ヨブ記19章1節〜29節
ヨブ記19章では、ヨブが、自分自身が重い皮膚病を患って以後、周りの人間関係などが、どのようになっていったか、また、友人たちとの論争を通して、どのような心境に至っていったか、そして、そのなかで神様への真実の信仰をいかに保ち得ているのか、あるいは、ギリギリの葛藤が起こり、どのように信仰が、ある意味では進化していったかが描かれています。
まず、「親族もわたしを見捨て、友だちもわたしを忘れた。わたしの家に身を寄せている男や女すら、わたしをよそ者と見なし、敵視する。僕を呼んでも答えず、わたしが彼に憐みを乞わねばならない。息は妻に嫌われ、子供にも憎まれる。幼子もわたしを拒み、わたしが立ち上がると背を向ける。親友のすべてに忌み嫌われ、愛していた人々にも背かれてしまった」と、ありまして、多くの財産を失い、すべての子どもたちを一時に失っただけでなく、重い皮膚病を患い、灰に坐して、陶器のかけらでかきむしるほどになっているヨブに対して、同情するどころか、寄留してヨブにお世話になっているはずの者たちや使用人たちもが、ヨブを無視したり、無礼な扱いをしているのです。
子どもたちは大風の事故で死んだので自分の子どもではないと思われますが、近所の子供(ヨブの兄弟姉妹たちのこと)や幼子たちも、ヨブのことを避けており、息というのは、体を悪くしているからなのでしょうが、妻からも避けられています。重い皮膚病で、陶器のかけらで体をかきむしるほどの状態ですから、見た目が、醜くなっていることは想像できますが、それだけの理由であれば、何もわからない子供や見ず知らずの人々ならばまだしも、これまで、お世話になってきた使用人や友人たちまでもが、とても冷たくヨブのことをあしらっているのです。
それは、どうしてなのでしょうか。おそらく、これほどのひどい苦難が、ヨブを襲ったことに理由があったのではないでしょうか。多くの財産をあっという間に失いました。人災や自然災害です。ヨブに過失があったわけではありません。また、愛してやまなかったであろう子どもを、それも、すべての子どもたちを一度に失ってしまいました。それだけではなく、今度は、自分までもが重い皮膚病にかかってしまったのです。
人々は、どう考えても、ヨブが神様の罰を受けているとしか、思えなかったのではないでしょうか。ヨブが、何か大きな過ちを神様に対して犯したゆえに、神様の怒りを受けていると考えたのではないでしょうか。当時は、そう考えるのが一般的でした。ですから、ヨブがめちゃくちゃな人生を歩んできたのを見て、彼を軽蔑しているのではなく、ヨブが現在、このようなありさまになったのを見て、きっと神様からの罰がくだったのだと考えて、軽蔑しているのです。
そして、見舞い慰めに来たはずの3人の友人たちも、当初は、彼の悲惨な状況に同情して、七日七晩話しかけることもできなかったのですが、ヨブの自分は何も悪いことをしていないという態度に少々不満をおぼえたようで、仕舞いには、ヨブが罪を犯したからだと公然と言う始末です。
それは、3章から始まる三人の友人たちとのやりとりで明らかになっていきます。順不同ですが、あちらこちらから、そのやり取りを見てみたいと思います。3章の冒頭で、ヨブは、苦しみに耐えきれず、自分のような者は生まれて来なければよかったのにと、ヨブを創造された神様を間接的に呪っています。「わたしの生まれた日は消えうせよ。男の子をみごもったことを告げた夜も・・なぜ、わたしは母の胎にいるうちに、死んでしまわなかったのか、せめて、生まれてすぐに息絶えなかったのか」(3:3、11)。
そして、自分を「神よ、どうかわたしを打ち砕き、御手を下し、滅ぼしてください」(6:9)と願っています。7章15節「わたしの魂は息を奪われることを願い、骨にとどまるよりも死を選ぶ。もうたくさんだ、いつまでも生きていたくない」。それでありながら、ヨブは、三人の友人たちに自分の潔白を主張して、それを覆すことをしませんでした。11章の4節には、三人の一人、ナアマ人ツォファルの言葉があります。「あなたは言う。わたしの主張は正しい。あなたの目にわたしは潔白なはずだ、と」。
三人は、いつしか、ヨブは、神様に対して罪を犯しているという確信に至ったと思われます。11章の13節「もし、あなたも正しい方向に思いをはせ、神に向かって手を伸べるなら、また、あなたの手からよこしまなことを遠ざけ、あなたの天幕に不正をとどめないなら、その時こそ、あなたは晴れ晴れと顔を上げ、動ずることなく、恐怖を抱くこともないだろう」。
