです。

ポエトリーリーディングを続けた結果、こうして様々な国に行くことができるようになりました。9月のブリュッセル詩祭、そして今回のIsrael Slamstivalは、ポエトリースラムW杯に出場したことでそのオファーを頂きました。

私は、5月にW杯に出場して以来、ポエトリースラムという競技の存在意義、その価値について考え続けてきました。そして、それは「ポエトリーを通じた人間性の肯定」にこそあるという、現時点での私なりの結論に達しました。

例えばスポーツというものは、押しなべて最終的に、ジャッジは人間ではなく機械にとってかわられる世界に入ってゆきます。その判定の正確性、公平性を追求する限り、人間は機械より優れた判定は絶対にできないのです。

私は全然アスリートと呼べるほどのものではなく趣味の運動程度のものですが、10代の頃から40代の今まで、剣道や空手など運動競技を続けてきました。

それらの試合における審判は、研鑽も積み基準も熟知していたはずですが、長い間には、全然当たっていない技で負けにされたり、反対にかすってもいない技を一本にとってもらったこともあります。そして、ある時にはそうしたことの結果として、恐ろしい事象が生じるのも見ました。試合に敗れた強豪校の選手が監督にボコボコに殴られて「すみません!すみません!」と泣きながら謝っていたり、あるいは、負けたチームの監督そのものがクビになってしまったり。勝つと負けるとでは上下大違いで、下手をしたら何ヶ月も何年も積み上げてきたものが一瞬でパーになってしまうのです。選手たちにはそれぞれ背負うものがあり、真剣に死を覚悟して試合に向かうことだってあるのです。

ですからその判定は絶対に正確なものを目指さねばならず、テレビで見ればわかる通り相撲も、野球も、その他様々な競技にビデオ判定が取り入れられています。人間の目は性能が悪く、不正確だからです。そもそも時速300キロのF1が二台並んでホームストレートでチェッカーを受けた時、どちらが先にゴールしたかを見分けるのに、人間と機械とどちらが優れているでしょうか。それは自明の理であります。

ひるがえってポエトリースラムはどうか。なんとジャッジするのは当日ランダムに選ばれた観客です。訓練も受けておらず、統一された判定基準さえありません。そもそも人間の考え方などというものは、朝何を食べてきたか、その朝食の席で家族とどんな話をしたかという程度のことで変ってしまいます。同じ一人の人間でも、ある時は笑える楽しいわかりやすいものを求め、ある時はシリアスで不可解なものを求めます。そんな人間たちをランダムに選び出して、審査をさせようというのです。

ポエトリースラムW杯では、常に競技は、主催者が観客を煽り、全員で"Best poet never win!"と連呼させてから始まります。言ってみれば、その場にいる選手、観客、関係者の全てに、「これは正確性と公平性を究極に追及するものではない」と宣言し、あらかじめそのことを共有させているわけです。なぜそんなことが許されるのか。それは、厳密な基準を要求された時には機械には決して敵わない人間という存在の持っているなにがしかを肯定しなければあり得ないことです。

では、そのなにがしかとは一体何でしょう?

そもそも、「どんな詩が絶対に優れているのか」という絶対的かつ厳密な基準など、本当はあってはならないものかもしれないものです。

このような詩が優れています。このような詩を優れていると思いなさい。このような詩を良いと思うのは間違っています。これこそが絶対に正しいのです。そう言いつのる誰かがいたら、私は多分言います。「おまえはバカだ」と。それは、人間にとって何よりも大切な内心の自由を侵すものであるからです。たったひとつの思考に基づいて「こういうものを良いと思え」と他者に強要し、そのことに点数をつけるようなことこそがファシズムなのです。

常に揺れ、常に変動し、そして常にその揺れや変動を感じているからこそ、それを、誰かに強制されたものではない自分自身の感覚で捉えようとするからこそ、人間は詩というものを生み出したのではないのでしょうか。ポエトリースラムのシステムが肯定しているものとは、一人ひとりの個人としての存在なのです。

一方、出場するスラマーにとっては、統一された基準がない、人間のすることとしてのジャッジを受け入れねばないということは、そのことを前提として競技に臨まねばならないということは、とりもなおさず「自分の望まない結果が出たとしても、それを受け入れなければならない」ということになります。"Best poet never win"という言葉は、敗者を救う言葉であると同時に、競技者全てに覚悟を促す言葉でもあります。個人としての存在を許された者は、自分ではどうしようもない理由により自分の望まない結果が生じるかもしれないことを受け入れなければならないのです。スポーツ選手に覚悟があるように、ポエトリースラマーにも覚悟があります。私はポエトリースラムW杯の会期中、各国代表スラマーが他のスラマーのパフォーマンスを謗る言葉を、ただの一度も聞きませんでした。

勇敢な素敵で強くて自由で詩に溢れていて最高な人たちと、また別の国で、ポエトリースラムの場で再会します。

行って参ります!

