創世記6章5~22節
神様は、「地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのをご覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」とあります。全知全能の神様ですから、誤りはなさらないと思うのですが、おそらく唯一この箇所が、神様がご自分のなさったことを後悔したと思われるところです。
最初の人アダムからして、神様の言いつけに背いて罪を犯す者となりましたが、人間が、これほどの悪に染まるとは想定外だったのではないでしょうか。そして、「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する」と言われ、その方法として洪水を起こされ、彼らを滅ぼすことにされました。
先月、創世記1章の創造物語から説教致しましたときに、聖書教育の概論を担当されている日高先生の文章を紹介したかと思いますが、このようなものでした。「水と人は創造の秩序から外れることがあります。水は生命を生み、育て、支えるのに不可欠です。しかし秩序のもとにないとき、水は途方もない破壊力をもち、多くの生命を傷つけ、滅ぼします。同じく人も創造の秩序のもとにあるとき、弱くとも互いを助け、励まし、支えあう力を持っています。
他方、誤った規則、支配のもとでは、人は平然と虐殺や殺戮を行うことを歴史が証明しています。神が水や人を『見て良かった(神はこれを見て、良しとされた)』と言わなかったのは、その潜在能力がどのように用いられるのかを見ることなしに、評価を下すことはできなかったからです」とありました。確かに、洪水がここでは箱舟に入った人間、動物以外のものは、すべて滅ぼしてしまいました。もちろん、このときには、神様が、創造の秩序とは違う形で、水の力を用いられたわけですが。
ところが、神様は、一旦はそのようにすべてのものを滅ぼし尽くそうとされましたが、思い返されました。それは、1人ノアという人物の存在でした。彼は神様の好意を得ることとなりました。それは、ノアが「神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ」人物だったからです。それで、神様は、すべてを滅ぼし尽くすことをされず、洪水に耐えうる箱舟をノアに造らせ、それにノアとその家族、そして、その他の動物を雄雌一組ずつ乗せて、生き延びられるようにしました。
神様は、裁き主であられますが、すべてを見放すことはされません。愛や憐みをどこかに保持しながらことをお進めになられます。神様に背いたアダムとエバをエデンの園から追放されましたが、そのとき、彼らの腰を覆うために皮の衣を与えられました。弟を殺害したカインをそれまで住んでいた土地から追放されましたが、そのときには、カインに出会う者が彼を撃つことがないように、カインにしるしをお付けになりました。
この物語でも、およそすべての人間が堕落し、罪に染まっていたなかに、ノアを神様は見出されたのでした。そして、他の動物も一旦はすべて滅ぼそうとされましたが、これを顧みられました。神様は、人間を創造されたそのときから、赦しと憐みの神様でもあられるのです。
そうして、箱舟に収容した人間、動物が、後の時代を作っていくものたちとなりました。しかし、だからといって、彼らが、生き延びたあとは、罪を犯さなかったと言えば、そうではありませんでした。人間は、相変わらず、神様に背き、罪を犯してまいります。ほんとうに、そうした人間の罪が赦されるためには、イエス様の登場を待たねばなりませんでした。
さて、「ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たしました」とあります。ノアの手がけた箱舟は、長さが300アンマ、約150m、幅が50アンマ、約25m、高さが、30アンマ、約15mくらいのものでした。厳密には、1アンマは45cmですので、それぞれにちょっと短くはなります。とにかく随分と長ひょろい箱舟で、バランス的にはいびつな形であったと思います。そして、現在でいうと5階建てのビルほどの高さの箱舟でした。箱舟の造りは、3階建てでした。
