小学生や高校生には無視されるが(健康な人に健康教育ってムズカシイ)、一定の年齢以上がよく反応する「カラダによい」というターム。
医師はそのような漠然とした話は通常しませんが、巷ではこのキャッチでいろいろなグッズやサプリ等が売られています。
「害がないならいいんじゃないか」とか「プラセボ効果でも効果は効果だからいいじゃないか」「本人が満足するならいいじゃないか」と基本容認の人から、本来の医療アクセスを妨げるのでよくない、他の健康行動にも影響するからダメ、デマの拡散ヨクナイという反対もあります。
サイエンスあるいは疫学の訓練を受けた人たちの間では、話の整理の軸がとりあえずあるので、完全一致じゃなくても一定の範囲の共通理解や会話が成り立ちますが、そうした話のバックグラウンドのないところでは話はかみ合わない、ややこしくなります。(片方は科学的に正しいかどうかに関心がないからです)
今回、福島第一原発の問題で、科学「だけ」じゃ解決しない政治判断の問題を話しあっているところに、「少量の放射線はカラダにいいのだ」(ホルミシス効果)という説をまぜてくるひとたちもいます。もしかしたら「心配するな」「安心しろ」という親切なのかもしれませんが、そもそも当事者の関心や健康管理の話とはずれています。
昨日書店で購入した本を読んでいたら、放射性物質について「カラダによい」ともてはやされていた時代のエピソードがいくつかあったので紹介します。
著者の武田氏が2006年に執筆された『「核」論―鉄腕アトムと原発事故のあいだ』の増補版が新書になったものです。
そのなかの
「1957年 ウラン爺の伝説―科学と反科学の間で揺らぐ「信頼」(p60~)の章の71ページ「放射能フィーバー」から。
1957年当時、ガイガーカウンターを個人で入手して全国を行脚し、政府の裏をもかき、一山あてようとがんばっていたおじさんの話です。
「たとえば―、ここでは当時の東自身の得意な行動に改めて注目したい。生前の東は「健康にいい」といってウラン鉱を風呂に入れ、「野菜がよく育つ」といってウラン鉱をまぜた肥料で野菜を育て、それを常食していたという。(略)
ウラン鉱探しが国民的な熱狂の対象となっていた時期に、ウランに焦がれたのは東だけではなく、たとえば人形峠の観光みやげもの屋にもウラン饅頭が並び、ウラン粉末を加えることで光沢を増したとされるウラン焼きという陶器季が売られたという。」
この人がタイトルにあるウラン爺。
中で『サンデー毎日』がウラン婆さんがつくる「放射能酒」を紹介しているエピソードもあります。
武田氏は「放射能のなんたるかを理解しない熱狂、そしてあまりにも安易に民間療法に飛びつく拙速ぶりー。こうした馬鹿げた傾向を、当初ぼくは日本社会に特有の科学的思考力の欠落だと思っていた。」と書くと同時に、このとき原子力委員長が核燃料をガイネンリョウ、経済企画庁の初代の原子力局長が原子力を「ハラコリョク」と読んだりする学習経験の不在があったというエピソードも紹介しています。
また、米国での熱狂時代を紹介しています。 1920年代、米国でもラジウム商品は人気で、膣ゼリー、クリーム、キャンディなどに混ぜられており、医師は関節炎、高血圧、腰痛、糖尿病にラジウム処方をしていた時代があったそうです。(1931年に広告塔として1マイクロキュリーを含むラジウム含有強壮剤を自分で飲んでいたバイヤーズが死亡してこの熱は冷めていきました)
その後、放射線が人体にどれほど影響するかの評価が本格的に始まります。
「人間はどこまで被ばくに耐えられるのか」=兵士にどの程度の装備をすればいいのか。
その全体像を明らかにしようと書かれたのが『プルトニウムファイル』。元の英語の本は「The Plutonium Files: America's Secret Medical Experiments in the Cold War」です。
健康問題なので、医学の話でもあります。
専門家もいろいろやっています。
カリフォルニア大学で放射線研究をしていた研究者同士が、講演の壇上で仲間にナトリウム24を飲ませて、その50秒後にガイガーカウンターが鳴り出す話。
