平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2017年12月3日 沈黙をしいられるとき

2018-03-16 18:27:29 | 2017年
ルカによる福音書1章5~25節
沈黙をしいられるとき

 今日からアドヴェントに入ります。聖書の箇所は、ルカによる福音書です。ルカという福音書記者は、テオフィロという人物にこの福音書を献呈したと考えられます。このテオフィロは、ルカの執筆活動に力を貸していた人物、彼を庇護していた人物だと言われています。当時、多くの人々が、こうしたイエス様にかかわる福音書を手掛けており、ルカもその一人でありましたが、彼は、特に、事柄を初めから順序正しく、イエス・キリストの生涯を描こうと努力したと言っています。ちなみに、使徒言行録もまたこのルカが執筆したものであって、ルカによる福音書を1巻とすれば、使徒言行録は2巻ということになります。
 この1章の5節からは、バプテスマのヨハネの誕生に際してのお話です。彼の父親は、ザカリア(「神が思い出してくださった」という意味)といい、母親は、エリサベト(「神は私たちを守ってくださるために誓いを立てられた」という意味)でした。そして、二人に与えられた子のヨハネの名の意味は「神は慈しみ深い」です。それぞれの名前の意味は、物語が推移していくときに、それなりのイメージを私たちに持たせることに影響を与えていることが少なからずあります。
 ところで、ザカリアもエリサベトも「神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがない」者たちでした。しかし、エリサベトは不妊の女性で子供がなく、おまけに二人とも既に年をとっておりました。これは、何も彼らだけに限ったことではなく、アブラハムとサラもそうでしたし、サムソンの母親もそうでしたし、サムエルの母ハンナもそうでした。これらの女性たちは、聖書においては、子を宿すことは不可能とされていた不妊女性の代表であり、にもかかわらず神様の祝福に与り、母親とされた人々でした。そして、生まれた子供は、それぞれ神様からの使命を帯びておりました。
 この日、祭司であったザカリアは、くじで聖所に入って香をたくこととなりました。当時は、祭司は約2万人もおり、彼らはいくつかの組に分けられていました。そして、一組は、年に二度、一週間の務めが与えられ、当番期にはその中の一人が神殿で朝くじをひき、務めについておりました。最も大切な務めは香をたいて、祈ることでした。当番の者は、イスラエルのために祈願をささげることになっておりました。そして、祭司が神殿で香をたき、祈っている間、民衆も外で祈りを共にする習わしになっていました。
 ザカリアが、くじにあたり、そのような務めをしていたところに天使ガブリエルが現れ「ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。・・彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる・・」と言いました。
 この「ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていた」というのは、あのサムソンのように、ナジル人として、神様に聖別されていたということでしょう。
 それから、このガブリエルの御告げから想像するに、子供が与えられることをザカリアは諦めることなくずっと願っていたということがわかります。彼らには、その願いがどうして、この年齢になってからだったのかはわからなかったに違いありません。神様はこのときに、ザカリアの願いを叶えてくださいました。神様はその間、彼らの祈りをお忘れになることはなかったということです。
 あるいは、ザカリア(神は思い出してくださいった)の名前を考えますときに、彼の願いを神様はこのとき思い出してくださったという理解もできるでしょう。また、この名付け親は、神様ですから、この子が単なる我が子ではないこともわかります。ヨハネは、神様の選びに与った者でありました。
 そして、この御告げのなかで、ガブリエルを通して神様は、二人に対して誓いを立てられたということも言えます。エリザベトの名前の意味は、神は我らを守ってくださるために誓いを立てられた、ですから。そして、このヨハネをとおして、慈しみ深い神様は、イスラエルの多くの人々を神様のもとに立ち帰らせることを望まれたのでした。
 ザカリアは、この天使に、告げられた内容を聞いたとき、咄嗟に、言いたいことが一杯湧き上ってきたことでしょう。どうして、今のこのときまで、神様は私たちの願いと祈りに応えてくださらなかったのですか。私たちは、一生懸命、神様に対して誠実に生きてきました。罪を犯さないように、努力もしてきました。そのような私たちなのに、どうして、神様は、私たちがこのような年になるまで、放っておかれたのですか。そのような思いもあったことでしょう。それで、彼は、この天使に「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」と答えたのでした。   
 それに対して、天使は言いました。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」。この天使の名前はガブリエルということでした。
 ダニエル書の8章16節、9章の22節に登場しています。「わたしダニエルは、この幻を見ながら、意味を知りたいと願っていた。すると、ウライ川から人の声がしてこう言った。ガブリエル、幻をこの人に説明せよ」、あるいは、「こうして訴え、祈っていると、先の幻で見た者、すなわちガブリエルが飛んで来て近づき、わたしに触れた。それは夕べの献げ物のころのことであった」。
 ガブリエルも、神様から託された言葉を伝える役目の天使でした。しかも、ガブリエルは、天使のなかでも、名前があり、最高位にあった者のようです。このガブリエルが、ザカリアのところに、わざわざ神様から遣わされてやってきたのでした。
 また、このヨハネは「イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先だって行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する」とも言いました。確かに、ヨハネは成人して、ヨルダン川で、メシアの到来を前にして、人々に悔い改めのバプテスマを施しました。
