平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2017年10月1日 苦難に遭ったとき

2018-03-07 18:49:14 | 2017年
ヨブ記2章1節〜13節
苦難に遭ったとき

 私は、ヨブ記のこの箇所を読むたびに、人をどうして苦難が襲うのか、また、苦難に遭ったときに、私たちは、そのことをどう理解し、どのようにその苦難に処したらいいのか、ということを教えられます。もちろん、この聖書の箇所からの理解が、苦難に対するすべての答えというわけでもありません。あくまでも、一つの理解の仕方だと思っていますが、私たちを納得させるだけのものがあると思っています。
 しかし、繰り返しますが、あくまでも一つの考え方であって、私たちにもたらされる苦難や災いなどが、すべてこのヨブ記によって解決されるわけではありません。そして、聖書は、他にもいろいろな考え方を提供してはいるのだろうと思います。そういった意味で、聖書は、個々にはすきまがいろいろありますが、総合的には、やはり聖なる完璧な書物だと思っています。
 サタンは、人間のことをこう神様に訴えるのです。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか」。この問いは、ヨブに限らず、神様を信じるすべての人間に向けられています。サタンは、「あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです」と神様に言いました。ここでは、人間が神様を信じるのは、その見返りがあるからです、と言っているのです。
 つまり、信仰というのは、そのようにご利益があるから、ご利益を期待して成り立っているのが人間の信仰の真実だ、と言わんばかりです。逆に、神様が、「御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません」とサタンは言うのです。このことは真実でしょうか。私たちは、心に手をあてて考えてみる必要があります。
 つまり、私たちは、神様からの見返りというものをどこかで期待して、それがあるからこそ、神様を信仰しているのでしょうか。何かよきものがあるから、そうしているのでしょうか。そういったものが、すべてないならば、私たちは神様を信じるとか、神様にひれ伏すとか、そのようなことはしないのでしょうか。
 前にも一度お話をしたことがあるかと思いますが、私は若いとき、自分の通っていた教会に、このような人がおられました。私よりも、おそらく20歳くらい年上の彼は、とても、誠実に教会生活を送っておられるように思われました。お子様も教会にお連れしておられました。教会学校の先生もされておりましたし、教会の執事もずっとされているような方でした。ですから、教会の方々の信用も大きなものがありました。その方が、教会から離れるといううわさが流れました。
 それで、私は、教会でその方にお会いしたときにお尋ねしたのです。このようなうわさを聞きましたが、ほんとうなのでしょうか。すると、その方はこのように言われました。私はもう教会には来ません。その方の理由は、教会に来ても恵まれません、ということでした。
 お聞きすると、この方はその当時、多くの不幸なできごとをいくつも抱えておられたようです。その方の妹さんの家が火事になられて、妹さんが大きなやけどを負ったということもその一つでした。また、お連れ合いとの関係がうまくいっていなかったりと、おそらく、そのようななかで、一人で、悩み苦しまれていたのでしょう。
 今にして思えば、それがわかったときは、それはそれで、教会がまったく力になれなかったということですから、牧師が一番苦しまれたと思いますが、教会の皆様もつらかったと思います。その方は、度重なる不幸のなかで、何度となく、神様は何もしてくれないではないか、むしろ、いろいろな災いを与えられるというようなお気持ちになられていたようでした。
 信仰すれば、家族をはじめ、諸々の人間関係にも恵まれる、富も築ける、仕事もうまくいく、子供の将来も約束される、そしてまた、教会に来ると心が休まる、教会に来ると温かい交わりをいただける、教会に来ると励まされ元気がでる、教会に来ると自分が生き生きできる、というようなことで、教会に来られているとするならば、もし、それらがなければ、来なくなるということにならないでしょうか。
 実際に、この先輩のように、恵まれないというそのような理由で離れていくことになるのではないでしょうか。もちろん、離れていかれるときには、それはそれで、とてもつらいものがあるに違いありません。しかし、このような期待に大きな比重をかけて、教会に来られているとするならば、何もキリスト教でなくても構わないことになります。
