平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2020年2月2日 イエス様の招きはすべてに及ぶ

2020-03-29 14:49:29 | 2020年
ヨハネによる福音書7章37節〜44節
イエス様の招きはすべてに及ぶ

 「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた」とあります。立ち上がりとあるのは、これは異例であったことがわかります。普段は、イエス様は、座って話されていたのでしょう。しかも、声を荒げることなくです。しかし、このときは違いました。祭りに来ている人々に向かって、叫ばれたのです。
 ここでの「祭り」とは、イスラエルの荒野の旅を記念する仮庵(かりいお)祭のことで、巡礼者がテントなどの仮庵を建てて、7日間祭りを行いました。もともとは、収穫感謝の農耕儀礼でありましたが、それにエジプトからの解放の記念の意味が加わり、さらにまた終末の救いを待ち望むという意味も込められ、ユダヤ人にとって重要な祭となっておりました。祭りの期間中毎日、祭司が人々を伴ってシロアムの池から黄金の器で水をくみ、神殿の祭壇にその水を注ぐという儀式が行われていました。
 イザヤ書12章3節の「あなたたちは喜びのうちに、救いの泉から水を汲む」を水汲みのときに繰り返し歌い、神殿に戻るときにも、また、詩編113編から118編を歌いつつ、祭壇の周りを回るときには、詩編118編25節「どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを」を歌いました。イエス様が、この祭りの終わりの日の最大の盛り上がりを見せるそのときに、立って大声で言われたのです。祭司にくっついて歩いている人々の列に向かって、そうされたのです。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」。イエス様のいっぱいいっぱいの愛がここに溢れ出ておりました。
 そして、イエス様が「だれでも」と言ったことに深い意味がありました。エルサレムの神殿の内部には、庭と名のつく色々な場所があり、異邦人の庭、女性の庭、イスラエルの庭、祭司の庭、その奥に聖所がありました。そのように、そこにはあたかも神様から遠い者から近い者へといった順番のようなものも表現されておりました。
 そして、祭壇までには厳しい入場制限がありました。さらに、目の見えない人や足の不自由な人は神殿に入ることすら許されないで、神殿の門の前で施しを乞うというありさまでした。こうして体に障害を抱えている人々は、祭壇の周りで祭司たちが「どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか、主よ、わたしたちに栄えを」は聞こえなかったと思いますし、まず、祭司たちがこのように神殿にすら入ることが許されない人々の救いについて、考えていなかったと思われます。
 さらに、エルサレムの町の中でも、町の上の方に住んでいる富める者たちはきれいな水を、そうでない町の下の方に住む者たちは、生活排水なども流れ込む劣悪な環境のなかで汚い水を飲まざるをえなかったという事情もあったと想像するのです。ですから、イエス様が「渇いている人は、だれでも」と言ったのは、彼らにもよい、きれいない水を飲ませてあげたいと思われたからでした。貧しく、疎外されている人々に救いの水、命の水を飲ませてあげたかったのでしょう。その水は、実際の水というのではなく、魂に関するものでした。
 しかも、大声で呼ばわったという事柄の内には、イエス様の、何としてでもよいものを、つまり、救いの御手を差し伸べたいという切なる思いが表れていたのではないでしょうか。イエス様は、1人残らず救いの恵みを与えたいと願っておられます。イエス様こそが、「主よ、わたしたちに救いを」という叫びに応答できられるのです。
 このイエス様の与える水を飲むための条件のようなものは書かれていません。強いて言えば、渇いている人であるということです。そして、イエス様からこの水を欲しいと願う人なのです。それから、そのためにイエス様のところへやってくることを試みようとする人です。
 飢え渇いている人とは、物質的な面で言えば、日々の食べ物にもこと欠いている人です。日々の生活が思うようにいかない、そういう人です。また、心の面で言えば、例えば、やってもやっても疲れをおぼえるばかりで、むなしさばかりが湧き上ってくる、そういう人です。いつも何かしら報われないで、むなしさや悲しさをおぼえている人です。満たされない気持ちでいつもいっぱいな人です。理不尽な目にあわされて疲労困憊している人です。世の中には、魂の飢え渇きのない人もおります。こういう人でも、いつも渇きをおぼえることがなく、満たされている、そういう状態が、ずっと続くということはありません。