そして、15章14節からのエリファズの言葉は、誰もが罪を犯しているのであって、それはヨブも同じであり、それに気づけというものでした。「どうして、人が清くありえよう。どうして、女から生まれた者が、正しくありえよう。神は聖なる人々をも信頼なさらず、天すら、神の目には清くない。まして、人間は水を飲むように不正を飲む者、憎むべき汚れた者なのだ」。
そして、22章4節からのところでは、同じく、エリファズが、ずばりこう言っています。「あなたが神を畏れ敬っているのに、神があなたを責め、あなたを裁きの座に引き出されるだろうか。あなたは甚だしく悪を行い、限りもなく不正を行ったのではないか。あなたは兄弟から質草を取って何も与えず、既に裸の人からなお着物を剥ぎ取った。
渇き果てた人に水を与えず、餓えた人に食べ物を拒んだ。腕力を振るう者が土地をわがものとし、もてはやされている者がそこに住む。あなたはやもめに何も与えず追い払い、みなし子の腕を折った。だからこそ、あなたの周りには至るところに罠があり、突然の恐れにあなたはおびえる」。
ヨブは、19章6節からのところで述べています。「どこまであなたたちはわたしの魂を苦しめ、言葉をもってわたしを打ち砕くのか。侮辱はもうこれで十分だ。わたしを虐げて恥ずかしくないのか。わたしが過ちを犯したのが事実だとしても、その過ちはわたしの個人にとどまるのみだ。ところが、あなたたちは、わたしの受けている辱めを誇張して、論難しようとする」。
それに加え、ヨブは、どうして自分がこうなっているかについて、自分自身の理解を述べるのでした。「神がわたしに非道なふるまいをし、わたしの周囲に砦をめぐらしていることを。だから、不法だと叫んでも答えはなく、救いを求めても、裁いてもらえないのだ。神はわたしの道をふさいで通せず、行く手に暗黒を置かれた。・・神はわたしに向かって怒りを燃やし、わたしを敵とされる」といった、認識に至っております。
これは、9章17節でも訴えています。「神は髪の毛一筋ほどのことでわたしを傷つけ、理由もなくわたしに傷を加えられる。息つく暇も与えず、苦しみに苦しみを加えられる」。そして、ヨブは、神様に訴えています。「恐れることなくわたしは宣言するだろう。わたしは正当に扱われていない、と」。
しかし、実際、なぜ、ヨブに苦難が臨んでいるのかについては、先週見ましたように、それは、ヨブが、神様に愛されていたがゆえに、神様は、彼のことを天上界で取り上げ、かれほどの人物はいまいとまで、そこに集ってきた者たちに伝え、それがもとで、サタンが、ヨブが理由もないのに神様を敬い、ひれ伏すはずがありません、それは神様が、彼を守り、祝福しているからでのことです。
もし、そう神様がしなければ、逆に、面と向かってあなたを呪いますよ、と言うので、それなら、ヨブのことをあなたに任せよう、試してみよということで、数々の災いが、彼にのしかかってきたのでした。つまり、神様は、ヨブのことを愛し、誇りに思われ、また、信頼しているからこそ、彼のことをサタンに任せて、その信仰を試されるようなことをされたのでした。しかし、ヨブには、そのことはわからないのでした。ヨブは、自分が、不当に苦しめられていると、考えています。
そして、ヨブは、この三人の者たちに言うのでした。「わたしが話しかけたいのは全能者なのだ。わたしは神に向かって申し立てたい。あなたたちは皆、偽りの薬を塗る、役に立たない医者だ。どうか黙ってくれ、黙ることがあなたたちの知恵を示す。わたしの議論を聞き、この唇の訴えに耳を傾けてくれ」(13:3~6)。
しかし、この時点では、神様からの応答はまだありませんでした。ヨブという人物は、ほんとうに苦難を味わった人でした。おそらく、すべての人々から見捨てられた人でした。ヨブは、三人に訴えます。「憐れんでくれ、わたしを憐れんでくれ、神の手がわたしに触れたのだ。あなたたちはわたしの友ではないか。なぜ、あなたたちまで神と一緒になって、わたしを追い詰めるのか。肉を打つだけでは足りないのか」。
これは、ほんとうにつらいお話です。散々苦難を味わったのに、誰も、自分の気持ちを理解してくれないのです。それどころか、自分の友人たちからは、言われのないことで、あれこれと自分の非をさもそうであったかの如くに、言われるのです。悲しく、つらいのに、妻からも理解されず、それだけでなく、嫌われてしまったというのです。