 平安が欲しいという方は、他にもっと静かで例えば瞑想を大切にするとかという宗教があるでしょうし、それも何も宗教に限らないでしょう。また、元気が出るとか、やる気にさせられるとか、自身を与えられるとか、それらもまた、いろいろな啓発セミナーがあるでしょうし、楽しく豊かな交わりをしたい方は何かのサークルがありますし、癒しが欲しい方には、これもまた現代では、それを可能とする諸々のことがらがいろいろとあることでしょう。
 もし、そういった一般的な幸せ、いいことがないから、教会に来ていても意味がない、イエス様を信じていても意味がない、もう神様を信じる、ひれ伏すということに意味はないと言うなら、サタンが神様に訴えたことは、真実ではありませんか。「ヨブが利益もないのに神を敬うでしょうか」。私たちにとって、何らかの益があるので、私たちは神様を敬い、信じているのであって、それがないだけでなく、逆に苦しいことばかりが与えられるならば、人間は逆に神様を呪いますよ、とサタンは言ったのです。
 それなら、神様を信じて、何らよきものがないという状況のなかで、なお、神様を信じるのはなぜなのでしょうか。聖書は、そのことを私たちにどのように理解させようとしているのでしょうか。
 1章にありますように、ヨブという人物は、非の打ちどころのない者として描かれています。「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。7人の息子と三人の娘を持ち、羊7千匹、らくだ3千頭、牛500くびき、雌ろば500頭の財産があり、使用人も非常に多かった。彼は東の国一番の富豪であった」。その上、ヨブは、息子たちが輪番で行う宴会の一巡りごとに、その間隔で定期的に「息子たちが罪を犯し、心の中で神を呪ったかもしれない」と考えて、罪を赦してもらうためのいけにえを捧げて、礼拝をしておりました。
 そのようなヨブを神様は、天上界で、彼程の人物はおるまいと言われ、それに対してのサタンの発言であったわけです。そして、神様は、サタンに「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい」と言われた結果、そのことによりヨブは、家畜などの全財産とこどもたちを失うことになります。
 はじめ、シャバ人がやってきて牛とろばを略奪していき、牧童たちも切り殺されてしまいます。それから、今度は、天から火が降ってきたとありますから、火山か何かだったのでしょうか。羊と羊飼いが焼け死んでしまいます。そのあと、カルデア人がやってきて、ラクダの群れを奪い、牧童たちは切り殺されてしまいます。
 そして、最後は、子供たちが集まって長男の家で、宴会をしていたら大風が起こって、家が倒され、子供たちは皆死んでしまったというのです。ヨブ記では、これらの人災、自然災害は、神様がサタンとの話のなかで、ヨブの信仰を神様が試すために、サタンの業として許されて実行に移されたものでした。神様は、ヨブを愛され、ヨブを信じておられたがゆえに、サタンにその試練の内容を許されたのです。この物語からは、決して、神様は、ヨブを懲らしめようなどとはされていません。むしろ、彼を絶賛され、愛されていたのです。
 ヨブは、大きな人災、自然災害で、財産とこどもたちを失ったとき、神様を非難することなく、呪うことなく、こういうのでした。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」。そして、聖書は述べています。「このような時にも、ヨブは神を非難することはなく、罪を犯さなかった」。
 もともと、自分は何も持たずに、生まれてきたのだから、何も持たずに、死んでいくのは、当然のことだということでしょうか。また、与えられたすべてものは、神様が与えてくださったのだから、それらのすべてのものを神様が取り戻されるのは、当然のことだ、ということでしょうか。そう言って、ヨブは、神様を非難することはなかったと言います。そして、罪を犯さなかったのです。
 見事ではありませんか。私たちは、ヨブのように言ったり、振る舞ったりすることができるでしょうか。少しずつ、少しずつ努力して、財産を築き上げていったのに、このような人災、自然災害など不条理なことで、すべての財産を失ってしまったらどうでしょうか。私たちは、何人かいるうちの1人のこどもであっても、その子が、苦しい状況に立ち至ったときや失われたときは、私たちは、神様どうしてなのですか、と神様を非難し、神様を呪うことをしないでしょうか。
 そのあと、神様の前に現れたサタンに、「お前は理由もなく、わたしを唆して彼を破滅させようとしたが、彼はどこまでも無垢だ」と神様は言われました。神様は、サタンがヨブを破滅させようとしたことを知っておりました。しかし、そのような中でも、ヨブが、その苦しみに耐え、罪を犯さないで神様との関係に生きようとしていることを誇りに思われたのです。
