平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2014年1月5日 最初のしるしの場所

2014-07-19 23:13:38 | 2014年
ヨハネによる福音書2章1~11節
最初のしるしの場所

 ヨハネによる福音書によれば、イエス様のなさった最初のしるしは、婚礼の宴会の場で、水をぶどう酒に変えた奇跡でした。これは、ガリラヤのカナという村でなされました。これは、イエス様がある人の婚礼に弟子たちと共に招かれたときのことでした。このとき、母マリアはその宴会の手伝いを頼まれて、イエス様たちよりも、一足先に来ていたものと思われます。
 そして、おそらく宴もたけなわだった頃のことでしょう。せっかくのぶどう酒が底を尽きました。ぶどう酒がないのでは、その場がしらけてしまうだけでなく、結婚式にケチがついてしまいます。また、宴会を主催している婿としてもたいへん跋の悪いことでした。二人のめでたい門出に、集まってきてくれた多くの人たちに対して、申し訳ない、そのような気持ちにマリアは花婿と花嫁をさせたくありませんでした。マリアは、何とかしなければと思いましたが、あてはありません。
 そこで、イエス様にお願いするのでした。マリアは、イエス様が、きっと何とかしてくださるだろうと信じておりました。それで、「ぶどう酒がなくなりました」とイエス様に告げました。この一言は、ただ、現状を述べたに過ぎなかったというようにも理解できないことはありませんが、このあとのイエス様の応答からして、この一言はイエス様に何とかして欲しいというマリアの気持ちが込められていたことがわかります。
 ところが、それにしても、イエス様のそのときの応答はそっけないものでした。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのですか。わたしの時はまだ来ていません」というものでした。わたしの時というのは、十字架のそのとき、という意味でしょう。まだ、自分の力を発揮するような時になっていない、ということだったのでしょうか。はっきりわかることは、これは、断りの言葉だったということです。しかし、そう言われたからといって、それで、マリアは諦めることをしたかというと、そうはいたしませんでした。「しかし、母は召し使いたちに、『この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください』」と言ったのでした。マリアには、このように言われたイエス様だけれど、必ず、どうにかしてくれるに違いないといった確信がありました。
 そして、そのマリアの確信は的を得ていました。イエス様は、そのあと、召し使いたちに、そこにあった水がめを水で一杯にさせ、それを宴会の世話役のところに持っていくように命じました。その時、それはぶどう酒に変わっていました。それもかなり良質のぶどう酒になっていました。世話役は、召し使いの者たちが、持ってきたぶどう酒を味見して、これはかなり良いぶどう酒だと思い、どこから持ってきたのかと召し使いたちに尋ねました。召し使いたちは、この件について、世話役には何も言わなかったようです。
 それで、世話役は、花婿を呼んで、「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったところに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました」と言いました。この世話役は、どういうつもりで、花婿を呼んで、このようなことを言ったのかよくはわかりませんが、想像するに「ぶどう酒がなくなったというので、はらはらしましたが、ちゃんとぶどう酒は用意されていたじゃありませんか。それも、良いものが残されていました。
 ちなみに、言っておきますが、これは順番が違います。良いものは最初に出すんです。劣っているものは、酔いがまわって、味もあまりわからなくなったあたりで、出すものなんです。わかりましたか、気をつけてください。それにしても、はらはらしましたよ」と、少々、何か言わないと気が収まらないといったことだったのでしょうか。それとも、「普通は、良いものは最初の方で出すのに、そういうことも皆だいたいわかっているのですが、確かに、始めに出されたものも悪くはありませんでしたが、それよりもさらによいのが、皆が酔いがまわったころに出てくるなんて、あなたには何か、お考えがあるのですか。腑に落ちませんね」そういう、ただ単純に、その意図を問い正そうとする気持ちからのことだったのかもしれません。はっきりしていることは、この世話役も驚くほどに、非常によいぶどう酒になっていたということでした。
 旧約聖書、イザヤ書の25章の6節から9節の御言葉を思い起こさせます。「万軍の主はこの山で祝宴を開き、すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。主はこの山で、すべての民の顔を包んでいた布とすべての国を覆っていた布を滅ぼし、死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民の恥を地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそ、わたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び踊ろう」。
 万軍の主、神様が、祝宴を開き、良い肉とえり抜きの酒をくださる、ということが書かれています。そして、この方は、救い主であって、私たちから死を永遠に滅ぼしてくださる方であり、私たちは、この方を待ち望んでいた、というようなことが書かれております。まさに、このイエス様がガリラヤのカナでなさったお話と重なり合う部分があるでしょう。イザヤ書にすでに預言されていたことがこのとき起こったというようにも、理解できます。ガリラヤのカナは、主が祝宴を開かれたこの山に相当する場所でした。