これを実際は、どれほどの人間で、どれくらいの期間をかけて造ったのかは書かれていませんが、少ない人間でかなりの時間がかかったと思われます。そして、彼の箱舟作りの作業は、周囲の者たちにはどのように映っていたのでしょうか。堕落し、悪いことばかりを行っていた人々は、ノアの箱舟作りに対し、悪意をもって妨害することはなかったのでしょうか。そこらのこともまた、書かれてはおりませんので、想像するのみです。
ノアは、来る日も来る日も、神様が言われた箱舟作りに精を出したことでしょう。ノアに、どうして箱舟を作っているのかを聞く者もいたはずであります。しかし、それを知っても、他の者たちは、敵意こそ抱くことはあっても、自分たちのそれまでの歩みを反省する者などいなかったに違いありません。また、ノアの行っていることを信ずることもせず、嘲笑ったことでしょう。なぜなら、ノアが箱舟を作っていることを知って、自分たちの罪を悔い改めたというような人物が現れたなどとも書かれていないからです。
無関心、無視であったというのが、大方であったのではないでしょうか。イエス様が、マタイによる福音書24章の37節から39節で言われているとおり、その兆候はあるのに、つまり、ノアがせっせと箱舟を作っていたという事実ですが、しかし、それが自分たちに迫られている悔い改めの機会であり、また、そうでなければ滅びとつながっていることに誰も気づかないのです。
イエス様の言葉ですが、「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気づかなかった。人の子が来る場合も、このようである」。
箱舟が完成し、ノアとその家族たちや動物たちが乗り込んだあと、雨は40日40夜降り続き、150日の間、水の勢いは衰えることはありませんでした。それによって、箱舟に乗っている生き物以外は、すべて息絶えてしまいました。水の勢いが、とてもすさまじいというのは、私たちもこのところの台風、ゲリラ豪雨や線状降水帯などによって恐ろしい洪水を経験させられています。しかし、ノアの物語では、神様の裁きとしての洪水でした。ノアは、今、目にしている風景からは、とても洪水が起こるなど想像できなかったと思いますが、神様の言葉を信じて、神様の命じたとおりに箱舟作りに取り組んだと思われます。
今日は、平和の日礼拝です。平和を構築していくのも、おそらくこのような作業です。つまり、神様の言われるとおりに、神様が教えておられるとおりに、ことを行っていくということです。こつこつ、こつこつと、ひたすらに命を救うその建造物を作る仕事です。そうすれば、命を得られるのです。ノアは、確かに、神様に従う無垢な人ではあったでしょう。しかし、もし、神様が言われるような箱舟を作らなければ、彼の命とても、失われてしまっていたわけです。
堕落し、悪いことばかりを心に思い計っていると、神様は人間のことを見られました。それは、具体的にはどういうことだったのでしょうか。互いに略奪し合う、争いに明け暮れる、そのような社会になっていたというのでしょうか。人間が互いに、信頼せず、助け合わず、支え合わず、つまり、そのような人間の本来の創造の秩序と思しきこととは、正反対のことをノア以外の人間たちは行っていたのでしょう。
それは、平和な世界とは、真逆の世界でした。自分以外は、何をも信頼できず、それぞれが武器を手にして、あるいは心のうちに武装して、互いに敵対し合っているような社会です。しかし、それでは、今の世はそうではないかと言いますと、それもまた、あまり変わらないのではないでしょうか。そして、国家間の問題としては、世界で起こっているテロの問題があります。北朝鮮のミサイル問題もあります。
今日の礼拝のなかで、沖縄の学習ツアーに参加した方々の報告や証しがなされましたが、私もこれまで、いろいろなものを読んだり、当時の映像をみながら、思ったことは、沖縄の人々が沖縄戦で一番痛みだった、つらかったのは、本土からやってきた兵隊たちが、自分たち一般市民を守るどころか、自分たちに、沖縄のがまと呼ばれる洞窟などに避難していたとき、集団自決を迫ったり、泣いている子供を殺害したり、親に子の殺害を強いたりしたという、そうした非情な行為を受けたということです。
