平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2017年8月20日 契約のしるし

2018-03-02 16:55:02 | 2017年
創世記9章1節~17節
契約のしるし

 桁違いの大きな洪水によって、箱舟のノアとその家族、そして、選ばれた動物たち以外は、すべて滅び去ってしまいました。そして、水が引いて陸地が現れ、彼らが箱舟から外に出られたのは、雨が降り始めて1年後でした。
 その間、ノアは、どんなにか孤独であり、実際どうなるのかわからない状態の中にあって非常に不安であったことでしょう。彼がその間、どのような思いで箱舟の中で過ごしていたのかはわかりませんが、当初は、外は強い雨であり、後半は雨は止んだもののどこまでも続く、海のただなかでしたから、それも非常に長い時間、普通ならば少し、平常心を失うようなことではなかったでしょうか。
 しかし、神様は、箱舟にいるものたちを心に留められていたので、彼らは何とか1年の箱舟のなかでの生活に耐えることができました。創世記8章の1節には「神は、ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣とすべての家畜を御心に留め、地の上に風を吹かせられたので、水が減り始めた」とあり、前半にノアと箱舟のすべての獣、家畜に心を留められたとありますから、その神様の守りによって、ノアをはじめ、彼の家族、そしてまた、他の動物までもが何とか箱舟の中での生活に耐えうることができたことがわかります。
 そして、1年のちに、箱舟から出てきたものたちを、神様は「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と祝福されました。この祝福の言葉は、創世記1章の28節の「神は彼ら(男と女に創造された)を祝福して言われた。産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物すべて支配せよ」という言葉と似ています。
 ここでは、神様は、ノアをとおして、再び、世界を創造しようとされています。そして、再度、人間に他の動物たちの管理も委ねようとしているのです。9章の2節「地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手に委ねられる」と人間以外の他の動物に対する支配と管理が人間に改めて委ねられることとなりました。
 あれほど、堕落し、罪にまみれた人間の姿をご覧になられて、人間を創造されたことを後悔され、それらのものをことごとく滅ぼそうとされた神様であられましたが、再び、その人間を信じようとなさったのです。否、以前とは違う何か別の思いがこのときの神様には、あられた可能性はぬぐいきれません。あとで、そのことには触れたいと思います。
 そして、このときから、人間に、それまで植物だけだったのが肉も食糧として与えられることになりました。1章の29節では「地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべての命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう」とありましたが、9章の3節では「動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える」と言われました。神様の人間に対するお気持ちが少し変ったように思います。
 そして、このとき、「ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない」との戒めをされました。ここには、血は、命そのものといった理解があります。命は神様が与えられたものですから、神様は、命が流された場合には、いかなる獣からも賠償を要求すると言われました。そして、人間どうしの場合には、同じ人間から命を賠償として要求すると言われたのでした。
 「人の血を流す者は、人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ」。人の命を奪った者は、自分の命をもって償わなければならないということです。それは、人というのは、他の動物とは異なり、神様に似せて造られたものであって、他の動物をもって償うことはできないということです。ノアは、神様が、自分と自分の家族以外は、洪水によって滅ぼされましたが、残されたノアたち人間同士が、その神様のなさった御業を見て、命を軽んずることがないように、「人の血を流す者は、人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ」と、強く戒められました。
 人間の尊厳を、人間同士の争いごとによって傷つけ合うことがないようと、このような形で、教えられました。ですから、基本的には、神にかたどられて造られた人間は、人間同士の殺人もだめ、当然、戦争もだめということになります。そして、そのように言われたのち、改めて、祝福されました。「あなたたちは産めよ、増えよ、地に群がり、地に増えよ」。人が殺し合うことを通しては、このことは成就しません。
 そして、神様はノアと彼の息子たちに契約をたてると言われました。9節「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる」。しかし、契約の対象はそれだけはありませんでした。10節「あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる」と言われました。その内容は、「二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない」という内容でした。
 洪水によって、命を失うものは、人間だけではありませんので、他の動物とも契約が交わされることとなったのでしょうか。昨今の気象状況を見ておりますと、現実と違うではありませんか、と言いたくなるのですが、これはあくまでも、ノアのときのように、洪水によって、すべてのものが滅ぼし尽くされるというようななさり方はしない、ということです。
 ですから、局所的には、自然の秩序に従い、今年の夏のような雨の降り方は、これからもあるのでしょう。そして、この夏の異常な雨の降り方は、むしろ、地球の温暖化など、人間の行いによる可能性が強いと思われます。日本だけでなく、世界中がこのような激しい自然の猛威によって、多くの被害を味わわされています。人間が創造の秩序を乱していると考えた方がよさそうです。他の動物への責任もあります。
 神様は、8章の21節、22節でも「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは二度とすまい。地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも、寒さも暑さも、夏も冬も、昼も夜も、やむことはない」と言われたのでした。
