平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2017年10月29日 勇者よ、主はあなたと共におられます

2018-03-09 12:46:02 | 2017年
士師記6章11~24節
勇者よ、主はあなたと共におられます

 イスラエルの民は、再び主の目に悪とされることを行いました。神様は、彼らを7年間、ミディアン人の手に渡されました。その結果、イスラエルの人々は、ミディアン人を避けて、山の洞窟や洞穴、要塞を利用して生活をすることとなりました。しかし、種を蒔く頃になると、ミディアン人は、アマレク人や東方の諸民族と共に上ってきて攻め立てるのでした。彼らは、イスラエルの人々に対して、この地の産物となるものを荒らし、命の糧となるものは、羊も牛もろばも何も残しませんでした。
 しかも、彼らは家畜と共に、天幕を携えて上ってきました。その数は、いなごの大軍のようであったとあります。ですから、イスラエルの人々が住みついた土地をミディアン人は、再び奪い返すといった勢いであったことがわかります。それで、イスラエルの民は、甚だしく衰えてしまいました。土地も何もなくなり、かろうじて残された土地で種蒔きをしようとすると彼らがやってきて、何もかも奪い去っていったのですから。イスラエルの民は、ついに神様に助けを求めて叫びました。 
 神様は、彼らの叫びに応答され、ギデオンという人物を士師としてお立てになりました。先週もお話ししましたように、士師とは、モーセの次の指導者であったヨシュアなきあと、12の部族としてカナンの地に広がっていったイスラエルの民を敵から守るために神様の方から自発的に力を与えた指導者のことです。ヨシュア以降、広がっていったイスラエルの民は、行った先々の土地で、その周辺の国々や部族が信仰する偶像の神々を拝むようになり、自分たちをエジプトの地から導き出したイスラエルの神様を裏切り、あるいは、忘れてしまうのでした。こうした、イスラエルの民を神様は、周辺の国々を用いて、イスラエルの民を試し、ついには、真の神様のところに立ち戻るように願われたのでした。  
 士師は、霊的指導者としての役割も果たし、裁判官の役割も果たしました。しかし、神様への献身の思いに欠けている者がいたり、神様が喜ばれるような人生を歩んでいなかったり、いわゆる指導者としての資質に欠けていたりと、立派な人物はほとんどおりませんでした。
 ギデオンは、どうであったかというと、聖書では、彼の姿はとても臆病者として描かれています。主の御使いがギデオンのもとを訪れたとき、彼は、ミディアン人に奪われるのを免れるために、酒ぶねの中で小麦粉を打っていました。そのギデオンに、主の御使いは、「勇者よ、主はあなたと共におられます」と呼びかけます。ミディアン人に見つからないように、酒ぶねに隠れて、こそこそと小麦粉を打っているギデオンにこの御使いは、「勇者よ」と呼びかけたのです。
 ちなみに口語訳では、「大勇士」となっておりますし、岩波訳でも「力ある勇士」となっています。これは、ユーモアではないでしょうか。聖書は、聖なるものでまじめな書物だから、ユーモアなどどこにも描かれていないと考えるのは間違いです。ちょっと、考えてみると、これはユーモアでしょう、と言える箇所は結構あるものです。ギデオンは、勇者どころか、彼は、ミディアン人を恐れ、見つからないように、酒ぶねの中で、隠れるようにこそこそと小麦粉を打っていたのです。とても大物としての風格はなく、ちっぽけで臆病な男でした。この姿がどうして勇者の姿なのでしょうか。まさに、敵を前にして、堂々としたところがなく、このような彼の姿は、とても指導者としての資質ではありません。
 ところで、ギデオンは、突然に現れた御使いに、どうして、神様は自分たちを見放し、ミディアン人の手に渡されてしまったのかと、嘆きます。ギデンオンは、「勇者よ、主はあなたと共におられます」と言われた言葉のなかの、「あなたと共におられます」といった箇所に突然のごとくに反応したのでした。自分のことを勇者と言ったことについては、どうだったのかわかりません。皮肉を言わないでください、そんな気持ちもあったのかもしれませんが、それよりもギデオンは、自分たちの今のおかれた状況と境遇にとても心を痛めていたのでいた。