それは、アメリカ兵に対する憎しみよりもさらに激しいものがあった、あのときのことは許せないということなのだろうと思います。それは、同じ日本人と言いながら、大きな人間不信を沖縄の人々に生じさせました。そして、本土の人々への人間不信は、戦後もなお、基地を沖縄に作らされて、犠牲を強いられているということで変わることはないのでしょう。人間と人間を引き裂く行為が、戦争です。
今回、この箇所をとおして、箱舟を作る行為は、日本では、憲法9条を守ることではないかと思いました。箱舟は、命の砦です。箱舟は、命を守りとおす、シェルターです。この9条が日本にある限り、私たちは、かつてのような戦争はしないですみます。この憲法が、日本という国に、戦争をすることを許してはいないからです。私たちの命は、この箱舟に守られることになります。
共謀罪も人間と人間を引き裂く法律です。テロ防止とは言いますが、この法律が成立して、人々の言論の自由を圧殺するというか、まさに権力側が自分たちのやりたいことを阻止しようとする勢力への弾圧をしやすくする最高の法律を作ったとしか思えなくて、仕方がありません。戦争中、特別警察隊が、教会の礼拝堂のうしろで、牧師がどういう説教をするのか、少しでも時の権力に対して批判的な説教をしようもなら、捕えて、牢獄に入れたり拷問をしたという歴史を私たちは知らされています。
また、キリスト教は、敵国の宗教であるというので、スパイ行為がなされているのではないかと目をつけられたということもありました。そして、最も、これこそ本当のねらいだったのではないかと思われるのは、私たちが、この共謀罪ができたことで、自分たちの言論を自己規制してしまう可能性があることです。
私たちが、この法律に触れるようなことになって、警察に連行されるのではないかなどと、萎縮してしまって、それまで自由に発言していたのに、気分的にものを言えなくなってしまうのではないかということです。あちらでも、こちらでも、ちょっとした冗談のようなものでも、携帯で音声や映像をとられて、捕えられる、互いに密告行為が横行して、戦争中の隣組のように隣人を互いに監視し合うような社会になるのではないかと、ちょっと大げさなところもあるかもしれませんが、末恐ろしくなります。これまた、人間と人間の間に、不信の渦を巻き起こす、人と人との関係を分断していく、そういうものとなっています。
罪のなかにある者たちには、ノアのしている箱舟作りは、自分たちの罪の問題や命の問題と何らかの関係があるなどとは、わからなかったでしょう。ノアが作っている箱舟を傍らで見ながら、彼らは、自分たちの欲望を満たすために、極端かもしれませんが、ある意味では、奪い合い、殺し合う毎日を送っていたと思われます。戦争というのは、すべての悪の集大成がそこにおいては、正義という美名のもとに、堂々となされるものであります。
ノアが、神様の命じられたとおりに行うことで人類の命は繋がりました。箱舟は、戦争とは正反対にあるものです。戦争は、人の命を奪うことを目的とします。箱舟は、人の命を守るものでした。命を永らえさせる器でした。嵐や洪水といった自然の猛威をも防ぐことのできるものでした。
私たちは、戦争が、どんなに人間を堕落させ、深く大きな罪に多くの人々を誘っていくかを前の戦争から知らされています。前と言っても、もう72年前のことです。戦争は、私たちに憎しみを教えます。疑うことを教えます。人権や人の尊厳を奪うことを教えます。平気で人に危害を加えることを教えます。他人の財産や命を奪うことを教えます。戦争は最悪です。
いったい、戦争をするような人間を神様が赦されるでしょうか。
戦争においては、いかなる大義名分もありえません。日本には大東亜共栄圏といった大義名分を掲げて、アジアの国々を侵略していった歴史があります。また、正義とか自衛の名のもとに、戦争は始まるものです。私は、戦争の本質を人間の欲望と堕落と収奪、そのようなものとしてしか捉えることができません。ノアの時代、人々は神様が人に与えられた創造の秩序に反し、各々が欲望に満ち、敵対して生きていたと思われて仕方がありません。ですから、このときのノア以外の人間に向けられた神様の怒りには、すさまじいものがあったと思います。
私たちは、神様の怒りのなかで、滅びに至るよりは、ノアのように神に従う無垢な人であって、神様の言われることに従い、平和の箱舟をこつこつと作る者でありたいと思います。
平良 師