夫婦としてのつながりも終わりになってしまったのでしょうか。友人たちからも嫌われてしまいました。愛していた人々にも背かれてしまったとあります。いったい誰が、このとき彼の友となりえたのでしょうか。一番、苦しいときに、一番救いを必要としていたときに、彼の近くには、誰もいなかったのです。何と、寂しい、絶望的なお話ではないでしょうか。
しかし、ここからが、ヨブの、真に信仰者たる所以です。彼は、このとき、ぞっとするほどに、自分には誰もいないということに心から気づいたのではないでしょうか。人は、私の近くにはほんとうに誰もいないのだと、知ったのでした。そのときにヨブは、神様を心のうちに、体験することになるのです。神様の存在をはっきりと感じとったのではないでしょうか。「わたしは知っている。わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもって、わたしは神を仰ぎ見るであろう。このわたしが仰ぎ見る。ほかならぬこの目で見る」。
ヨブは、「わたしを贖う方は生きておられる」と感じました。生きておられるというのは、臨在する神様をとても近くに感じているのです。この方は、他でもない「わたしを贖う方」なんです。人は、自分の傍らに誰もいない、近くにいると信じていた人々も、誰も実は、近くにはいなかったのです。姿は間近に見えてても、はるか遠くに、見えない程、遠くに彼らは自分の手の届かないところにいたのでした。
それに比べ、あれほど、自分を理由もなく非道に扱っていると思っていた神様こそが、間近にいてくださって、それも、この自分を贖ってくださると、信じられるのです。彼は、自分の身が、もうすぐ神のみもとへいくことを感じています。しかし、はっきりと、神様を仰ぎ見ることになるという確信に満たされています。それは、力強い、喜びです。「わたしを贖う方は、生きておられる」。
皆さんもお気づきのように、ここにイエス様との重なりが、少し見てとれます。まったく、イエス様と同じだとは言えないでしょうけれど、少しならば、その重なりを私たちは思うことができます。
罪のない者が、苦難に遭うということです。そして、神様へ訴えるのです。「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」。イエス様も絶望のうちに、十字架の上で息を引き取られました。そして、ヨブもまた、すっかりと絶望しているのです。神様はヨブにずっと沈黙をしたままでした。イエス様への神様の沈黙もまたしかりでした。しかし、ヨブは、最後には、財産を前以上にいただき、子供たちにも恵まれる、そのような形でのある意味での復活がなされます。イエス様も三日目に復活させられ、死に勝利されました。
ヨブほどの苦難に遭った人物を私たちは、他に聖書から見出だすことはできないのでは ないでしょうか。彼には、最後の最後まで、余りにも救いがなさすぎます。私たちもまた、時に、次から次へと苦難が襲いかかるときがあります。あるいは、身近な人に、いろいろと苦難が訪れているという姿を、見受けることはあるかと思います。それでも、ヨブほどではないに違いありません。もちろん、苦しみは、人それぞれに感じ方が違いますから、比べることはできないという見方もあります。そうだと思います。
しかし、もし、神様に忠実に生きて、ヨブのようになるのであれば、誰が、いったい神様に従うことをするというのでしょうか。そうです。この問いの立て方自体が間違っているのです。私たちは、神様に創造していただいた者として、神様からのすべてのものを与えられ、恵みをいただいたものとして、神様から来るものをすべて受けるしかありません。そして、それはときに試練という恵みであったりもします。
ヨブは、神様をまったく呪うことはなかったかというと、そうではないことがわかります。しかし、同時に、彼は、「わたしを贖う方は生きておられる」というように、神様を信じることもできました。わたしは神様の愛のうちにあって、神様のものなのです。葛藤のなかでもがき苦しむヨブは、そのなかにありながら神様を信じて、信仰を持ち続けて生きる私たちの姿でもあります。これこそ、実に、自然な姿ではないでしょうか。
よきことが訪れている日も、試練の続く日も、いつも、私たちは、主にあって喜んでいることを求められています。それは、「わたしを贖う方は生きておられる」この信仰に尽きるのではないでしょうか。わたしたちも、このヨブの信仰に生きることにしましょう。