バークレーの研究所でプルトニウム10㎎のはいったバイアルを飲んだ研究員の話。
当時の人体許容量は1μg。
武田氏「こうした核をめぐる「おかしさ」を、先端的な科学の担う宿命の反映として真摯に受け止める必要がある。先端的な科学技術の場合、歴史的な実証、検証を経ていないので、それが実際にどのような可能性を担い、どのような危険を伴うのか分からない。分からないために何かと過剰な振る舞いをしてしまう」
(中略)
「かくして、どの説を信じるかによって、原子力を巡る評価は大きく異なる。どの説を信じるかは、どの論者を信じるかに依存し、どの論者を信じるかは、その説がどれほど信じられそうかの感触に依存する。つまりこの種の問題は堂々巡りに必ずや至る。」
・・このあとニクラス・ルーマンの話などをひきつつ、“説明して納得させてくれる「共同幻想」に依存せざるをえない量が相対的に多くなる”ことなどリスクコミュニケーションに通じる話の解説があります。
科学や事故の軸ではなく、社会や人々がどう反応をしていったのかという整理がたいへんわかりやすく、また自分はそのとき何をしていたのだろうとも考えました。
2011年論―新書版前書きにかえて
1954年論―水爆映画としてのゴジラ 中曽根康弘と原子力の黎明期
1957年論―ウラン爺の伝説 科学と反科学の間で揺らぐ「信頼」
1965年論―鉄腕アトムとオッペンハイマー 自分と自分でないものが出会う
1970年論―大坂万博 未来が輝かしかった頃
1974年論―電源三法交付金 過疎と過密と原発と
1980年論―清水幾太郎の「転向」 講和、安保、核武装
1986年論―高木仁三郎 可学の論理と運動の論理
1999年論―JCO臨界事故 原子量的日航の及ばぬ先の孤独な死
2002年論―ノイマンから遠く離れて
文庫版あとがきにかえて―「満州国」「ハンセン病療養所」「核」
医師はそのような漠然とした話は通常しませんが、巷ではこのキャッチでいろいろなグッズやサプリ等が売られています。
「害がないならいいんじゃないか」とか「プラセボ効果でも効果は効果だからいいじゃないか」「本人が満足するならいいじゃないか」と基本容認の人から、本来の医療アクセスを妨げるのでよくない、他の健康行動にも影響するからダメ、デマの拡散ヨクナイという反対もあります。
サイエンスあるいは疫学の訓練を受けた人たちの間では、話の整理の軸がとりあえずあるので、完全一致じゃなくても一定の範囲の共通理解や会話が成り立ちますが、そうした話のバックグラウンドのないところでは話はかみ合わない、ややこしくなります。(片方は科学的に正しいかどうかに関心がないからです)
今回、福島第一原発の問題で、科学「だけ」じゃ解決しない政治判断の問題を話しあっているところに、「少量の放射線はカラダにいいのだ」(ホルミシス効果)という説をまぜてくるひとたちもいます。もしかしたら「心配するな」「安心しろ」という親切なのかもしれませんが、そもそも当事者の関心や健康管理の話とはずれています。
昨日書店で購入した本を読んでいたら、放射性物質について「カラダによい」ともてはやされていた時代のエピソードがいくつかあったので紹介します。
著者の武田氏が2006年に執筆された『「核」論―鉄腕アトムと原発事故のあいだ』の増補版が新書になったものです。
そのなかの
「1957年 ウラン爺の伝説―科学と反科学の間で揺らぐ「信頼」(p60~)の章の71ページ「放射能フィーバー」から。
1957年当時、ガイガーカウンターを個人で入手して全国を行脚し、政府の裏をもかき、一山あてようとがんばっていたおじさんの話です。
「たとえば―、ここでは当時の東自身の得意な行動に改めて注目したい。生前の東は「健康にいい」といってウラン鉱を風呂に入れ、「野菜がよく育つ」といってウラン鉱をまぜた肥料で野菜を育て、それを常食していたという。(略)
ウラン鉱探しが国民的な熱狂の対象となっていた時期に、ウランに焦がれたのは東だけではなく、たとえば人形峠の観光みやげもの屋にもウラン饅頭が並び、ウラン粉末を加えることで光沢を増したとされるウラン焼きという陶器季が売られたという。」
