滋賀県 愛知郡愛荘町東円堂 真照寺宝篋印塔
東円堂という、何やらいわくありげな風変わりな地名、集落内に入ると辻に東円堂城跡と記された石碑が立っている。この附近に中世城郭があったのだろうか、現在はそれらしい遺構は認められない。集落の南寄りにある浄土宗法性山真照寺は元亀年間の中興とされる。決して広くない境内で一際存在感を示す宝篋印塔が南面する本堂前西側に立つ。元亀年間よりもはるかに古い遺品である。台座や基壇は伴わず無造作に延石を埋めた地面に置かれている。花崗岩製で相輪を亡失し、代わりに小型の宝篋印塔の笠と五輪塔の火輪以上を重ねて載せてある。笠上までの現存塔高約102cm。基礎は幅約53cm、高さ約40cm。壇上積式で各側面とも羽目には格狭間を入れ、格狭間内には三面に開敷蓮花、一面だけを宝瓶三茎蓮のレリーフで飾っている。基礎上は反花で素弁の隅弁の間は一辺あたり3葉の覆輪付単弁とし弁間には小花がわずかにのぞく。各花弁には微妙な膨らみと緩やかな勾配を持たせており、その表現は優美で平板に退化したものとは自ずと異なる。上端には低い塔身受座を方形に作り出している。格狭間は若干肩が下がり気味ながら全体として整美な形状を示し、花頭中央の曲線は水平に延びて短い両脚部の間は広めにとっている。開敷蓮花のレリーフは平板陽刻風のよく整った形状で分厚くして側面のツラから突出するタイプではない。三茎蓮の彫成もシャープで美しい出来映えを示す。右の葉が上向きで左の葉はやや下を向きシンメトリではない。塔身は高さ約26.5cm、幅約27cm余でわずかに幅が勝る。各側面には金剛界四仏の種子を刻んでいる。彫りは浅く月輪や蓮華座は伴わない。文字は小さくタッチも弱い。笠は軒幅約47cm、高さ約35.5cm。上は六段だが軒下を段形にせず蓮弁請花とする。隅弁の間に3葉の素弁の主弁を置き、弁間に小花をのぞかせる点は基礎上の反花と対応する。蓮弁は表面を平らに仕上げて弁先が軒口に及んでツライチになる。軒口は薄めにして請花の側面を全体に少し膨らみを持たせているのですっきりして優美な印象を受ける。隅飾は二弧輪郭付で軒から5mmほど入って少し外傾しながら立ち上がる。輪郭内は素面。相輪の亡失は惜しまれるが全体に表面の風化が少なく、細部の意匠、彫成とも優れた典雅な宝篋印塔である。装飾的な基礎や笠に比べ塔身の意匠表現がやや貧相に感じるが、同様の手法は近江ではよく見かける。笠、基礎、塔身は大きさのバランスや石材の質感に違和感はなく一具とみてよいだろう。無銘であるが造立時期について川勝博士、田岡香逸氏ともに鎌倉時代末頃と推定されている。元は五尺塔と思われ規模はそれほど大きくなく装飾的で優美な意匠表現から受ける印象は豪健というよりは瀟洒といった方がいいかもしれない。なお、宝篋印塔の笠下は通常段形にするがこれを蓮弁にする例は全国でも20~30例程しかないと思われ希少である。大和では弘長3年(1263年)銘の高取町上小嶋観音院塔や永仁頃と推定される生駒市円福寺南塔などかなり古くから見られるが近江では13世紀代に遡る例は確認されていない。本塔は笠下を蓮弁にする宝篋印塔としては近江で最も古く手法的にも優れた作品とされている。
参考:川勝政太郎「近江宝篋印塔補遺附、装飾的系列補説」『史迹と美術』380号
〃 新装版『日本石造美術辞典』
滋賀県教育委員会編 『滋賀県石造建造物調査報告書』
田岡香逸氏は笠下を蓮弁にする宝篋印塔を「特殊宝篋印塔」と呼んでおられますが、池内順一郎氏が指摘されるように、これだけをもって「特殊」とするのはおかしいと思います。笠の軒下を蓮弁とする宝篋印塔とか笠下請花の宝篋印塔というように素直に呼んだ方が適当と思われます。奈良のほかに兵庫や京都などにも例があるらしいですが半数以上は滋賀に集中しているようです(『蒲生町史』393ページには全国22例中15例が滋賀と述べられています。ちなみに奈良は観音院、円福寺、正暦寺でしょうか、3例となってますが都祁来迎寺など奈良にはもっとありますよね…)。その意味では近江の地域色といえるかもしれませんが、近江のものは南北朝以降の小作品がほとんどで小生はむしろ残っている宝篋印塔の絶対数が違う、つまり近江は分母が大きいということも考えないといけないかなと思っています。石灯籠の中台などでは古くからよくある手法なので応用したのかもしれませんしね。
なお、東円堂という地名は南都興福寺にかつて存在した東円堂領の荘園「大国荘」がこの附近にあったことに由来しているという話もあるようです。(拠『近江愛知川町の歴史』第1巻古代・中世編)