 ギデオンは、「主なる神がわたしたちと共においでになるのでしたら、なぜこのようなことがわたしたちにふりかかったのですか。先祖が、『主は、我々をエジプトから導き上られたではなかいか』、と言って語り伝えた、驚くべき御業はすべてどうなってしまったのですか。今、主はわたしたちを見放し、ミディアン人の手に渡してしまわれました」と言ったのです。ギデオンは、そのような神様が共におられるなど、とても信じられないと、神様に対するこれまでの不信の思いを述べました。
 それについては、つまり、どうして見放すようなことになったのかにつていは、10節にその答えは既に御使いをとおして述べられております。ただし、この言葉をギデオンはお話の筋としては直接には聞いていないことになっております。しかし、読者である私たちは、イスラエルの民すべてに神様がこのとき御使いをとおして、どうしてイスラエルの民がこのような境遇に至ったかについては語られたことを知っております。
 「わたしがあなたたちの神、主であり、あなたたちはアモリ人の国に住んでいても、アモリ人の神を畏れ敬ってはならない、とわたしは告げておいた。だが、あなたたちは、わたしの声に聞き従わなかった」とあります。先ほどの、どうして、「主はあなたと共におられます」なんて言えるのですかという問いに対して、御使いは、このときには、ギデオンにその問いには直接応えませんでした。それは、私たちの人生に起こるさまざまなことについて、それは、神様の方では理由やご計画があってのことだけれど、あなたがたがそれについて、ひとつ一つ知る必要はない、そう言われているかのようです。
 このときにも、ギデオンの問いに対して、御使いは、答えることをせず、その問いを聞かなかったかのよう、「あなたのその力をもって行くがよい。あなたはイスラエルを、ミディアン人の手から救い出す」と言っただけでした。「あなたのその力をもって行くがよい」とは、これまた、おもしろいではありませんか。彼はいかなるすごい力を持っているというのでしょう。しかし、あとの言葉が、それがなぜできるかを述べています。「わたしがあなたを遣わすのではないか」という言葉です。
 ギデオンは、どうして、この私がといった思いはなかったのでしょうか。どうすればイスラエルをこの私が救うことができるでしょうか、この私がと。そもそも、ギデオンは自分のことをどのように理解していたでしょうか。彼は、15節でこのように述べています。「わたしの一族はマナセの中でも最も貧弱なものです。それにわたしは家族の中でいちばん年下の者です」と答えました。ギデオンの一族は、マナセ族のなかにあって、最も貧弱な一族でした。それに、ギデオンは、家族のなかでは一番の年下のもので、他の兄弟たちに比べても何の人生経験ももっていない、ほとんど世間知らずで、それに何か秀でるものがあるというのでもない、それどころか、臆病者です。
 どうして、そのような自分が、イスラエル全体を動かすことができるでしょう、そういった思いがあったことでしょう。ギデオンは、臆病で、自分に自信のない者でした。その私が、どうして、イスラエルを救うことができるでしょうか、そう思ったのです。ですから、その彼を神様が「勇者よ」と呼ばれたのは、ユーモアでなくて何でしょうか。「あなたのその力をもって行くがよい」と言われても、そのような力など、自分にはありません、といのが、ギデオンの偽らざる思いでした。
 神様は、この臆病者ギデオンを士師としてお立てになられたのでした。それは、たとえ臆病者であり、ちっぽけな自分であって人のために何かができるなど、とても思えない、という者であったとしても、神様が共におられて、神様がその人を遣わすならば、その人は、神様の成そうとしていることを成し遂げることができるということをこの物語は述べています。「主は、あなたと共におられます」。「わたしがあなたを遣わすのではないか」。これらの神様の言葉が、これからギデオンが、士師として立っていき、ミディアン人、アマレク人、東方の諸民族との連合軍を相手に、戦っていくときの力となったのでした。
 そして、実際、この二つのことがわかる証明をギデオンは、神様に求めました。信仰のうすい臆病者のギデオンには、そこまでして、確かめなければ、その召命に応えることができませんでした。ギデオンは、家から捧げ物を持ってくるから、それまで帰らないで、そこにいてくださいと御使いに頼みました。それから、御使いは、捧げ物を持ってきたギデオンのその捧げ物に、岩から火が燃え上がり、肉とパンを焼きつくすという奇跡をもって、このことが、神様からの召命であることを示されました。ギデオンは、このときはじめて、このお方が、御使いであることを悟り、自分は、神様を見たので死ぬと恐怖におののくのですが、「安心せよ、おそれるな、あなたが死ぬことはない」という言葉をいただき、ようやく、彼の心の内は定まったのでした。