平良 師
真に信仰者ヨブ
ヨブ記19章では、ヨブが、自分自身が重い皮膚病を患って以後、周りの人間関係などが、どのようになっていったか、また、友人たちとの論争を通して、どのような心境に至っていったか、そして、そのなかで神様への真実の信仰をいかに保ち得ているのか、あるいは、ギリギリの葛藤が起こり、どのように信仰が、ある意味では進化していったかが描かれています。
まず、「親族もわたしを見捨て、友だちもわたしを忘れた。わたしの家に身を寄せている男や女すら、わたしをよそ者と見なし、敵視する。僕を呼んでも答えず、わたしが彼に憐みを乞わねばならない。息は妻に嫌われ、子供にも憎まれる。幼子もわたしを拒み、わたしが立ち上がると背を向ける。親友のすべてに忌み嫌われ、愛していた人々にも背かれてしまった」と、ありまして、多くの財産を失い、すべての子どもたちを一時に失っただけでなく、重い皮膚病を患い、灰に坐して、陶器のかけらでかきむしるほどになっているヨブに対して、同情するどころか、寄留してヨブにお世話になっているはずの者たちや使用人たちもが、ヨブを無視したり、無礼な扱いをしているのです。
子どもたちは大風の事故で死んだので自分の子どもではないと思われますが、近所の子供(ヨブの兄弟姉妹たちのこと)や幼子たちも、ヨブのことを避けており、息というのは、体を悪くしているからなのでしょうが、妻からも避けられています。重い皮膚病で、陶器のかけらで体をかきむしるほどの状態ですから、見た目が、醜くなっていることは想像できますが、それだけの理由であれば、何もわからない子供や見ず知らずの人々ならばまだしも、これまで、お世話になってきた使用人や友人たちまでもが、とても冷たくヨブのことをあしらっているのです。
それは、どうしてなのでしょうか。おそらく、これほどのひどい苦難が、ヨブを襲ったことに理由があったのではないでしょうか。多くの財産をあっという間に失いました。人災や自然災害です。ヨブに過失があったわけではありません。また、愛してやまなかったであろう子どもを、それも、すべての子どもたちを一度に失ってしまいました。それだけではなく、今度は、自分までもが重い皮膚病にかかってしまったのです。
人々は、どう考えても、ヨブが神様の罰を受けているとしか、思えなかったのではないでしょうか。ヨブが、何か大きな過ちを神様に対して犯したゆえに、神様の怒りを受けていると考えたのではないでしょうか。当時は、そう考えるのが一般的でした。ですから、ヨブがめちゃくちゃな人生を歩んできたのを見て、彼を軽蔑しているのではなく、ヨブが現在、このようなありさまになったのを見て、きっと神様からの罰がくだったのだと考えて、軽蔑しているのです。
そして、見舞い慰めに来たはずの3人の友人たちも、当初は、彼の悲惨な状況に同情して、七日七晩話しかけることもできなかったのですが、ヨブの自分は何も悪いことをしていないという態度に少々不満をおぼえたようで、仕舞いには、ヨブが罪を犯したからだと公然と言う始末です。
それは、3章から始まる三人の友人たちとのやりとりで明らかになっていきます。順不同ですが、あちらこちらから、そのやり取りを見てみたいと思います。3章の冒頭で、ヨブは、苦しみに耐えきれず、自分のような者は生まれて来なければよかったのにと、ヨブを創造された神様を間接的に呪っています。「わたしの生まれた日は消えうせよ。男の子をみごもったことを告げた夜も・・なぜ、わたしは母の胎にいるうちに、死んでしまわなかったのか、せめて、生まれてすぐに息絶えなかったのか」(3:3、11)。
そして、自分を「神よ、どうかわたしを打ち砕き、御手を下し、滅ぼしてください」(6:9)と願っています。7章15節「わたしの魂は息を奪われることを願い、骨にとどまるよりも死を選ぶ。もうたくさんだ、いつまでも生きていたくない」。それでありながら、ヨブは、三人の友人たちに自分の潔白を主張して、それを覆すことをしませんでした。11章の4節には、三人の一人、ナアマ人ツォファルの言葉があります。「あなたは言う。わたしの主張は正しい。あなたの目にわたしは潔白なはずだ、と」。
三人は、いつしか、ヨブは、神様に対して罪を犯しているという確信に至ったと思われます。11章の13節「もし、あなたも正しい方向に思いをはせ、神に向かって手を伸べるなら、また、あなたの手からよこしまなことを遠ざけ、あなたの天幕に不正をとどめないなら、その時こそ、あなたは晴れ晴れと顔を上げ、動ずることなく、恐怖を抱くこともないだろう」。
