平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2006年9月17日

2006-11-19 12:35:14 | 2006年
ヨハネ福音書9章1~12節
  神の業がこの人に現れるため

 イエス様は、通りすがりに生まれつき目の見えない人をみかけました。弟子たちは、「ラビ(先生)、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」と聞きました。
 弟子たちは、はじめから、この男が目が見えないのは、この男の罪か、両親による罪のせいだと決めつけております。この場合、どちらが罪を犯したのか、ということだけを弟子たちは知りたかったのです。このような生まれつきの障害を負っている者が、罪の結果によるものだという理解は、当時のほとんどの者が致しておりました。
 ファリサイ派を中心とするユダヤ人たちが、この男に、尋問の最後のところで、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と、いう言葉でもわかるように、一般的にそう考えられていたのでした。
 それだけに、そのような障害を持っている人々は、体の不自由さに加え、人々が与える罪人というレッテルによって、肉体的にも精神的にも、随分と苦しめられていたのでした。
 ですから、このとき、イエス様が、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」という言葉は、とても意外で、驚かされるものでした。
 罪の結果、障害を負ったり、病になったりということはありませんし、むしろ、それは神様の業が現れるためというのですから、考え方が180度変えられるような言葉でした。
 それではこの物語では、いったい何が、その神のみ業にあたるというのでしょう。一つは、この男の盲目だった目が、見えるようになったという出来事です。イエス様は、この男を見て、憐れに思われたのでしょう。地面に唾をし、唾で土をこねてその男の目に塗りました。そして、シロアムという名の池に行って洗うように言ったのでした。そして、そのとおりに男がすると、彼の目は見えるようになったのです。
 人々は、この出来事を不思議に思ったからでしょうか、神様のなさる業だと考えたからでしょうか、何かひっかかるものがあったからでしょうか、それとも癒されたことをファリサイ派によって、証明してもらおうと考えたからでしょうか、ファリサイ派の人々のところへこの男を連れて行きました。ファリサイ派は、律法をしっかりと守ることに気持ちを集中し、努めている人々でした。
 しかし彼らの熱心さは、そうできない者たちに罪人として烙印を押し、裁くことになったのでした。その彼らのところへ人々はこの男を連れて行きました。ファリサイ派の人々は、この男の身の上に起こった、すばらしい出来事を共に喜ぶということはしませんでした。彼らが、まずチェックしたことは、イエス様がこの奇跡を行ったのが、安息日であったということでした。
 安息日には、労働してはならないことになっていました。このようないわゆる治療行為もまた、労働にあたりましたから、罪を犯しているという認識がファリサイ派の人々には最初に生じたのでした。
 そして、このイエスという男はいったい何者なのだろうということになりました。ファリサイ派のなかには、安息日を守らないから、そういう者は罪人であり、神様のもとから来たのではない、と主張しました。
 しかし、罪ある人が、このようなしるしを行うことができるだろうか、という者もいました。そこで、とうとうこの盲目だった男に質問が及んだのです。「お前は、あの人をどう思うのか」。そこで彼は、「あの方は、預言者です」と答えたのでした。預言者ですから、神様のところから来たということでした。
 しかし、ユダヤ人たちは、この男の身の上に起こった出来事を彼の言うとおりには、信じようはしませんでした。ついには、この男の両親を呼んで、確かめることになりました。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか」と聞いたのでした。
 ところが、この両親は、彼が自分たちの息子で、生まれつき目が見えなかったことは、認めましたが、それが、今どうして見えるようになったのか、誰が目を開けてくれたのか、そのようなことはわからないと言ったのです。そして、そこらのことは、本人はもう大人なのだから、息子に聞いてくれと言ったのでした。
 しかし、この両親は、息子からことの次第はどうも聞いていたようです。どのような人物が、どのようにして、目を開けてくれたのかは聞いていたのです。それではなぜ、両親は、尋問しているユダヤ人たちにそのことを言わなかったといいますと、ユダヤ人たちを恐れていたからである、と説明されています。
 ユダヤ人たちは、イエス様をメシア(キリスト、救い主)であると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのでした。「会堂から追放する」というのは、破門するということでした。この両親も、息子が目が見えるようになったことを喜んでいないはずはありません。いや、喜んでいたはずです。
 それで、いろいろと息子から聞いていることを伝えたかったはずですが、それよりも、自分たちの身を守ることにここでは心を奪われていたのでした。息子に聞いてくれといえば、再度、息子が尋問を受け、窮地に立たされることもありえますから、そういった意味では、ちょっと自分の息子に対して、冷たい感じのする親でもあります。この盲目の男が、あまり愛情を受けずに、この年になっていたものと思われます。
 案の定、もう一度、この盲目だった男は、尋問を受けることになりました。ユダヤ人たちは、はじめに「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ」と述べたのでした。
 彼らには、イエス様が、安息日に治療をして罪を犯したという理解がありました。その他にも、いろいろと噂を聞いて、律法をないがしろにしている者であることを知っておりました。
 しかし、盲目だった男は、「あの方が罪人かどうか、わたしにはわかりません。ただ一つ知っているのは、目が見えなかったわたしが、今は見えるということです」。
 そしてまた、彼らは、「あの者はお前にどんなことをしたのか、お前の目をどうやって開けたのか」と前にも質問した同じことを繰り返し聞いたのでした。それで、この盲人だった男は、彼らに、最初話したときに、あなたがたは、信じなかった、それなのに、どうしてまた、それについて聞こうとするのか、「あなたがたもあのお方の弟子になりたいのですか」と応答したのでした。
 これを聞いて、ユダヤ人たちが激怒したのは言うまでもありません。彼らは、この男をののしりながら、「神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない」と言いました。