神の命じられた通りに行う
神様は、「地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのをご覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」とあります。全知全能の神様ですから、誤りはなさらないと思うのですが、おそらく唯一この箇所が、神様がご自分のなさったことを後悔したと思われるところです。
最初の人アダムからして、神様の言いつけに背いて罪を犯す者となりましたが、人間が、これほどの悪に染まるとは想定外だったのではないでしょうか。そして、「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する」と言われ、その方法として洪水を起こされ、彼らを滅ぼすことにされました。
先月、創世記1章の創造物語から説教致しましたときに、聖書教育の概論を担当されている日高先生の文章を紹介したかと思いますが、このようなものでした。「水と人は創造の秩序から外れることがあります。水は生命を生み、育て、支えるのに不可欠です。しかし秩序のもとにないとき、水は途方もない破壊力をもち、多くの生命を傷つけ、滅ぼします。同じく人も創造の秩序のもとにあるとき、弱くとも互いを助け、励まし、支えあう力を持っています。
他方、誤った規則、支配のもとでは、人は平然と虐殺や殺戮を行うことを歴史が証明しています。神が水や人を『見て良かった(神はこれを見て、良しとされた)』と言わなかったのは、その潜在能力がどのように用いられるのかを見ることなしに、評価を下すことはできなかったからです」とありました。確かに、洪水がここでは箱舟に入った人間、動物以外のものは、すべて滅ぼしてしまいました。もちろん、このときには、神様が、創造の秩序とは違う形で、水の力を用いられたわけですが。
ところが、神様は、一旦はそのようにすべてのものを滅ぼし尽くそうとされましたが、思い返されました。それは、1人ノアという人物の存在でした。彼は神様の好意を得ることとなりました。それは、ノアが「神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ」人物だったからです。それで、神様は、すべてを滅ぼし尽くすことをされず、洪水に耐えうる箱舟をノアに造らせ、それにノアとその家族、そして、その他の動物を雄雌一組ずつ乗せて、生き延びられるようにしました。
神様は、裁き主であられますが、すべてを見放すことはされません。愛や憐みをどこかに保持しながらことをお進めになられます。神様に背いたアダムとエバをエデンの園から追放されましたが、そのとき、彼らの腰を覆うために皮の衣を与えられました。弟を殺害したカインをそれまで住んでいた土地から追放されましたが、そのときには、カインに出会う者が彼を撃つことがないように、カインにしるしをお付けになりました。
この物語でも、およそすべての人間が堕落し、罪に染まっていたなかに、ノアを神様は見出されたのでした。そして、他の動物も一旦はすべて滅ぼそうとされましたが、これを顧みられました。神様は、人間を創造されたそのときから、赦しと憐みの神様でもあられるのです。
そうして、箱舟に収容した人間、動物が、後の時代を作っていくものたちとなりました。しかし、だからといって、彼らが、生き延びたあとは、罪を犯さなかったと言えば、そうではありませんでした。人間は、相変わらず、神様に背き、罪を犯してまいります。ほんとうに、そうした人間の罪が赦されるためには、イエス様の登場を待たねばなりませんでした。
さて、「ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たしました」とあります。ノアの手がけた箱舟は、長さが300アンマ、約150m、幅が50アンマ、約25m、高さが、30アンマ、約15mくらいのものでした。厳密には、1アンマは45cmですので、それぞれにちょっと短くはなります。とにかく随分と長ひょろい箱舟で、バランス的にはいびつな形であったと思います。そして、現在でいうと5階建てのビルほどの高さの箱舟でした。箱舟の造りは、3階建てでした。
