平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2017年11月5日 慰めよ

2018-03-10 14:02:43 | 2017年
イザヤ書40章1~11節
慰めよ

 イザヤ書では、1章から39章に、南ユダがバビロン捕囚に遭う前の生活がおもに描かれ、40章から55章が、捕囚が終わる頃の生活、そして、56章から66章に、捕囚後の生活が語られています。そして、40章から55章は、第二イザヤという人物が記したと言われています。つまり、イザヤが活躍したのは紀元前740年頃なのですが、捕囚から解放されるのは、それから約150年後のことです。
 ですから、1人の人間がそこまで生きて働くことは難しいということで、この第二イザヤという人物の存在が考えられているのです。第二イザヤは、当然預言者イザヤの流れを汲む人であったと言われています。ちなみに、56章から66章は、さらにまた違う人物、第三イザヤによって記されていると言われています。
 そして、聖書教育では、1節から8節の召命記事だけを扱っていますが、私たちは11節までを一つの区切りとして考えたいと思います。ここでは、イスラエルの捕囚の民が、故国へ帰還することになるという内容になっています。そして、同時にこの部分は、第二イザヤ全体の序にあたる部分ともなっていると捉えてよいかと思います。

 イスラエルが南北に分裂した後のこと、北イスラエルはアッシリアに滅ぼされ、南ユダは、紀元前586年にバビロンに滅ぼされました。そして、多くの主だった人々が、捕囚となって、バビロンに連れていかれました。それから、50年ほどして、ようやく捕囚の身から解放され、あのエルサレムに帰還できるときがやってきたのです。神様は、「慰めよ、わたしの民を慰めよ」と言われます。
 南ユダが滅ぼされ、故国を失ったイスラエルの民、バビロンで捕囚として苦しい日々を強いられた人々を神様は第二イザヤに「慰めよ、わたしの民を慰めよ」と言われました。これが、第二イザヤに与えられた召命の意味するところでした。その具体的な中身は、捕囚から解放されること、救済されることでした。そして、この40章から55章のなかに、捕囚の民の解放の前提となる罪のゆるしの宣言やイスラエルの人々の苦難とその意味も述べられています。
 しかし、この時のイザヤには、自分たちが、この捕囚の身から解放させられるというのは、それはまだ、正直なところ、彼自身が実感としては、なかったに違いありません。それほど、イスラエルの民は、捕囚の身の上に絶望し、落胆しておりました。もう、自分たちは、見捨てられた民であり、何もよきことは起こらない、そう考えていた者たちも多かったのではないでしょうか。
 第二イザヤ自身がそうであったのだろうと思われます。しかし、この40章は、そのような民に向かって、「慰めよ、わたしの民を慰めよ」と神様が言われるのです。もう、十分に報いを受けた、今は、慰められなければならないとき、それもまた十分に慰められなければならない、そう神様はお考えくださったのです。
 ここらの会話は、いったい誰と誰が交わしているものであるのかは、少し難しいところがあります。1節の終わりには、「あなたたちの神は言われる」とありますから、天上の会議に出席している天的な存在のひとりが、他の仲間に向かって告げているとも理解できます。
 まだ、このときのイスラエルの民は、捕囚から解放されてはいませんが、神様は、もう十分に、イスラエルの民は、自分たちの罪のゆえに国が滅ぼされ、捕囚として苦難を味わうことになった、そのような形で、罪の報いを受けた、それも十分に受けたと判断され、彼らをバビロンにおける捕囚から解放し、エルサレムの地へ御戻しになることを決められたのでした。
 そのときの冒頭の言葉が「慰めよ、わたしの民を慰めよ」というものでした。これは、イザヤに与えられた召命の際の言葉でした。これが第二イザヤの使命(ミッション)だったのです。「エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ、苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と」と、イザヤは捕囚にある民に語ったことでしょう。
 十分にイスラエルの民は、罪の報いを受けました。苦難は終わりました。服役をしていたけれど、もうその期間も終わった、しかも二倍もの刑罰であって、十分に罪の償いはなされた、あなたがたは自由の身になるのだと、イザヤは御使いから受けた言葉を語り告げることになりました。