 そこにいたユダヤ人たちは、そのお方が、神様のもとから来たということだけは決して認めるわけにはいかない、そういうふうに決めていたと思われます。裏を返せば、もしかしたらそうかもしれないという畏れが彼らの心の中にあったということです。
 そのことをこの盲人だった男は見抜いて、「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存知ないとは、実に不思議なことです。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことはお聞きになります」と反論したのです。
 あなたがたユダヤ人が、罪ある人間だと言っているイエスが、ほんとうにそうであるのなら、どうして彼がこのような盲人の目を治すなどということができるでしょうか、神様は、罪びとの言うことはお聞きにならないということを私たちも知っています。
 そうあなたがたも言ってきたではないか、と心の中で思ったのではないでしょうか。神様は、神様をあがめ、御心を行う人の言うことをお聞きになるのです、だから、「あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」と、きっぱりと、イエス様が、神様のもとから来られた方であると告白をしたのです。
 そうしますと、彼らは、腹をさらにたてたようです。「お前は全くの罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返して、彼を外に追い出したのでした。つまり、追放した、破門したのでした。
 今まで物乞いをして生活をしていた、目の見えなかった男が、それは施しを乞う毎日であり、ある意味では自分の意見を述べるというような積極性よりは、むしろ受身の毎日であっただろう彼が、目が見えるようになって、しかも、心の中にメシア、キリストとしてのイエスという方をいただいて、見違えるように変わってしまったのです。
 「あの方は、神のもとから来られた」そうきっぱりと告白したのです。それも、そのようなことを言えば、会堂から追放される、破門されるということを知っていて、それは当時のユダヤ社会からはじきだされる恐れが十分あったということなのですが、そのような状況のなかでなお危険を犯し、堂々とした態度をとることができたのでした。
 イエス様は、この男が、会堂から追放されたことをお聞きになりました。そして、彼に出会うと「あなたは人の子を信じるか」と聞かれました。そして、彼がその方を信じたいと言うので、「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」と自分のことを明かされました。そこで彼は、「主よ、信じます」と言って、主告白をなして、ひざまずいたのでした。
 私たちは、この物語において、神の業が彼の上に現れるというとき、それは、彼の目が見えるようになった、そのことだけを考えていないでしょうか。この物語をみるとき、私たちは、それだけでないことがわかります。むしろ、その神の業というのは、彼が、こうして信仰をもち、主の前にひざまずき、これからの後の人生を新しく歩み出していくということだったのではないでしょうか。
 この物語の出発は、イエス様が、まずこの盲人の男に目を留められたことでした。「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた」とあるとおりです。ここに集われているお一人ひとりにも、イエス様は、目を留められたのです。そのことはまず、私たちに与えられた恵みの第一の事柄です。
 それは、私たちが負っている、この男が負っていたと同じように、それぞれにあるつらさや苦しみ、悲しみ、解決すべき課題に目を留めてくださったということです。そして、その悲しみや苦しみ、つらさ、解決すべき課題に応答してくださるということです。
 悲しみ、苦しみを取り除き、癒し、慰めてくださいます。課題を解決へと導いてくださいます。それから、それだけではありません。あなたの主がどなたかを知らせてくださるのです。
 今日の招詞にあるように、「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない」このような信仰をいただくことになるなら、私たちは、人生のいかなる嵐のときにも、揺るぐことなく、歩み続けることができます。
 今日は、ご高齢の方をおぼえての礼拝を守っています。Y.E姉のお証もうかがうことができました。これまでの皆様の人生においても、幾たびの困難なときがあったことと思います。そして、そのときどきに、神様のみ業が現れたことと信じます。しかし、一番の神様のみ業は、私たちが、神様を信じて歩んでいくというその出来事を許してくださったということです。
 イエス様をメシア、キリスト、救い主と信じることができたからこそ、あの盲目だった男は、自由な、何をも恐れぬ生き方をはじめることができました。罪の身であるというレッテルをものともせず、逆に、堂々と自分を罪に定める者たちと議論を交わすことができました。彼は自由であり、心の目もまた開かれることになりました。
 この物語には、もう一つまとめがありまして、イエス様がこう言われるのです。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」。
 そこで、そこにいたファリサイ派の一人がイエス様に問うたのでした。「我々も見えないということか」。イエス様は、「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、見えるとあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」。
 私たちは主を信じて歩んでいます。その生き方は、「私はよく見えている」という自己絶対化から解き放たれた生き方です。見えると言い張ることは、私たちにはできません。私たちにとって、絶対なるものは、神様おひと方だからです。
 その方を信じて歩むがゆえに、私たちは自由であり、解き放たれているのです。それでいながら、主に対してはどのように歩むべきかを知らされているので、優柔不断ではありません。私たちは年齢を重ねますと、つい頑固になってしまいます。
 しかし、イエス・キリストを信じる方々は、いつまでも柔軟であられます。謙虚であられます。自由であられます。神様以外のものを恐れることをされません。
 教会において、このような先達に囲まれていることを私たちは喜びたいと思います。このような方々と共に歩む信仰の道、主への道を私たちはこれからもいつまでも喜びたいと思います。


平良 師

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