「石造美術」誕生秘話
そして、「京都美術大観」シリーズ『石造美術』篇が翌昭和8年の4月に発行されました。確かに、古い『史迹と美術』誌をめくってみても、発刊間もない頃から石造物に関する記事が少なくありませんが、「京都美術大観」の『石造美術』篇発行の告知記事が最初で、それ以前に「石造美術」という言葉は出てきません。そして、昭和10年に『石造美術概説』を著した頃には、世間の関心も高まり、いろんな方が石造物の新資料を知らせてくれるようになったらしく、石造美術専門の川勝と認められて、もう後に引けなくなってしまったということです。この『石造美術概説』については、服部清五郎氏の名著『板碑概説』に触発されて書いたのだとずっと後になって服部氏本人にカミングアウトされたというエピソードがあるようです…。
ただ、「石造美術」という言葉に違和感を持つ人もいたようです。昭和12年、川勝博士は当時文部省技師だった阪谷良之進氏(1883~1941)の推薦で重要美術品認定の調査嘱託員に任命されますが、就任に際して阪谷技師から伊東忠太博士(1867~1954)に「今度嘱託になった石造美術の川勝君です」と紹介され、天沼博士の師匠筋に当たる日本建築史学界の最長老の前で、川勝博士はガチガチになって挨拶したそうですが、伊東博士から「石造美術とは変な言葉だな」と言われたそうです。しかし、ダメ出しまではなかったということでしょう。昭和12年というと川勝博士35歳頃、伊東博士は73歳頃の話です。さて、「石造物、石造遺物などでは、いくら対象が石でも固すぎる」というくだりは、少しジョークが入っていますが、実は重要な部分で、本の売れ行きもさることながら、やはりこの分野を広く普及啓発しなければならないという思いがあったと解するべきでしょう。専門家だけでなく一般にも受け入れられやすくあるべしというお考えがあったと思われます。必ずしも美術的なものばかりではない石造物にも工人たちの美的探究心や技術的向上心を汲んで、そこはあまりこだわらないでおくというあたりに苦心の跡が見て取れるように思われます。流石の伊東博士はその辺りを見抜いておられたのかもしれません。(続く)