 それから、「呼びかける声がある」とありますが、それを語っているのは、天上界のまた誰かの声でしょう。その声は言います。「主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを、肉なる者は共に見る」。
 大きなまっすぐなものがドカーンと伸びるといった印象です。それほどの、大きく、平らでまっすぐな道が通るのです。彼らの行く手を阻むものは、すべて取り除かれるのです。否、それをするのは捕囚の民自らの働きでもあります。そこを主の栄光が、光輝いていくのです。
 あたかも、そこをこれから多くのイスラエルの捕囚の民が、まるで凱旋でもするかのように、喜びにあふれて、堂々と喜びに満ち、踊りながら帰っていく姿が目に浮かぶようです。そうした、希望をイスラエルの捕囚の人々に語るように神様は第二イザヤに言われるのです。そして、その使命をイザヤは聞いたのです。
 しかし、50年もの歳月が流れていました。先ほども申しましたように、多くのイスラエルの民は、なぜこのようなことになってしまったのか、自分たちの境遇を思い、そこから自分たちの罪を思い、そして、いつしか嘆きは、諦めに転じ、希望のないの日々を送るようになっていたことでしょう。そして、そうした日々は、いつしか、これがあたりまえの世界になっていったに違いありません。
 そのようななかで、イザヤに与えられた、このときの捕囚からの解放の宣言をなせという使命は、果たして人々のほんとうに喜びになるのかどうか、ほんとうにそのことを彼らは信じることができるかどうか、第二イザヤは心配だったのです。そこでイザヤは、神様に問います。「呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う。何と呼びかけたらよいのか、と」。
 イザヤは思います。否、これらの言葉も、また、天的な存在、天使たちの会話のなかでなされているものかもしれませんが、このように言います。「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい」。
 第二イザヤは、天使の言葉かもしれまんが、とにかく、人間も野の草や花と変らないと言います。それほどにはかないのです。草はいずれ枯れます、野の花もいずれはしぼみます。中東の地域ですから、時間がたって自然と枯れるということもですが、熱風が吹いて枯れてしまうということもあるようです。
 「主の風がふきつけたのだ」。これは、主の風がふきつけたことで、イスラエルの民、南ユダの人々、都エルサレムに住んでいた人々に及ぼされた神様の裁きを言っているのだろうと思います。その結果、国は破れ、多くの人々が捕囚となって、連れてこられ、苦難を味わうことになったということです。人の人生、人の命のはかなさを言っています。
 しかし、それだけではありません。このはかなさは、ときの権力や国家、王、そうしたものに対しても言えることでして、北イスラエル、南ユダ、ときの王たち、そして、このときのバビロンもまた、同じなのでした。バビロンもまた、このあと、ペルシャのクロス王によって、滅び去ってしまうのでした。それによって、イスラエルの民が解放され、エルサレムに帰還できることになったわけですが。
 「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」。私たち人間のありようと、神様とを比べています。否、神様の言葉とを比べています。私たちが、どのようにあがこうとも、いずれは滅びてしまうものです。しかし、神様はそうではありません。私たちのこの肉の体は、有限です。しかし、神様は、無限です。ですから、神様のお言葉もまた、永遠なるものとして、普遍的なものとして、存続しつづけ、私たち限りある人間のありようを導き続けていくのです。否、命を与え続けていくのです。
 「高い山に登れ、よい知らせをシオンに伝える者よ。力を振るって声をあげよ。よい知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるな。ユダの町々に告げよ」。これから第二イザヤのなすべきことが語られています。伝令がそのつとめてして、勝利のよき知らせをもたらすように、彼はことをなすのです。
 かつて、エジプトとの地から導きだれたときのように、大きな力をもって、御腕をもって、神様は、今度は、バビロンからイスラエルの民を導き出されるのです。「主の勝ち得られたもの」そして「主の働きの実り」というのは、イスラエルの捕囚の民のことを指していると思われます。