千葉詩亭七周年、ありがとうございました。

2016-12-19 21:21:05 | 出たもの
「千葉詩亭・第四十三回 ~七周年~」、ご来場ご参加下さった皆様、お心にかけて下さった皆様、まことにありがとうございました。

七年間の間、様々な場所、様々な場面でポエトリーリーディングをして参りました。そして今、ポエトリーリーディングというものが七年前よりもこの社会にとって必要とされていることを事実として肌で感じています。また、大好きなポエトリーリーディングを通じて社会にコミットできることを幸せに思っています。

私はポエトリーリーディングを通じて様々なものに触れ、様々なものを得て参りました。では自分には何ができるのか。自分はどうしたらいいのか。その問いはずっと続くと思います。しかし、人間に与えられた時間は常に限られております。常に何かを問い、常に何かを行ってゆくことしかないのだと思います。己に問うたふりをし続けつつ常に何もしないという結論に安住していられるほどの時間は、もう私にはありません。止まらずに動き続けます。

節目の七周年のオープンマイクにご参加くださったのは、

さとうさん
廣川千瑛さん
OOMさん
ポテトチップスさん
URAOCBさん
上條美由紀さん
川方祥大さん
という皆様でした。

オープニングは山口勲が、ジョセフ・ミルズ「誕生詩」、レナ・カラフ・タファハ「走ることを命ずる」、エリザベス・ビショップ「詩」を、ラストは私が新作「男は車を買った」を朗読いたしました。

今後も千葉詩亭はTREASURE RIVER BOOK CAFEにて偶数月の第三日曜に開催を続けて参ります。ねずみ花火みたいなイベントにはしない、というのが私たちの誓いでした。目の黒い間、必ず続けます。

また皆様にお会いできますことを楽しみにしております。


12月4日「大島健夫朗読ワンマンライヴ 詩と物語の世界」、ありがとうございました。

2016-12-05 13:54:22 | 出たもの
昨日・12月4日の「大島健夫ワンマンライヴ 詩と物語の世界」ご来場まことにありがとうございました。

今回ゲストにお迎えした内藤重人さんとは、URAOCBさんのイベントで初めてお会いし、その後、10月に「進撃の詩人」で対バンしました。その時に「一緒にできたらいいな」と思い、どうやって切り出そうかと考えていると、終演後に内藤さんの方から「コラボしませんか」と言って頂き、驚くとの同時に嬉しかったことを覚えています。様々話してるうちに二人とも千葉出身だとわかり、昨日も開演前に『セントラルプラザ』とか『千葉パルコ』とかの話をしていました。

音なしで一人でステージに立ち詩を読むのと、音楽の演奏と一緒に詩を読むのはずいぶん違います。声の出し方やテキストに対するアプローチなども、精神的にも技術的にもほとんど別物だと言っても過言ではないと思います。

今回、内藤さんと2篇、20分あまりを共にしましたが、パフォーマンスしている間、その空間が光り輝いて感じられるような楽しくてわくわくするものでした。自分自身の朗読と内藤さんの音がお客さんとの間で何事かを起こすことができているという実感と、何かに繋がる予感がそこにはありました。

今後もこの二人で積極的にステージに立っていきたいと思います。



今日朗読したのは、前半で

・新しい詩を書き始める
・夢を見たことがない
・小さな王様と大きな女王様
・神さまの人生

後半で

・千葉で生まれた
・夕陽
・カバ対バカ
・羽の生えた車
・男は車を買った
・自動ぬか漬けマシン
・夕陽・15年後

でした。小さな王様と大きな女王様、神さまの人生は内藤さんとのコラボです。

皆様、また近いうちにお会いいたしましょう。

感謝。