これを実際は、どれほどの人間で、どれくらいの期間をかけて造ったのかは書かれていませんが、少ない人間でかなりの時間がかかったと思われます。そして、彼の箱舟作りの作業は、周囲の者たちにはどのように映っていたのでしょうか。堕落し、悪いことばかりを行っていた人々は、ノアの箱舟作りに対し、悪意をもって妨害することはなかったのでしょうか。そこらのこともまた、書かれてはおりませんので、想像するのみです。
ノアは、来る日も来る日も、神様が言われた箱舟作りに精を出したことでしょう。ノアに、どうして箱舟を作っているのかを聞く者もいたはずであります。しかし、それを知っても、他の者たちは、敵意こそ抱くことはあっても、自分たちのそれまでの歩みを反省する者などいなかったに違いありません。また、ノアの行っていることを信ずることもせず、嘲笑ったことでしょう。なぜなら、ノアが箱舟を作っていることを知って、自分たちの罪を悔い改めたというような人物が現れたなどとも書かれていないからです。
無関心、無視であったというのが、大方であったのではないでしょうか。イエス様が、マタイによる福音書24章の37節から39節で言われているとおり、その兆候はあるのに、つまり、ノアがせっせと箱舟を作っていたという事実ですが、しかし、それが自分たちに迫られている悔い改めの機会であり、また、そうでなければ滅びとつながっていることに誰も気づかないのです。
イエス様の言葉ですが、「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気づかなかった。人の子が来る場合も、このようである」。
箱舟が完成し、ノアとその家族たちや動物たちが乗り込んだあと、雨は40日40夜降り続き、150日の間、水の勢いは衰えることはありませんでした。それによって、箱舟に乗っている生き物以外は、すべて息絶えてしまいました。水の勢いが、とてもすさまじいというのは、私たちもこのところの台風、ゲリラ豪雨や線状降水帯などによって恐ろしい洪水を経験させられています。しかし、ノアの物語では、神様の裁きとしての洪水でした。ノアは、今、目にしている風景からは、とても洪水が起こるなど想像できなかったと思いますが、神様の言葉を信じて、神様の命じたとおりに箱舟作りに取り組んだと思われます。
今日は、平和の日礼拝です。平和を構築していくのも、おそらくこのような作業です。つまり、神様の言われるとおりに、神様が教えておられるとおりに、ことを行っていくということです。こつこつ、こつこつと、ひたすらに命を救うその建造物を作る仕事です。そうすれば、命を得られるのです。ノアは、確かに、神様に従う無垢な人ではあったでしょう。しかし、もし、神様が言われるような箱舟を作らなければ、彼の命とても、失われてしまっていたわけです。
堕落し、悪いことばかりを心に思い計っていると、神様は人間のことを見られました。それは、具体的にはどういうことだったのでしょうか。互いに略奪し合う、争いに明け暮れる、そのような社会になっていたというのでしょうか。人間が互いに、信頼せず、助け合わず、支え合わず、つまり、そのような人間の本来の創造の秩序と思しきこととは、正反対のことをノア以外の人間たちは行っていたのでしょう。
それは、平和な世界とは、真逆の世界でした。自分以外は、何をも信頼できず、それぞれが武器を手にして、あるいは心のうちに武装して、互いに敵対し合っているような社会です。しかし、それでは、今の世はそうではないかと言いますと、それもまた、あまり変わらないのではないでしょうか。そして、国家間の問題としては、世界で起こっているテロの問題があります。北朝鮮のミサイル問題もあります。
今日の礼拝のなかで、沖縄の学習ツアーに参加した方々の報告や証しがなされましたが、私もこれまで、いろいろなものを読んだり、当時の映像をみながら、思ったことは、沖縄の人々が沖縄戦で一番痛みだった、つらかったのは、本土からやってきた兵隊たちが、自分たち一般市民を守るどころか、自分たちに、沖縄のがまと呼ばれる洞窟などに避難していたとき、集団自決を迫ったり、泣いている子供を殺害したり、親に子の殺害を強いたりしたという、そうした非情な行為を受けたということです。