 今日は、敬老の日をおぼえての礼拝を守っています。年齢を重ねていきますと、肉体は衰えていきます。いつまでも、元気なはずはありません。私は、先日、一年前くらいからときどき痛む左足のアキレス腱の部分のことが気になって、近くの整形外科に行きました。そうしましたら、アキレス腱や筋肉には異常はないとのことでしたが、アキレス腱とふくらはぎの筋肉のつなぎ目のところに小さな水泡のようなものができており、それは炎症を表しているとのことでした。そこに刺激が伝わると、痛みが走るのです。
 病院の先生が、何か激しい運動をしていますか、ということでしたので、思い当たる節は一つ、釣りのときに結構はげしい運動をしています、と伝えました。釣りでねえ、と怪訝そうなお顔でしたが、知る人ぞ知るで、釣りは結構な運動を要するものなのです。特に、毎回大漁にみまわれて重たいものを運んでいる私は、それをひきずったり持ち上げたりで、無理をしております。それでも最近は、帰りのフェリーに乗るときには、車が入る入口から入れてもらうようにしています。そうしないと、タラップをあがり、船に乗り込むには、クーラーを持ち上げないとなりません。引きずりながら、運ぶので力がいりません。そのようなわけで、これまで体力的に無理をしてきたので、それがたたったということなのでしょう。
 しかし、一事が万事で、そんなふうに、これまで、どうもなかったことも重荷として体は受け止め始めているということです。目の衰えもまた、同じで、何だかぼんやりとしか見えない、そのようなことになっています。
 肉体が、衰えるということになりますと、それは当然気持ちの面でもまた、それに平行して弱ってきます。疲れをおぼえることも増えてきます。これまでできていたことが、もう、できないかもしれないと、不安もよぎることでしょう。
 それは、わたしたちがこの世にある限り、肉の体をいただいて、生きている限り仕方がありません。どのような精巧な機械も永遠に故障なく動き続けることはありえません。まして、肉の体をもって生きる人間ですから、あちらこちらに故障がでてきます。経年劣化を起こすのは当然のなりゆきです。ですから、そのことがあたかも起こらないかのように振る舞うことはできません。この自分は、朽ち行く肉の体をもっている者であることを無視したり、忘れ去ってしまうことなどできないのです。
 しかし、私たちには、こうした私たちと共にいてくださる神様がおられるのです。そのこともまた、忘れてはならないのです。コリントの信徒への手紙二4章16節「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます」。そういう世界があることもまた信じています。そして、その源に神様がおられます。
 神様は、臆病者ギデオンを士師として召されたように、いかなる人をもお用いになられます。そういった意味では、私たちは、病気になって、あるいは、年をとって、もうそれにはふさわしくない、できないと思っていても、神様の目からは、いつも現役に生きる者なのかもしれないのです。神様が必要とされるなら、いついかなるときにも、神様の望まれるように私たちは用いられていくのです。
 であれば、神様との関係に生きる私たちは、いつでも現役です。
 私たちが年を重ねて弱り果てようとも、神様が必要とされればいつでも「勇者よ」なのです。勇者にさせられるのです。そして、そのときは、神様が共におられるので、神様が遣わされるので、そのことを成し遂げることができるのです。
 敬老の日は、ご高齢の方々を敬い、これまでのお働きに感謝するときです。そして、これからの人生がさらに祝福に満ちたものとなるように、祈り願うときでもあります。これらの皆様を神様が今日に至るまで、守られ、導かれました。そして、これらの皆様をとおして、神様は、この平尾教会の礎を築かれ、平尾教会を導いてこられました。しかし、これからも、これらのご高齢の方々は、私たちと共に、教会と共に歩んでくださることでしょう。
 そして、そのとき、神様が共におられ、神様が遣わされる、これはもう年に関係はありません。むしろ、聖書的には、その人物本人ではなく、神様に、神様に栄光が帰せられるように、力のない弱い者こそ、神様は用いられるのです。神様がこれからも共におられ、神様がいかようにも遣わされる、私たちの人生は、召されるときまで、そうであります。


平良 師

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