平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2017年9月3日 主が哀れに思われたから

2018-03-03 16:24:38 | 2017年
士師記2章16~23節
主が哀れに思われたから

 ヨシュアとその時代の長老たちの存命中は、イスラエルの民は神様に仕えましたが、ヨシュアが死に、その時代の長老たちも死に絶え、その世代のものたちもすべて死んで、別の世代の時代になると、イスラエルの人々は、神様の目に悪とされることを行いました。その具体的な内容は、バアルに仕え、自分たちをエジプトから導き出した神様を捨て、他の神々、周囲の神々に従い、これにひれ伏したのでした。その結果、神様は、怒りに燃え「彼らを略奪者の手に任せて、略奪されるがままにし、周りの敵の手に売り渡され」ました。
 しかし、これは、神様の御使いが以前、イスラエルの民に警告していたことでした。2章の1節からのところです。「わたしはあなたたちをエジプトから導き上り、あなたたちの先祖に与えると誓った土地に入らせ、こう告げた。わたしはあなたたちと交わしたわたしの契約を、決して破棄しない。あなたたちもこの地の住民と契約を結んではならない、住民の祭壇は取り壊さなければならない、と」。
 ところが、現実はどうなったかというと、「しかしあなたたちは、わたしの声に聞き従わなかった。なぜこのようなことをしたのか。わたしもこう言わざるをえない。わたしは彼らを追い払って、あなたたちの前から去らせることはしない。彼らはあなたたちと隣り合わせとなり、彼らの神々はあなたたちの罠となろう」。まず、「あなたたちと交わしたわたしの契約」とは何でしょうか。
 これは、出エジプト記の20章の十戒の初めの方の「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。・・わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代まで問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」。また、24章の3節ではイスラエルの民もまた、「モーセは、戻って、主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え、わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います、と言った」。とあります。
 また、同じ出エジプト記34章10節からのところの、戒めの再授与のところにでてくる内容も契約の中に含んでいたと思われます。そのなかに、「よく注意して、あなたがこれから入って行く土地の住民と契約を結ばないようにしなさい。それがあなたの間で罠とならないためである。あなたたちは、彼らの祭壇を引き倒し、石柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒しなさい。あなたはほかの神を拝んではならない」。
 おそらく、イスラエルの人々がカナンの地に散らばっていき、周辺の国々、民族と条約のようなものを交わしたのは、一つには、争いを避ける方向でことを進めていった結果だったとも思われます。ところが、神様は、そうした妥協とも思える内容を拒否する方向で事を進めることをあらかじめ示されていたのでした。それは、いずれ、この時代のイスラエルの人々が陥ってしまったように、他の偶像の神々にひれ伏すという最も神様が忌み嫌うべきできごとが起こることにいずれはなることがわかっていたからでした。そして、まさに、そのとおりになってしまったのでした。何ごとにも、越えてはならない一つの線があることを私たちは示されているのですが、私たちは、そこらに関して甘いところがあります。
 そして、神様の言葉に従わなかった結果、周辺の国々との関係について言えば、契約、条約を結んでいたにもかかわらず、争いは絶えず、それだけでなく、周辺の国々、民族が、拝んでいた偶像の神々にイスラエルの人々がひれ伏すという大きな罪を犯すことになってしまったのでした。イスラエルの民は、もはや、敵に立ち向かうことができなくなりました。「出陣するごとに、主が告げて彼らに誓われたとおり、主の御手が彼らに立ち向かい、災いをくだされ」苦境に立たされることになったからです。
 2章の11節からのところには「イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行い、バアルに仕えるものとなった。彼らは自分たちをエジプトの地から導き出した先祖の神、主を捨て、他の神々、周囲の国の神々に従い、これにひれ伏して、主を怒らせた。彼らは主を捨て、バアルとアシュトレトに仕えたので、主はイスラエルに対して怒りに燃え、彼らを略奪者の手に任せて、略奪されるがままにし、周りの敵の手に売り渡された」。