 しかし、ある程度は、そのような状態が多いという人はいます。それは、現状に満足している人です。現状に満足している人とは、どのような人でしょうか。富んでおり、いろいろな点で満たされており、物質的にも内面的にも、豊かに生活している人です。そして、さらにいえば、残念なのですが、おそらく貧しくされている、小さく弱くされている他者の存在に気づいていない人である可能性があります。他者の苦しみや悲しみをわからない、他者が見えない、そのような人のことを理解しようとしない、そういう人でしょう。
 魂に飢え渇きをおぼえる人は、社会のなかにあるひずみや片寄りや、不公平や不正義に怒りをおぼえたり、絶望を感じたり、落胆したりと、それは、もう魂の飢え渇きは、毎日のこととなり、神様に何とかして欲しい、神様に訴え出ている人です。あるいは、飢え渇いている人とは、貧しい人であり、今、泣いている人であり、今、悲しんでいる人です。虐げられている人です。他者にそのようなものを見出して、飢え渇きをおぼえざるをえない、そういう人々です。
 そして、このように、飢え渇いている人は、他の誰それの所へ行くのではなく、イエス様のところへ来るべきなのです。イエス様のところへ来ることによって、イエス様のところへ行くことによって、渇きをいやしてもらえるのです。生きた水を飲ませてもらえるのです。他の誰それのところではありません。イエス様のところへやってきたときにこそ、それをいただけるのです。
 私たちは、また、神様から遠く離れているがために、魂に渇きをおぼえているかもしれません。神様に背を向けているために、そうなっているかもしれないのです。そのためには、神様のところへ戻ってくるしかありません。
 イエス様は、祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、立ち上がり、大声で言われたのです。叫ばないでは、おられなかったのです。神殿にもう出て、形だけのことを行っても、真実に渇きをいやすことができるでしょうか。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」。聖書のなかに聖書と言う言葉がでてきたときには、ご存じのように、それは旧約聖書を意味しています。これに関する旧約聖書の箇所は、イザヤ書44章3節「わたしは乾いている地に水を注ぎ、乾いた土地に流れを与える。あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ、あなたの末にわたしの祝福を与える」。
 そして、ゼカリヤ書14章の8節「その日、エルサレムから命の水が湧き出て、半分は東の海へ、半分は西の海へ向かい、夏も冬も流れ続ける」。ここらの箇所を念頭においていると言われています。そして、このヨハネによる福音書7書38節の解説として、39節があります。「イエスは、ご自分を信じる人々が、受けようとしている霊について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、霊がまだ降っていなかったからである」。
 イエス様を信じる人は、その人の内から生きた水が川となって流れ出るとは、その生きた水というのは、イエス様の注ぐ霊だということです。わたしが乾いている地に水を注ぎ、乾いた土地に流れを与えるとは、イエス様の注がれた霊が、渇きをおぼえている人の内で、流れ出んばかりになるということです。ゼカリヤ書も同じ意味だろうと思います。しかし、それらのことは、まだ、イエス様に霊が降っていないために、起こっていないけれども、これからなされるのだというのでしょう。
 イエス様の招きは、すべての人に及んでいます。罪にまみれている者たち、私たちにも及んでいます。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」なのです。渇きのなかには、欲深いものもあるでしょう、それは、その渇きの内容はどうかなと思うようなものもあるかもしれません。快楽だとか、ちょっと罪にまみれているようなものすらもあるかもしれないのです。
 しかし、渇いている者はすべての者が、招かれているのです。イエス様が、招かれている人々は、その人が人格者だとか、すぐれている何かをもっているとか、善良な人だとか、そういうことではありません。イエス様は、自由なお方で、誰かれの区別なく、招かれるのです。むしろ、神様に自分など招かれるはずはないと、罪にまみれている者たちこそが招かれているのです。