 しかし、サタンはそれならと、「手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うに違いありません」と言いました。そこで、再び、神様は、サタンにヨブの身を任せることにされたのです。「それでは彼をお前のいいようにするがよい。ただし、命だけは奪うな」。そこで、今度はヨブ自身が、ひどい皮膚病になって、灰の中に座り、素焼きのかけらで体中をかきむしるほどのありさまになりました。
 彼の妻は、ヨブのありさまを見て、「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と言ったのです。これもまた、度重なる苦難の中で、人間のとる普通の反応とも考えられます。ヨブの妻もまた、特に子供たちのことでは、非常な悲しみと痛みを負っておりました。
 しかもまた、神様をほんとうに信じ、子供たちが罪を犯したかもしれないというので、定期的に神様にいえにえを捧げ、そこまでして、罪を犯さないように、神様に誠実に生きていた夫に、どうして、神様は、幾たびも苦難を与え、重い皮膚病にかからせて苦しめるのですか、そのような気持ちでいたはずであります。妻が、いたたまれない気持ちになって、「神を呪って、死ぬ方がましでしょう」とおそらくヒステリックになって言ったかもしれませんね、それは、無理からぬことでした。
 妻は、もう、ヨブのように、「どこまでも無垢でいる」意味を見出すことはできなくなったのです。この妻の言葉は、まさにサタンの枠の中で動かされている人間の弱い姿であって、神様に従う者の姿とはほぼ遠いものだと言えます。ヨブは、この妻に言いました。「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」。
 お前までというのは、他人がヨブの一連の不幸について、あれこれとうわさしていただろうことが想像されます。一番わかりやすいのは、ヨブが、何か神様の怒りに触れることをしたのでこうなった、ということです。そのようなことを言う人や考える人の方が、多いのではないでしょうか。しかし、このヨブ記を見る限り、そのことは間違いだということがわかります。
 ヨブが、何か神様に背くことをしていたからこそ、このような、いわゆる大きな苦しみに遭っているのではないのです。むしろ、彼は、正しかったからこそ、苦しみに遭っているのです。彼が、罪多き人間であれば、まず、天上界の話題にもならなかったのではないでしょうか。すべての人間は、神様におぼえられているかと思いますが、すべての人間は罪を犯しますから、そういった意味では、彼の存在は特別でした。
 彼はこの試練のときまで、「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」という人間でしたから、神様は私の僕ヨブとまで言われ、「地上にかれほどの者はいまい」とおぼえられたのでした。しかし、それが、試練の始まりでした。つまり、神様に愛されたゆえに、神様からの信頼が篤かったからこそ、彼は試練に遭わせられたのです。
 苦難に遭ったときに、私たちは、その意味を考えます。そのとき多くの人々は、いったい自分がどのような悪いことをしたというので、このようなことになったのかと考えてしまいます。イエス様の弟子たちも、当時の一般的な考え方から解放されず、イエス様にこのように尋ねています。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」(ヨハネ9:2-3)。
 それに対してイエス様は「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。つまり、私たちの目からすればそれは不幸にしかみえないけれど、この人の上に、神様の御業はあらわれる、神様の栄光がこの人をとおして現れるのだ、とそうイエス様は言われたのです。
 ヨブ記は、私たちに言うのです。あなたは、愛されているがゆえに、今このように苦しい目に遭わせられている、すべての苦難は、あなたが、正しい人で、罪を犯さず、無垢なゆえに、神様に愛されているがゆえのことだ、と。
 ヘブライ人の手紙12章5節6節「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」。
 ヨブ記は、苦難がどうして私たちにもたらされるのかの一つの理由を示しています。冒頭で申しましたように、この教えですべての苦難の意味が、解決されるわけではありません。あくまでも、聖書が私たちに教えるなかの、これは一つです。
 しかし、神様がヨブを愛されていた、ヨブを誇りに思われていた、そのことは私たちの慰めです。命をはじめ、私たちのもっているすべては神様から、神様の恵みとして与えられています。それを与えるのも、それを持ちさられるのも、神様の御心であり、主権です。


平良 師

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