この人がタイトルにあるウラン爺。
中で『サンデー毎日』がウラン婆さんがつくる「放射能酒」を紹介しているエピソードもあります。
武田氏は「放射能のなんたるかを理解しない熱狂、そしてあまりにも安易に民間療法に飛びつく拙速ぶりー。こうした馬鹿げた傾向を、当初ぼくは日本社会に特有の科学的思考力の欠落だと思っていた。」と書くと同時に、このとき原子力委員長が核燃料をガイネンリョウ、経済企画庁の初代の原子力局長が原子力を「ハラコリョク」と読んだりする学習経験の不在があったというエピソードも紹介しています。
また、米国での熱狂時代を紹介しています。 1920年代、米国でもラジウム商品は人気で、膣ゼリー、クリーム、キャンディなどに混ぜられており、医師は関節炎、高血圧、腰痛、糖尿病にラジウム処方をしていた時代があったそうです。(1931年に広告塔として1マイクロキュリーを含むラジウム含有強壮剤を自分で飲んでいたバイヤーズが死亡してこの熱は冷めていきました)
その後、放射線が人体にどれほど影響するかの評価が本格的に始まります。
「人間はどこまで被ばくに耐えられるのか」=兵士にどの程度の装備をすればいいのか。
その全体像を明らかにしようと書かれたのが『プルトニウムファイル』。元の英語の本は「The Plutonium Files: America's Secret Medical Experiments in the Cold War」です。
健康問題なので、医学の話でもあります。
専門家もいろいろやっています。
カリフォルニア大学で放射線研究をしていた研究者同士が、講演の壇上で仲間にナトリウム24を飲ませて、その50秒後にガイガーカウンターが鳴り出す話。
バークレーの研究所でプルトニウム10㎎のはいったバイアルを飲んだ研究員の話。
当時の人体許容量は1μg。
武田氏「こうした核をめぐる「おかしさ」を、先端的な科学の担う宿命の反映として真摯に受け止める必要がある。先端的な科学技術の場合、歴史的な実証、検証を経ていないので、それが実際にどのような可能性を担い、どのような危険を伴うのか分からない。分からないために何かと過剰な振る舞いをしてしまう」
(中略)
「かくして、どの説を信じるかによって、原子力を巡る評価は大きく異なる。どの説を信じるかは、どの論者を信じるかに依存し、どの論者を信じるかは、その説がどれほど信じられそうかの感触に依存する。つまりこの種の問題は堂々巡りに必ずや至る。」
・・このあとニクラス・ルーマンの話などをひきつつ、“説明して納得させてくれる「共同幻想」に依存せざるをえない量が相対的に多くなる”ことなどリスクコミュニケーションに通じる話の解説があります。
科学や事故の軸ではなく、社会や人々がどう反応をしていったのかという整理がたいへんわかりやすく、また自分はそのとき何をしていたのだろうとも考えました。
2011年論―新書版前書きにかえて
1954年論―水爆映画としてのゴジラ 中曽根康弘と原子力の黎明期
1957年論―ウラン爺の伝説 科学と反科学の間で揺らぐ「信頼」
1965年論―鉄腕アトムとオッペンハイマー 自分と自分でないものが出会う
1970年論―大坂万博 未来が輝かしかった頃
1974年論―電源三法交付金 過疎と過密と原発と
1980年論―清水幾太郎の「転向」 講和、安保、核武装
1986年論―高木仁三郎 可学の論理と運動の論理
1999年論―JCO臨界事故 原子量的日航の及ばぬ先の孤独な死
2002年論―ノイマンから遠く離れて
文庫版あとがきにかえて―「満州国」「ハンセン病療養所」「核」
私たちはこうして「原発大国」を選んだ - 増補版「核」論 (中公新書ラクレ 387) | |
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沖縄の長寿も、鉄の暴風をくぐり抜けた強靭な人だけが計算に入っていやしないのか?と危惧している。