 さて、この物語からいくつかのことを教えらます。一つは、イエス様をどこまでも信じる母マリアの姿です。彼女はイエス様から一旦断られたことに対しても、諦めることをせずに、それでも、ぶどう酒を何とかしてくれるものと信じました。結果は、彼女が期待したとおり、否、それ以上のものが与えられたということになりました。ただのぶどう酒ではありません。祝宴の世話役が驚くほどに、かなり良いぶどう酒が与えられたのではないでしょうか。子どもにやるべきパンを小犬にやってはいけない、とイエス様が、異邦人の女性の子どもの癒しを断ったときに、机の下にいる子犬も、テーブルから落ちた主人のパンは食べますといって、イエス様からの癒しが自分たちのような異邦人にも及ぶことをしつこく願った、あの女性を思い出します。あの女性も、信仰がイエス様に認められ、娘の病気も癒されました。
 そのようにしつこく願う者に、イエス様が、恵みをたまわらないはずがありません。また、水を汲んで水がめを一杯に、それを世話役に持っていった召し使いたちもまた、なかなかの者たちだと思います。マリアは、この人の言うとおりにしてくださいと召し使いたちにお願いしておりましたが、ぶどう酒が足りないというのに、水を持っていくということの意味はよくわからなかったに違いありません。
 しかし、マリアが、この人の言ったとおりにしてください、と言うので、彼らはそのとおりにしました。確かに、水がめに水をためるまでは、どうということなく行っていたでしょう。しかし、それを、おそらく他の入れ物に移し替えてのことだったと思われますが、それを世話役に持っていきなさい、と言われた時点で、これはどういうつもりだろう、何かへんだぞ、と召し使いたちは思ったと思います。もし、彼らがこんな水持っていって何になるのだろう、と考えて、言われたことをしなかったらどうなったことでしょう。それでも、マリアがそうしなさいと言っていたからというので、そのとおりに動きました。召し使いたちのこうした素直な行為、信仰にも似た行為がなければ起こらなかった、いくつかの事柄でした。その結果、この召し使いたちも、イエス様の行われたしるしを目の前で見ることになりました。
 そして、最初のしるしが行われたこの場所です。ここは、辺境のガリラヤの地、イエス様が育った土地です。その一つの貧しい村でした。しかし、その場所は、そのままでいけば、少なくともこれから新しい出発をする二人にとって、人生で最高の祝いごとになるはずの場所が、恥にまみれたものにもなりかねない、けちがつきかねない、そのような場になる可能性がありました。せっかくの喜びの場が、けちのついた悲しい場になりかねない、そのような可能性がありました。しかし、そうならずにすみました。むしろ、その場は、神様の栄光あふれる場になりました。負で終わろうとしていた場所をイエス様は、神様の栄光あふれる場所に変えてくださいました。「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた」とあります。
 私たちの人生は、もろいものです。最高の喜びごとも、あるちょっとしたことで、不幸になったり、不安に陥ってしまいます。いろいろと計画していても、それがかなわぬときがあります。思わぬ出来事が起こります。彼らは、結婚式のことでは、入念な準備をしていたはずであります。ぶどう酒も十分に用意していたことでしょう。しかし、来るお客の数が予想を遥かに上回ったのでしょう。そうです、人生には思わぬことが起こります。
 ただし、そのような突発的なことが起こっても、イエス様により頼むことができるのは、何とうれしいことでしょうか。イエス様は、今日の箇所のように、たとえ母マリアであっても、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしのときは、まで来ていません」ときっぱりとお断りになられます。しかし、だからといって、何もしてくださらないかというと、そうではありません。この場合のように、予想を遥かに超えて、さらによいものをお与えになられます。普通のぶどう酒が与えられたのではなく、かなり良いぶどう酒が与えられました。
 今はよくなくても、これからはきっとすばらしい状況を与えてくださるに違いない、今は与えられなくても、そのうち、期待していたもの以上のものが与えられるに違いない、そう信じることができるのが、キリスト教の信仰です。ですから、今、すぐに祈ったことが与えられない、そのようにならない、そういうときには、さらによい何かが、そのうちにきっと用意されているのだと、思って待つことに致しましょう。
 2014年の最初の主日礼拝の箇所は、ヨハネによる福音書の2章1節から11節です。「イエスは最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた」とあります。最初のしるしと書かれていますから、考えるに、皆さんのそれぞれに、これまで与えられたしるしは、このイエス様がなさった最初のしるしから、いったい何番目くらいのしるしだったのでしょうか。
 そして、この2014年に与えられるしるしは、いったい何番目のしるしになるのでしょうか。このしるしというものは、とても大切なものです。なぜなら、「それで、弟子たちはイエスを信じた」とあります。いくらなんでも、イエス様を信じてこれまでの人生を歩んできたのに、何のしるしも与えられなかったという人がいるでしょうか。それは、ありえないことです。また、何らかのしるし(聖霊のお働き)をいただいたと思ったからこそ、バプテスマ(洗礼)も受けた、そう言えるはずです。もし、否、自分には何もなかった、という方がいるならば、その方は、どうか礼拝が終わったあとに、牧師室までいらしてください。私と一緒に、神様に物申したいと思うのです。
 私たちは、神様に守られ、導かれ、多くの恵みをいただき、幾度もの困難を乗り越えることをさせていただきました。この2014年もそうであることを祈ってまいりましょう。今年も多くのしるしをいただけることを期待してまいりましょう。そして、あちこちに神様のご栄光が現れることを願いましょう。


平良師

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