 しかし、それでも神様は、士師たちを立てて、イスラエルの民を略奪者の手から救い出されることをされるのです。非常に矛盾に満ちた神様の御行為と言えるでしょう。ところが、イスラエルの民は、そうやって自分たちを助ける働きをした士師たちにも耳を傾けず、他の神々を恋い慕って姦淫し、これにひれ伏しました。彼らは、先祖が神様の戒めに聞き従って歩んでいた道を早々に離れ、同じように歩もうとはしなかったのです。
 それでも、神様は、彼らのために士師たちを立て、士師と共にいて、その士師の存命中敵の手からイスラエルの民を救ってくださいました。「それは圧迫し迫害する者を前にしてうめく彼らを、主が哀れに思われたからである」と書かれています。この16節から18節の内容をまとめてみますとこうなります。神様は、イスラエルの民を救うために士師たちを立てて、略奪者たちを追い払われた。その方法は、その時代、時代に指導者としての士師が登場し、彼が生きている間、この士師をとおして神様はイスラエルを救うことをされた。
 それは、イスラエルの民たちが、自分を裏切り、他の偶像の神々を拝み、許しがたい行為をしていたけれども、それでも、圧迫する者、迫害する者を前にしてうめくイスラエルの民を哀れに思い、そのままにすることがどうしてもできなかったからだ、そういうことでしょうか。
 だだし、19節からは、もっともっと絶望的なことが書かれています。それは、その時代の士師が死ぬと、彼らは先祖よりいっそう堕落して、他の神々に従い、これに仕え、ひれ伏すという行為を繰り返したというのです。そういうことで、神様は、イスラエルの周りの国々、諸民族を追い払うことをそのあともなさいませんでした。その理由について、「彼ら(周辺の国々)によってイスラエルを試し、先祖が歩み続けたように主の道を歩み続けるかどうか見るためである」と書かれています。
 そもそも士師とは、イスラエルを敵から守るために神様のほうから自発的に力を与えた指導者のことでした。士師はまた、霊的な指導者としての役割を果たしました。士師の中には、神様のへの献身の思いが著しく欠けているように見えるものもおりましたが。裁判官の役割も果たしました。士師は、いわば、その地域の英雄でした。確かに登場する士師たちは、どちらかというと、神様を喜ばす人生を歩んだよい模範者には見えないものが結構おりますま。しかし、神様はそれぞれの士師たちを、その状況に見合った人物としてお用いになられました。
今に生きる私たちが、この物語から教えられることは何でしょうか。
 それは、目に見える事柄がまず強く、私たちを誘惑し、支配するということです。神様のなさるしるしを見たり、体験することにまさるものはありません。しかし、見ないで信じるものは幸いである、とイエス様は言われました。けれども、それは簡単なことではありません。イスラエルの民は、ヨシュアが存命中は、いろいろな戦いを強いられましたが、その都度、神様の偉大な御業を見ることとなりました。
 たとえば、敵を征服させるためにヨルダン川の水を涸らすとか、イスラエルの民を行進されることでエリコの城壁を落とすということも神様はなさいました。また、荒野の40年の間に、割礼を受けていた人々は死に、次の世代の者たちは、割礼を受ける間もなく、時を過ごしておりましたので、カナンに入り、ヨルダン川をわたったときに、神様はヨシュアに命じて、次の世代の男たちに、割礼を受けさせるように言われました。継承の作業もそうやって、ありとあらゆる形で、進んでいきました。
 これもまた、一種の目に見えるしるしでした。ヨシュアに率いられたイスラエルの民は、当初、ヨルダン川の東側、西側の王国や部族を、征服するという快進撃を展開していきました。そして、長老たちも、自分たちの戦いに、神様が伴われていたことを確信していました。また、他の兵士や民たちも、そのことがわかっていました。
 しかし、ヨシュアが死に、他の長老たちや当時の人々が死んで、さらに次の世代になると、そのような記憶も体験も、もうありませんから、真の神様の存在が希薄になってまいりました。それで、目に見える異教の偶像の神々を拝むということが自然のなりゆきとして、生じてきたのでした。神様が、何を自分たちになしてくださったのかを語り伝えていくことはとても大切なことです。イスラエルに、神様がどのようなことをしてくださったのか、奴隷とされていたエジプトから導き出してくださった、その先祖の神様でした。