そして、15章14節からのエリファズの言葉は、誰もが罪を犯しているのであって、それはヨブも同じであり、それに気づけというものでした。「どうして、人が清くありえよう。どうして、女から生まれた者が、正しくありえよう。神は聖なる人々をも信頼なさらず、天すら、神の目には清くない。まして、人間は水を飲むように不正を飲む者、憎むべき汚れた者なのだ」。
そして、22章4節からのところでは、同じく、エリファズが、ずばりこう言っています。「あなたが神を畏れ敬っているのに、神があなたを責め、あなたを裁きの座に引き出されるだろうか。あなたは甚だしく悪を行い、限りもなく不正を行ったのではないか。あなたは兄弟から質草を取って何も与えず、既に裸の人からなお着物を剥ぎ取った。
渇き果てた人に水を与えず、餓えた人に食べ物を拒んだ。腕力を振るう者が土地をわがものとし、もてはやされている者がそこに住む。あなたはやもめに何も与えず追い払い、みなし子の腕を折った。だからこそ、あなたの周りには至るところに罠があり、突然の恐れにあなたはおびえる」。
ヨブは、19章6節からのところで述べています。「どこまであなたたちはわたしの魂を苦しめ、言葉をもってわたしを打ち砕くのか。侮辱はもうこれで十分だ。わたしを虐げて恥ずかしくないのか。わたしが過ちを犯したのが事実だとしても、その過ちはわたしの個人にとどまるのみだ。ところが、あなたたちは、わたしの受けている辱めを誇張して、論難しようとする」。
それに加え、ヨブは、どうして自分がこうなっているかについて、自分自身の理解を述べるのでした。「神がわたしに非道なふるまいをし、わたしの周囲に砦をめぐらしていることを。だから、不法だと叫んでも答えはなく、救いを求めても、裁いてもらえないのだ。神はわたしの道をふさいで通せず、行く手に暗黒を置かれた。・・神はわたしに向かって怒りを燃やし、わたしを敵とされる」といった、認識に至っております。
これは、9章17節でも訴えています。「神は髪の毛一筋ほどのことでわたしを傷つけ、理由もなくわたしに傷を加えられる。息つく暇も与えず、苦しみに苦しみを加えられる」。そして、ヨブは、神様に訴えています。「恐れることなくわたしは宣言するだろう。わたしは正当に扱われていない、と」。
しかし、実際、なぜ、ヨブに苦難が臨んでいるのかについては、先週見ましたように、それは、ヨブが、神様に愛されていたがゆえに、神様は、彼のことを天上界で取り上げ、かれほどの人物はいまいとまで、そこに集ってきた者たちに伝え、それがもとで、サタンが、ヨブが理由もないのに神様を敬い、ひれ伏すはずがありません、それは神様が、彼を守り、祝福しているからでのことです。
もし、そう神様がしなければ、逆に、面と向かってあなたを呪いますよ、と言うので、それなら、ヨブのことをあなたに任せよう、試してみよということで、数々の災いが、彼にのしかかってきたのでした。つまり、神様は、ヨブのことを愛し、誇りに思われ、また、信頼しているからこそ、彼のことをサタンに任せて、その信仰を試されるようなことをされたのでした。しかし、ヨブには、そのことはわからないのでした。ヨブは、自分が、不当に苦しめられていると、考えています。
そして、ヨブは、この三人の者たちに言うのでした。「わたしが話しかけたいのは全能者なのだ。わたしは神に向かって申し立てたい。あなたたちは皆、偽りの薬を塗る、役に立たない医者だ。どうか黙ってくれ、黙ることがあなたたちの知恵を示す。わたしの議論を聞き、この唇の訴えに耳を傾けてくれ」(13:3~6)。
しかし、この時点では、神様からの応答はまだありませんでした。ヨブという人物は、ほんとうに苦難を味わった人でした。おそらく、すべての人々から見捨てられた人でした。ヨブは、三人に訴えます。「憐れんでくれ、わたしを憐れんでくれ、神の手がわたしに触れたのだ。あなたたちはわたしの友ではないか。なぜ、あなたたちまで神と一緒になって、わたしを追い詰めるのか。肉を打つだけでは足りないのか」。
これは、ほんとうにつらいお話です。散々苦難を味わったのに、誰も、自分の気持ちを理解してくれないのです。それどころか、自分の友人たちからは、言われのないことで、あれこれと自分の非をさもそうであったかの如くに、言われるのです。悲しく、つらいのに、妻からも理解されず、それだけでなく、嫌われてしまったというのです。