それは、アメリカ兵に対する憎しみよりもさらに激しいものがあった、あのときのことは許せないということなのだろうと思います。それは、同じ日本人と言いながら、大きな人間不信を沖縄の人々に生じさせました。そして、本土の人々への人間不信は、戦後もなお、基地を沖縄に作らされて、犠牲を強いられているということで変わることはないのでしょう。人間と人間を引き裂く行為が、戦争です。
今回、この箇所をとおして、箱舟を作る行為は、日本では、憲法9条を守ることではないかと思いました。箱舟は、命の砦です。箱舟は、命を守りとおす、シェルターです。この9条が日本にある限り、私たちは、かつてのような戦争はしないですみます。この憲法が、日本という国に、戦争をすることを許してはいないからです。私たちの命は、この箱舟に守られることになります。
共謀罪も人間と人間を引き裂く法律です。テロ防止とは言いますが、この法律が成立して、人々の言論の自由を圧殺するというか、まさに権力側が自分たちのやりたいことを阻止しようとする勢力への弾圧をしやすくする最高の法律を作ったとしか思えなくて、仕方がありません。戦争中、特別警察隊が、教会の礼拝堂のうしろで、牧師がどういう説教をするのか、少しでも時の権力に対して批判的な説教をしようもなら、捕えて、牢獄に入れたり拷問をしたという歴史を私たちは知らされています。
また、キリスト教は、敵国の宗教であるというので、スパイ行為がなされているのではないかと目をつけられたということもありました。そして、最も、これこそ本当のねらいだったのではないかと思われるのは、私たちが、この共謀罪ができたことで、自分たちの言論を自己規制してしまう可能性があることです。
私たちが、この法律に触れるようなことになって、警察に連行されるのではないかなどと、萎縮してしまって、それまで自由に発言していたのに、気分的にものを言えなくなってしまうのではないかということです。あちらでも、こちらでも、ちょっとした冗談のようなものでも、携帯で音声や映像をとられて、捕えられる、互いに密告行為が横行して、戦争中の隣組のように隣人を互いに監視し合うような社会になるのではないかと、ちょっと大げさなところもあるかもしれませんが、末恐ろしくなります。これまた、人間と人間の間に、不信の渦を巻き起こす、人と人との関係を分断していく、そういうものとなっています。
罪のなかにある者たちには、ノアのしている箱舟作りは、自分たちの罪の問題や命の問題と何らかの関係があるなどとは、わからなかったでしょう。ノアが作っている箱舟を傍らで見ながら、彼らは、自分たちの欲望を満たすために、極端かもしれませんが、ある意味では、奪い合い、殺し合う毎日を送っていたと思われます。戦争というのは、すべての悪の集大成がそこにおいては、正義という美名のもとに、堂々となされるものであります。
ノアが、神様の命じられたとおりに行うことで人類の命は繋がりました。箱舟は、戦争とは正反対にあるものです。戦争は、人の命を奪うことを目的とします。箱舟は、人の命を守るものでした。命を永らえさせる器でした。嵐や洪水といった自然の猛威をも防ぐことのできるものでした。
私たちは、戦争が、どんなに人間を堕落させ、深く大きな罪に多くの人々を誘っていくかを前の戦争から知らされています。前と言っても、もう72年前のことです。戦争は、私たちに憎しみを教えます。疑うことを教えます。人権や人の尊厳を奪うことを教えます。平気で人に危害を加えることを教えます。他人の財産や命を奪うことを教えます。戦争は最悪です。
いったい、戦争をするような人間を神様が赦されるでしょうか。
戦争においては、いかなる大義名分もありえません。日本には大東亜共栄圏といった大義名分を掲げて、アジアの国々を侵略していった歴史があります。また、正義とか自衛の名のもとに、戦争は始まるものです。私は、戦争の本質を人間の欲望と堕落と収奪、そのようなものとしてしか捉えることができません。ノアの時代、人々は神様が人に与えられた創造の秩序に反し、各々が欲望に満ち、敵対して生きていたと思われて仕方がありません。ですから、このときのノア以外の人間に向けられた神様の怒りには、すさまじいものがあったと思います。
私たちは、神様の怒りのなかで、滅びに至るよりは、ノアのように神に従う無垢な人であって、神様の言われることに従い、平和の箱舟をこつこつと作る者でありたいと思います。
平良 師