 40年の荒野での養いも、彼らが、カナンに入り、その土地でとれた収穫物を食べ始めてからは、マナもなくりましたが、それまでは、マナによる神様の恵みの養いを受けていました。そのようなことも語り伝えていなかったのでしょうか。語り伝えられていたと思いますが、自分たち一人一人にとって、それらの話は遠いものになっていたようです。私たちの信仰も同じだと思われます。つまり、私たちの場合は、私たちの神様は、まずこの私に何をしてくださったのか、そのことを繰り返し、想い起こす必要があるのではないでしょうか。恵みのあれこれを数えることです。
 そして、それを家族に語り伝えているでしょうか。証しのようなことを家族たちに分かち合っているでしょうか。神様との関係において、自分の身に起こったことを家族に話すことはとても大切です。そして、親は、自分の身に起こったことによって、我々の家族は神様の祝福に与っているといったことを語ることができれば、それは、さらにすばらしいことだと思います。そして、それは、同じ兄弟姉妹たちに対しても同じです。そのような、真剣な語り伝えの使命もまた、私たち一人一人のキリスト者には、求められています。
 ヨシュアの時代に、イスラエルの12部族が、それぞれの領地を支配していきましたが、そのときに、神様は、それらの周辺の国々との間に、何らかの契約を交わしてはならない、と言われたのでした。イスラエルの民が結ぶ契約は、真の神様以外にはあってはならなかったからです。周辺の国々には、彼らがひれ伏している偶像の神々がいたるところにあり、誘惑に満ちていました。バアルやアシュトレトは、まさに農業の神、地上に実りをもたらす雨を降らす偶像の神でしたから、イスラエルの民がカナンに定住して、そのときから、特に牧畜よりも農業に力を入れていった者たちにとっては、農業の神であるバアルに心をひかれていったことはうなずけることでした。
 神様は、ご自身を裏切る民に対して忍耐されましたが、あまりにもその罪の大きさに激怒し、彼らを懲らしめられました。しかし、イスラエルの民が、略奪者たちに遭遇し、助けを求めたときに、神様は矛盾されているようですが、同時に、彼らを士師という指導者を立てて、助けるのでした。神様は、ご自分で、周りの諸国を用いて、イスラエルをこらしめ、裁きのようなことをなさるのですが、しかし、彼らがうめき助けを求めるならば、それもまた、そのままにはできないお方であられます。彼らのことをお見捨てになることはなさらず、士師を立てて、彼らを救い出されるのでした。
 神様は、そのように、私たちが神様に背き、裏切るような行為をして、自分たちの身が神様からの懲らしめを受け、もがき苦しまなければならないようになっても、そのときに、神様に助けを求めるならば、その苦境に立たされている私たちに応答してくださるお方なのです。私たちのことを哀れに思ってくださるお方なのです。そして、具体的に救いの御手を差し伸べてくださるお方なのです。
 現代に生きる私たちにとって、そのことは、この聖書によって知らされています。かつてのイスラエルの人々のように世代が変って、先祖たちに神様がなさった恵みの数々を忘れてしまい、深い罪に陥るということはありえません。なぜなら、聖書にはこうしたイスラエルの歴史をとおし、人間の罪の問題をはじめ、およそ、人間が人生の課題と思われるありとあらゆることがらが取り上げられ、神様との関係において、それをどう考えていったらいいのか、どのように行動していけばいいのか、すべてのことが具体的に書かれているからです。
 私たちは今、聖書の御言葉を通して、自分に語りかけてくださる神様の御声を耳にすることができます。聖書のなかで起こった数々の出来事を想い起こして、私たちは、今の自分を悔い改め、神様の方向に向き直って、歩むことができます。
 神様は、いかなることがあろうとも、神様に救いを求める者には、何らかの形で、応答してくださいます。何らかの形で、救いの御手を差し伸べてください。神様は、徹底して哀れみ深いお方ですから、たとえ、今ままで、ずっぽりと罪の中に埋まっていた者にも、その人が求めるならば、救いの御手を差し伸べてくださいます。
 そして、その確信は、聖書の御言葉を通して、与えられます。救いを求める祈りに神様は応答してくださいます。今ここで働いてくださる聖霊としての神様が共におられて、働いてくださいます。御手を伸ばして、溺れそうになっている私たちの手をしっかりとつかんでくださいます。その御手を、士師の時代のイスラエル人々がしたように、私たちの方から振りほどかない限り、私たちはそのお方にいつまでもつながって生きていけます。しかし、同時に、私たちは神様の前に悔い改める心を忘れず、神様のこの深い哀れみに応答していく者でもありたいと願います。


平良 師

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