 さて、このとき、「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリザベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる」。この話を聞いたザカリアは、「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」。
 それに対して、天使は、「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために使わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」と言ったのですが、せっかく神様から遣わされた、しかも天使の最高位にあるガブリエル私が、あなたにとって喜びの知らせを携えてきたというのに、それに対して、そのお話が真実かどうかの証拠を示せ、しるしを求めるなど、とんでもない話だ、そんなにしるしが欲しいのなら、これから子が産まれるそのときまで、あなたは話すことができなくなる、それがしるしとなるだろうと言った、と理解できなくもありません。
 ただし、もう少し考えてみる必要があるように思います。ハバクク書2:20に次のような言葉があります。「しかし、主はその聖なる神殿におられる。全地よ、御前に沈黙せよ」。このとき、ザカリアとガブリエルの会話は、神殿でなされたものでした。それは、神様の御前の出来事でした。しかも、神様の御心が示されるという、そのときでした。「全地よ、御前に沈黙せよ」というのは、どういうことでしょうか。
 ザカリアは、アブラハムの話を聞いたときに、それを素直に感謝して受け入れることができませんでした。単に、それは、こんな年になって、そんな話は信じられないということもあったのでしょうが、これまでの、いろいろな経緯を考えたときに、どうしてそれが今なのですか、もっと前だったら、どんなによかったでしょうかとか、そのような不満にも似た思いなどが、あれこれと湧き上ってきただろうと思うのです。それに対して、いろいろと言い分もあるだろうか、また、この年齢になって信じられないといった思いもあるだろうが、黙って受けよ、ということでもあったのでしょうか。
 私たちは、自分たちの人生に起こるさまざまな事柄を神様から与えられるものとして、受け取るとき、だまって受けよと言われる場合もあるということを教えられます。それでも、こうして、このときのザカリアのように、何かを神様に向かって言わないではおれない、それは単なる疑問ではなく、つぶやきのようなこと、或いは、大胆に神様に対する不平不満、怒りのようなものさえ含んでいて、訴えざるをえないようなことも多々あります。
 それでも、最後は、そのようなある意味では不平不満というのも私たちの弱さからきているところもあると思いますが、そのような弱さも神様は受け入れてくださり、そのつぶやき、叫びに応えてくださることを聖書はいろいろなところで教えています。それはつまり、そのようなつぶやきや叫び、怒りも神様は赦してくださっているのです。
 しかし、今日の箇所では、黙って、事柄をそのままに受け入れることが求められています。イエス・キリストの誕生に際して、そのための準備としての道を整える者として、先駆け者としてのヨハネの存在はなくてはならないものだったのです。ザカリアとエリサベトが、最後には黙して、この出来事を受け入れることで、彼らの願っていたことは、結果として、神様の御心となって成就されていきます。エリサベトも身ごもってからは、5ヶ月の間、身を隠しておりました。二人とも、人々との喧騒から離れ、静かな中で、神様の御心に想いを馳せながら、神様と向き合う時間をいただくことになりました。そして、喜びのその瞬間を待ったのです。
 今日から、アドヴェント、待降節に入りました。キリストを迎える心ぞなえ、前準備ををさせる者として、バプテスマのヨハネは与えられました。現在、心騒がせるいろいろな出来事が、世界中、日本社会においても、身の周りにおいても、そして、自分自身にも、あれこれ起こっているかもしれません。しかし、しばらくは、静まって、救い主誕生に、気持を集中するときです。
 何ごとも、神様の御心だけが成るという言葉があります。しかし、そのときというのは、どの時点を指しているかは、それぞれの人生にあって、また、教会の歴史を考えるときにも、解釈はいろいろあることでしょう。どの時点のことを見て、神様の御心が成ったと捉えるのかということです。この時点、あの時点ではなく、いついかなるときにも、神様の御心だけがなるという理解もあるでしょうから、それはずっと続いているのだという理解もあることでしょう。そこらのことは、わかりません。
 なぜなら、少なくとも、私たちが神様に対して罪を犯すそのときというのは、神様の御心とは思えないからです。人間が罪を犯すのは、神様の御心ではなく、こちら側の文字通り罪の問題です。しかし、人生の大切なときの多くは神様の御心であり、私たちは、そのときに、静まって耳を傾け、静まってそれに従わなければならないのでしょう。神様とだけ向き合って、神様の語る言葉に耳を傾けなければならないのでしょう。そして、神様の求めに応じるのであります。もちろん、つぶやきも赦していただいてはおります。
 私たちは、今年もまた、アドヴェント、待降節を迎えました。私たちは、私たちの救い主、イエス・キリストのご降誕が、この私のためであったことを受け入れます。今年もまた、心を静め、思いを巡らし、この私にとって、イエス・キリストがいかなる関係にあり、私はこの方を何者だと告白するのか、考えてまいりましょう。この出来事は、ザカリアとエリサベト、マリアとヨセフに起こった出来事だけではなく、この私に起こった出来事であることをおぼえてまいりましょう。
 そして、心を静め、しばらく話すのをやめて、神様からくる御業に目をとめ、その御声に耳を傾け、御子イエス・キリストに集中して、思いを巡らすことに致しましょう。アドヴェント、待降節とは、そのようなときであります。


平良 師

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