Islander Works

書いて、読んで、人生は続く。大島健夫のブログ

篠塚義成「正直、おまえは期待はずれだ。」

2012-11-12 16:32:42 | 読んだ本


篠塚義成「正直、おまえは期待はずれだ。」
文芸社・定価(本体1100円+税)

篠塚義成氏は、言葉のプロであり、長年それで飯を食ってきた人である。ただし、詩人ではなく、コピーライターとしてだ。そんな彼が50歳の節目に刊行した第一詩集がこの「正直、おまえは・・・」だ。

彼が詩を書き始めたのは45歳を過ぎてからであるという。

コピーライターは、クリエイターと称される職業ではありますが、実際には何かを創造するというよりは「代弁者」として誰かの言葉を形にすることが多い仕事です。そして20年近く「代弁者」を務めるうちに、私の中で「自分の言葉で書きたい、話したい」という欲求がふくれ上がり、はじけ、飛び出してきたのが、ここに収められた詩たちでした。
(あとがき)


そこで篠塚氏は「詩のボクシング」に出場する。自分の言葉で書かれた自分の詩を朗読して勝敗を競う「詩のボクシング」には、リアルタイムでその一つ一つの言葉に反応する観客、そしてそれを評価する審査員が存在する。最初から、篠塚氏にとっての詩とは、「受け手」の存在を前提としたものであった。

その題名に象徴されるように、この詩集には安易な救済も根拠のない自己肯定もない。「頑張れば夢はかなうんだよ」もなければ「一人一人はみんな素晴らしいんだ」もない。あるのは、時間と戦い、自らの老いと戦い、今も目の前の一瞬一瞬を戦い続ける男の目に映るビジョンである。男は戦い続け、しかし悟ってはいない。悟る日など来ないのかもしれない。惑い、痛み、怖れ、考え込む。その言葉の受け手に対して問いかけるよりも先に、自分自身に対して問いかける。

正直、おまえは期待はずれだ。
おまえにできることは、たいがいの人にできる。
試しに自分を語ってみろ。
ほかの人とおまえを明確に峻別する、何があるか。
ことさらに個性的である必要などさらさらないが、
人と同じであることを嫌ったおまえであれば、
平均値の引力から、なぜ逃れようとしなかったのか。
(「おまえは何をしてきたのか」)


自分自身のアイデンティティ、自分が過去に過ごしてきた時間、そしてこれから過ごそうとする時間。それは人間にとって、あまりにも圧倒的なものである。

その圧倒的なものに立ち向かおうとする姿勢は、考えようによってはドン・キホーテ的ですらある。私はこの詩集を一気に読み終えた。そこには平均的なものから最も遠い、著者自身の引力が確かにあった。本の帯には、『「癒し」や「勇気づけ」とは対極にある言葉が、なぜか深い共感を呼ぶ』と書かれている。だが、例えそこに表面上の甘さがなくとも、勇敢に戦い続ける人間の中から溢れ出した言葉が、人を勇気づけないはずはないのだ。ましてや、この圧倒的な三つのものこそは、この世界を生きる誰しもが本質的に逃れることのできないものなのだから。

チェン・スウリー詩集「カフェデリコ・カフェリーニ」

2012-11-01 16:00:20 | 読んだ本


チェン・スウリー詩集「カフェデリコ・カフェリーニ」
東京エレガントス・定価1000円

ウェブマガジン「ジャンク派」代表、チェン・スウリー氏の詩集である。初期の「詩のボクシング」等でも活躍していたチェン氏だが、意外にもこの夏刊行されたこれが第一詩集となる。

その「まえがき」で、彼は中原中也とフェデリコ・フェリーニという二人の巨人への、偏愛とも呼べる熱い思いを吐露する。そして、自分がなぜ詩を書き、発表しようとしているかを正面から述べてゆく。

・・・詩というのは、「言葉」という僕たちにとって最も身近なものを取り扱った表現であるにも関わらず、今日、最もマイナーで、多くの人にとって馴染みの薄い表現へと成り下がってしまっています。これは、詩人の責任です。もっと云えば、内ばかり見て外を見ずコミュニケーションを怠ってきた「現代詩」の思い上がりや勘違いが、詩を「ダサいもの」にしてしまったのです。・・・

無論、「現代詩」の側からはこの一文に反論の余地はあるだろう。しかし、重要なのは、チェン氏にとっては、詩という表現は自己の中で完結するものではなく、自分を取り巻く世界との関係性の中で成立するものであるということであり、そして、何よりも彼自身が、それを知った上でその世界と向き合って生きようという姿勢を有しているということだ。

この詩集に収められた数々の詩には、ほぼ常に一人称の自分以外の誰かが、あるいは何かが出てくる。そうでない詩はほんとうに少ないのだが、その中の一篇、「直進」はこんなふうに始まる。

ぼくがこんなに迷っている今も
迷いなく血は流れ続ける
細胞は蘇生し続ける


外の世界と向き合うという作業は、自分自身とは何者なのかという問いを避けて行うことはできない。自分の外側だけでなく、自分の内側にさえ「他者」が存在することを彼自身が認識していることが、彼が世界を、そこに生きる全ての他者を見つめるビジョンに、優しさを与えている。

詩集は、彼にとって「親友であり、家族」であった、一匹の犬に捧げられている。詩集の最後を飾るのはその犬の運命を切々と描いた、まったく無技巧とさえ言える8ページに渡るリアリスティックな一篇である。それは犬を、いやそうではなく、自分以外の誰か、あるいは何かを深く愛したことのある多くの人間の心を、深く打たずにはおかない。