 「見よ、主の勝ち得られたものはみもとに従い、主の働きのみのりは御前を進む」。バビロンから導き出された者たちは、神様のみもとにしがたい、神様のみ前を進んでいくのです。そして、11節「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる」。
 羊飼いとしての神様の姿は、詩編の23編をはじめ、旧約聖書のなかにしばしば見出されます。そして、失われた者をふたたび集める、滅びてしまったユダの国から散らされていった人々を再び、集めるということを言おうとしています。そして、この小羊を懐に抱くお姿は、険しい谷底から一匹の失われた羊を救い出しているイエス様のお姿とも重なるのです。
 40章は、まだ、解放のときには至っておりません。そうした事態には、まだなっていないのです。しかし、これからその解放のときが訪れることを第二イザヤは、一方では、苦しい長い年月のゆえに、信じることができません、しかし一方では、解放のかすかな足音が、彼の心のうちに響いてきているのです。もちろん、そこに神様の確かな働きがなされていました。
 パウロは、異言を語るよりも預言をしなさいと、私たちに教えております。つまり、預言者というのは、これからの時代の行き先を見ることです。耳を澄ませて、目をこらしてみることです。それは、未来が、こちら側にやってくる、第二イザヤの場合、ひらかれた未来がこちら側に迫ってくる、といったことでもよいのでしょうか。
 天上界において、天使たちは、すでに神様のご計画により、着々とイスラエルの人々の捕囚からの解放のときが間近になっていることを、互いに語り合っております。すでに、何事かが始まっていることを語っているのです。それは未来からの言葉でしょう。それを第二イザヤは、現在の捕囚の状況と格闘しつつ、それらの未来から聞こえてくる言葉を聞いているのです。
 「慰めよ、わたしの民を慰めよ」。神様は、イスラエルの民を見捨てたわけではありませんでした。今なお、「わたしの民」と、神様は言ってくださっています。今の捕囚の状況の中で暮らすイスラエルの民にとって、第一に必要なことは、慰められることです。刑罰のときが十分に過ぎ、終わったことの宣言です。赦され、解放されて都エルサレムに戻れることです。大きな希望が語られています。神様の永遠に生き続ける力ある言葉によって、再び、彼らが命をえて生きていくことが可能となるのです。
 第二イザヤは、今の状況はなお、捕囚の生活でありながら、既に、神様が開かれた未来を見ています。これが大事です。私たちの今生きる時代はどうでしょうか。環境の面でも、平和の面でも、大いに危機感をもっているという方もおられるでしょう。がんばっているのだけれども、少しも生活が上向かないと嘆いている方もおられるでしょう。あちらを向いても、こちらをむいても、希望につながる、材料がみつからない、そう思っている方々も少なくないかと思います。
 しかし、聖書を読むなかで、慰めを与えられる、希望が与えられる、気付かなかったことに、はっとさせられる、そのようなことが起こるのです。そこに、第二イザヤのように預言者としての務めが与えられるといったことが起こってまいります。
 今の日本社会に私たちは、神様から何をするように言われているのでしょうか。何を伝えるように、言われているでしょうか。「慰め」でしょうか。「解放」を伝えることでしょうか。「叱責」でしょうか。「警告」でしょうか。
 どのように神様は、私たちに未来を見せてくださっているのでしょうか。「わたしの民」と言われる神様の方に顔をしっかりとこれからも向けて、この時代の状況を生きてまいりましょう。神様は、永遠なるお方であり、聖書には、その方の言葉がぎっしり詰まっており、そこには、あるときは「慰め」の言葉が、あるときには、「解放」する言葉が、あるときには、「叱責」の言葉が、あるときには、勇気を与え、激励する言葉が、そして、愛に満たされている言葉など、限りなく、その状況に合わせて、私たちは、このお方からお言葉をいただくことができます。
 まさに、未来からの神様の言葉が、私たちを包み、八方ふさがりの状況を切り拓いてくれるのです。神様は、ときにかなって、ふさわしいみ言葉を私たちにくださいます。「慰めよ」。神様のふさわしい言葉が、この時、苦難のなかにあるイスラエルの民にもたらされました。


平良 師

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