 神様は、ご自分のなさったことについて、少し、思うところがおありだったのでしょうか。ご自身に言いかせるように、「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」と、言っておられます。それでありながら、このような人間には何度でも懲らしめを与えなければならないとは、言われておりません。逆に、だから、もう、この度のようなことはしない、と言われているように理解されます。
 つまり、そのような人間だから、罰としての滅びを与えることによっては、きりがないというのでしょうか。いたずらをする幼子を見ている親のような、愛情に満ちたまなざしすら感じられます。「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」という言葉は、おそらく、神様は、こうしたどうしようもない人間のありようを、人間の罪をご自分が引き受ける覚悟を、このとき、既にお決めになられたのかもしれません。
 そして、契約のしるしとして、雲の中に虹を置くことをされました。虹を神様が、ご覧になるとき、ノアたちと他の動物たちとの間に立てた契約を心に留めるということをされるというのです。それも、この契約は「永遠の契約」と言われました。もちろん、私たちが虹を見て、神様が宣言された契約の内容を想い起こし、感謝することはあるでしょう。しかし、もし、思い出さなければ、この契約は守られないことになるかというと、そういうものではなく、主体はあくまでも神様の方なのです。
 神様は、私たちがたとえ忘れようとも、私たちと交わした契約を忘れることはないと断言されているのです。虹を見るなど、私たちにとって、それはそんなにあるものではありません。そして、虹を見た瞬間、神様が私たちになさった契約を、私たちが咄嗟に想い起こすこともそんなにはないでしょう。
 今日このような説教を致しましたので、皆様は、これからしばらくは、虹を見たときに、このノアの箱舟の物語を想い起こし、このときなさった神様の契約を想い起こして、神様の憐みと愛を同時に、想い起こすことがしばらくはあるかもしれませんが、しかし、そうだとしても、毎回はそうはいきません。あっ、虹!それで終わる方も随分と多いでしょう。私たち人間は、それほどきまぐれであり、記憶力も弱いのです。
 しかし、神様は、虹を見出すたびに、このときの契約を想い起こされるのです。しかも、神様は世界、否、宇宙規模のお方ですから、虹は、それこそ四六時中御覧になられているわけですから、わたしたちと交わされた契約をその度に想い起こされ、お忘れになることはないはずなのです。永遠にお忘れになることはありません。
 16節「雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める」と、述べられています。虹は、私たちには、神様の赦しと愛と慰めと、約束、契約がしるされているものです。ですから、それは、私たちにとっては、平和とか、希望の象徴でもあります。
 しかし、私たちは、どのようなときにも、契約のしるしとしての虹を見ることができるでしょうか。そこには、水分がなければなりません。晴れた日、水道水を庭にまくとき、その霧状に放物線に放水された下あたりに、虹が見えるでしょう。そこには、太陽の光が反射するという現象がなければなりません。少なくとも、水分と光が必要です。ですから、夕立の直後などに、それは見られるのです。まだ残っている雲、水蒸気を背景にしながら、そこに太陽の光が射し込んで、それが虹となって私たちには見えるのです。
 ところで、私たちは、心の中が雲で覆われるときがあります。それは、自分の罪を思い、嘆き悲しむ姿であるかもしれません。あるいは、何かの苦しい出来事があり、それで悩んでいる状態の私かもしれません。涙を流している、そのような私たちかもしれません。そのようななかで、神様である太陽が輝きます。そうすると、そこには虹が現れるのです。すべてのものが希望と平和に満ちた色に変るのです。
 私たちもまた、神様がそうであられるように、虹を見て、神様のなさった契約のしるしを見て、神様の深い憐みと愛を想い起こしたいと思いますが、しかし、現代に生きる私たちは、その他に、もう一つのことを神様からの愛のしるし、虹として、想い起こすことを教えられています。それは、イエス・キリストというしるし、虹です。
 このような私のために、十字架におかかりになり、そして、三日目に復活され、そして、今なお私たちのために執り成しをなさってくださっているイエス・キリストという、愛と赦しのしるしとしてのお方、虹です。私たちはこのように、私たちの心に雲がかかるとき、悲しみと苦しみで私たちの瞳から大きな涙がとめどなく流れるとき、救い主、イエス・キリストのお姿を見る機会を多く得ます。イエス・キリストという赦しと慰めと愛のしるしを心に思い描いているのです。
私たちが、虹を見るときには、すでに夕立は収まっています。急激な突然の雨、強い風、
 それらが、収まったしるしとして、虹は空にかかっているのです。イエス様が、この私の今の苦しみや悲しみや嘆きをご存じで、ここにおいでになるのなら、私に襲い掛かる艱難の数々は、収まるのです。悲しみや苦しみは、取り除かれるのです。イエス様を今、艱難や苦しみのただなかにある自分の状況のなかに見出すならば、そのときにはすでに嵐は収まっているのです。
 否、順番は、逆かもしれません。自然現象の順番でいうなら、確かに、夕立がおわったので、虹が出たのです。雨が止んだので、虹は出たのでしょう。しかし、9章の13節「すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く」と言われます。虹という言葉は、弓と同じ言葉だそうです。神様が、弓を置くと言われます。つまり、神様は、このノアのときのような激しいやり方で、人間に罰を下すことはしない、逆に、まず、神様が平和や平安を来たらせるのです。虹を出すということをしてくださいます。イエス・キリストというお方を私たちのためにこの世に、弓を置くようにして、お与えくだいました。
 虹を見上げるとき、イエス・キリストを見上げるとき、私たちは、神様の赦しと憐みと愛の深さを知られます。愛情を込めて創造された人間の罪を、すべてご自分が負おうと決断された神様のお姿を思います。そして、私たちがそのことを思う前に、既に虹を見出す、私たちとの契約を想い起こされる神様がずっとおられます。イエス・キリストゆえに、私たちの罪を赦し、永遠の命を約束してくださる神様がおられます。


平良 師

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