 コリントの信徒への手紙二の19節から21節「つまり、神はキリストによって世をご自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」。
 このときのパウロも、このときのイエス様のように、声を荒げて大声で訴えたのではないでしょうか。「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい」。イエス様のところへ私が行くということは、イエス様が私たちと神様との和解を成し遂げてくださる、そのことに与ることでもあります。イエス様の十字架のもとへ、行くことでもあります。この命の水を飲むためには、おそらくいかなる資格もいらないに違いありません。だれが飲んでもよいのです。罪に汚れていてもいいのです。イエス様を信じているならば、自ずと悔い改めはそこに起こっているのではないでしょうか。金の器などはいりません。そのままの貧しい私たちが、イエス様のところへ来て、腰をかがめ、流れ出てくる水を飲めばよいのです。
 さて、今日は、信教の自由をおぼえています。これは、政治権力が宗教に介入、干渉してはならないというのが、私たちの理解です。そして、私たちキリスト者たちも、政治に関与しないというのではなく、政治に関しても祈り、神様の御心に従っていると判断される限りにおいて、時の政権に従うのです。これが私たちバプテストの精神です。
 連盟の1979年の信仰宣言には「国家も神の支配のもとにある。国家は救いに招かれているすべての人間の尊厳を守るべきであるが決して良心の主になることはできない。良心の主は神のみである。私たちは信仰による良心の自由および政教分離の原則を主張する。教会は国家に対して常に目をそそぎ、このために祈り、神のみむねに反しないかぎりこれに従う」とあります。
 ところで、今日の後半部分から、この信教の自由を別な側面から考えてみるということを示されます。それは、この箇所からはわりますことは、当時、イエス様への理解がまちまちだったことです。「あの預言者」という人々もおりました。当時のユダヤ人たちのなかでは、異邦人に汚された祭壇を回復するために預言者が現れると言われておりました。その人物のことを指しているようです。
 それから、イエス様をキリスト(メシア)と見なしていた人々です。つまり、彼らは、ダビデの子孫で油を注がれた王であると思っておりました。これらの人々は、イエス様を受け入れておりましたが、政治的な役割を期待しておりました。第三のグループは、イエス様につまずき、拒否した人々です。メシアは、ダビデの子孫で、ダビデの村であるベツレヘムの出身でなければならないと考え、イエス様を拒否しました。しかし、どうでしょうか、実際は、メシアですが、そのお方が十字架につけられることになるメシアなんて、誰が考えていたでしょうか。
 しかし、このことに私たちは躓く必要はありません。なぜなら、私たちは、今でも、そして、これから先もずっと、イエス様が何者であるかは、キリスト者たちはずっと考え続けていくことになるのであって、一人一人の納得する落着き先は、大きくはメシア・キリストであっても、その捉え方は、微妙に異なるだろうからです。イエス様を拒否することは実に悲しく残念ではありますが、だからといって、それを力でもって強制することは、してはならないのです。
 ただ私たちにできることは、このイエスというお方が、メシア・キリストであり、唯一の救い主であって、この方のところへ来て、命の生きた水を飲むことを勧めるだけであります。あとは、神様にお任せすることです。救いは誰にでも開かれていますが、その人が、イエス様のところへ来ることになるかどうかは、その人が神様からいただいている自由に任せられています。
 そして、この事柄を神様の選びという視点でとらえることもできることを聖書からまた私たちは知らされているのです。こうした選びの問題もまた、それぞれに見解が異なるでしょう。我々に選びの主体があるようでも、実は、神様が選ばれた結果だったということなのでしょう。
 信教の自由は多岐にわたることであり、これは私たちに神様から委ねられた恵みの一つかもしれないのです。私たちの教会は、実にこの信教の自由を大事にし、そして、それが権力によって将来にわたり保障されるよう政教分離の原則を順守することを強く求める教会でもあります。


平良憲誠 主任牧師

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