夫婦としてのつながりも終わりになってしまったのでしょうか。友人たちからも嫌われてしまいました。愛していた人々にも背かれてしまったとあります。いったい誰が、このとき彼の友となりえたのでしょうか。一番、苦しいときに、一番救いを必要としていたときに、彼の近くには、誰もいなかったのです。何と、寂しい、絶望的なお話ではないでしょうか。
しかし、ここからが、ヨブの、真に信仰者たる所以です。彼は、このとき、ぞっとするほどに、自分には誰もいないということに心から気づいたのではないでしょうか。人は、私の近くにはほんとうに誰もいないのだと、知ったのでした。そのときにヨブは、神様を心のうちに、体験することになるのです。神様の存在をはっきりと感じとったのではないでしょうか。「わたしは知っている。わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもって、わたしは神を仰ぎ見るであろう。このわたしが仰ぎ見る。ほかならぬこの目で見る」。
ヨブは、「わたしを贖う方は生きておられる」と感じました。生きておられるというのは、臨在する神様をとても近くに感じているのです。この方は、他でもない「わたしを贖う方」なんです。人は、自分の傍らに誰もいない、近くにいると信じていた人々も、誰も実は、近くにはいなかったのです。姿は間近に見えてても、はるか遠くに、見えない程、遠くに彼らは自分の手の届かないところにいたのでした。
それに比べ、あれほど、自分を理由もなく非道に扱っていると思っていた神様こそが、間近にいてくださって、それも、この自分を贖ってくださると、信じられるのです。彼は、自分の身が、もうすぐ神のみもとへいくことを感じています。しかし、はっきりと、神様を仰ぎ見ることになるという確信に満たされています。それは、力強い、喜びです。「わたしを贖う方は、生きておられる」。
皆さんもお気づきのように、ここにイエス様との重なりが、少し見てとれます。まったく、イエス様と同じだとは言えないでしょうけれど、少しならば、その重なりを私たちは思うことができます。
罪のない者が、苦難に遭うということです。そして、神様へ訴えるのです。「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」。イエス様も絶望のうちに、十字架の上で息を引き取られました。そして、ヨブもまた、すっかりと絶望しているのです。神様はヨブにずっと沈黙をしたままでした。イエス様への神様の沈黙もまたしかりでした。しかし、ヨブは、最後には、財産を前以上にいただき、子供たちにも恵まれる、そのような形でのある意味での復活がなされます。イエス様も三日目に復活させられ、死に勝利されました。
ヨブほどの苦難に遭った人物を私たちは、他に聖書から見出だすことはできないのでは ないでしょうか。彼には、最後の最後まで、余りにも救いがなさすぎます。私たちもまた、時に、次から次へと苦難が襲いかかるときがあります。あるいは、身近な人に、いろいろと苦難が訪れているという姿を、見受けることはあるかと思います。それでも、ヨブほどではないに違いありません。もちろん、苦しみは、人それぞれに感じ方が違いますから、比べることはできないという見方もあります。そうだと思います。
しかし、もし、神様に忠実に生きて、ヨブのようになるのであれば、誰が、いったい神様に従うことをするというのでしょうか。そうです。この問いの立て方自体が間違っているのです。私たちは、神様に創造していただいた者として、神様からのすべてのものを与えられ、恵みをいただいたものとして、神様から来るものをすべて受けるしかありません。そして、それはときに試練という恵みであったりもします。
ヨブは、神様をまったく呪うことはなかったかというと、そうではないことがわかります。しかし、同時に、彼は、「わたしを贖う方は生きておられる」というように、神様を信じることもできました。わたしは神様の愛のうちにあって、神様のものなのです。葛藤のなかでもがき苦しむヨブは、そのなかにありながら神様を信じて、信仰を持ち続けて生きる私たちの姿でもあります。これこそ、実に、自然な姿ではないでしょうか。
よきことが訪れている日も、試練の続く日も、いつも、私たちは、主にあって喜んでいることを求められています。それは、「わたしを贖う方は生きておられる」この信仰に尽きるのではないでしょうか。わたしたちも、このヨブの信仰に生きることにしましょう。
平良 師