平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2013年12月8日 模範を示されたイエス様

2014-06-24 22:19:55 | 2013年
ヨハネによる福音書13章1節~15節
模範を示されたイエス様

 このイエス様が弟子たちの足を洗われたという洗足の行為は、後々までも人々に語り継がれていったことでしょう。とても美しい、そして、とてもわかりやすいお話です。ですから、聖書にも収められている、そう思います。当時は、通常、足を洗うという行為は、奴隷の仕事でした。人々は、外出から帰ってくると足を洗う習慣があったようで、金持ちたちは、その足を洗う行為を奴隷たちにさせていたようです。
 13章の1節には、イエス様はこのとき、「この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」と書かれています。このとき、イエス様が、弟子たちの足を洗った行為は、その彼らをこの上なく愛し抜かれたという一つの出来事でした。イエス様は、食事が終わると、立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれました。そして、たらいに水をくんで、弟子たちの足を洗って、腰にまとった手ぬぐいでふき始められました。
 牧師たちの中に手ぬぐいを腰にまとっている方がときにおられますが、おそらくこうしたイエス様の振る舞いを自分のうちに留めておきたいと思っておられるのでしょうね。また、実際、礼拝の中で、こうした儀式を行っている牧師もおります。弟子の一人であったペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と聞きました。そこには、どうして、イエス様が私たち弟子たちの足をお洗いになるのですか、理解に苦しむといった驚きの表情がみてとれます。
 イエス様は、そのペトロに対して「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われました。しかし、そう言われても、このときのペトロには、奴隷がするべき仕事を先生であるイエス様がなさろうとしている、そのような畏れ多いことなど、してもらうわけにはいかいと思ったのでしょう。そこで「わたしの足など、決して洗わないでくさい」と言ったのでした。そのとき、イエス様は、「もしわたしがあなたを洗わないのなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と言われました。
 当時のパレスチナを想像してみます。少なくとも、わかることは、雨季と乾季が分かれている土地柄であって、今の日本のようにアスファルトやコンクリートで舗装されていない時代のことですから、乾季ともなると人々の歩く道は、それは、風が吹くだけで、砂埃はたいへんなものだったでしょう。よく運動会などで、ちょっと強い風が吹いて、砂埃が舞い上がって顔を覆ったりしますが、そのような中を人々は毎日生活していて、しかも、はだしや履物もあってもサンダルのようなものですから、足は、十分によごれておりました。汗などかくとそれは非常に汚くなったと思われます。イエス様は、ある意味では、一番汚い部分を洗おうとなさったのではないでしょうか。そして、それは、罪という汚れているものにまみれている人々に仕えようとするイエス様のお姿でした。
 ペトロは、畏れ多いこととして、イエス様の行為を受け入れまいとしました。しかし、イエス様は、「もしわたしがあなたを洗わないのなら、あなたはわたしと何のかかわりもなくなる」と言われたのでした。このお言葉は、非常に信仰の本質を貫くものです。つまり、イエス様のなさることを受け入れることによって、イエス様との関係が生まれるということです。わたしたち人と人同士の関係もそうではないでしょうか。人と人との関係はどうして生まれるでしょうか。ペトロは、このイエス様の行為が汚らわしいと感じて拒否したのではなく、畏れ多いこととして、遠慮しようと思ったのでした。
 しかし、人と人との関係というのは、遠慮をしていては生まれません。また、これを頼むと、あとが面倒くださいことになる、それよりは、いっそのこと自分一人で解決した方がよいと判断するようなことはないでしょうか。そこには人と人の関係は生まれてきません。人に、より頼む、甘えるということは、相手もまたそのように自分に対して振る舞うことを許す、相手のことを受け入れるということであります。そのようなことで関係が生まれます。そのようなことが関係をつくるということです。そして、多くの人と人との関係は、そうやって作られていきます。
 人に甘えることをしない人は、人から甘えられることに厳しいのではないでしょうか。人に甘えることのできる人は、人が甘えてきてもそれを受け入れられるはずです。その人と関係をつくらないと考えるのなら、相手がもたらそうとするものを一切受け取らないことではないでしょうか。たとえ、それが、好意や善意からのものであろうと、それを受けないということです。
 私たちキリスト者は、人との関係をつくっていくなかでしか、イエス様を宣ベ伝えることはできないと考えて間違いありません。関係を作らず、イエス様を宣ベ伝えようとすることは、本気でイエス様を宣べ伝えようとしていることになってはいないでしょう。この点に関しては、私自身は、人との関係を作っていく上では、もっともっと積極的な姿勢が必要かなあと思っています。ただし、これは、ほんとうに精力を要します。
 イエス様の「もしわたしがあなたを洗わないのなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と言われた言葉を重く受け止めたいと思います。イエス・キリストは2000年前に私たちの救いのためにこの世に来られました。今年もまた、私たちは、このイエス様のご降誕に心ぞなえをしています。そして、イエス様はこの世に来られて、イエス様が、あなたのために十字架にかかられたということを受け入れて欲しいのです。
イエス様のなさることを私たちは感謝の思いをもって、素直に受け入れることが大切です。イエス様に甘えることが、イエス様との関係を築くことになります。生前イエス様は、弟子たちのご自分に対する無理解をよく忍耐されました。いろいろなことを教えられましたが、そのときの弟子たちは、イエス様の言われることがよくわかりませんでした。弟子たちというのは、現代の私たちでもあります。弟子たちの無理解と、ほこりまみれの汚れた足は、罪にまみれた私たちを表しているとも言えるでしょう。イエス様がその弟子たちの足を洗われた、それは、イエス様の血潮で、私たちの罪が清められたことと重ねて考えることができます。このときの足を洗う行為は、イエス様が十字架で私たちの罪を取り除いてくださることの先取り的出来事でした。
 しかし、イエス様は、この行為をそれだけに終わらせはしませんでした。弟子たちの足を洗われたあと「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」と言われました。この弟子たちの足を洗う行為は、あなたがたが互いにそのようにするようにと模範として示したのだと言われました。
 この世の教会の群れを導いておられるのは、イエス様です。この世の人間関係には、上下関係などがあり、この世では、師が弟子の足を洗うなど、とても考えられないけれど、教会の群れには、そのような上下関係などがあってはならないと言われます。教会にあるのは、互いが互いの足を洗うという行為、互いを赦し愛するという行為、それだけであるというのです。そこにはイエス様に見られるように、忍耐があり自己犠牲があり、謙遜があります。
 イエス様の裁判では、十字架につけよと叫ぶ群衆によって、十字架刑が実行に移されていくのです。群衆の中には、そのとき扇動されていた者もおれば、無力なイエス様に対して愛想をつかした者たちもいたことでしょうが、群衆がもし、十字架につけようとするユダヤの当局者たちに向かって、否を叫んだならば、どうだったでしょうか。少なくとも、このときのピラトは、群衆たちが暴動を起こさないように、群衆の言うことを聞いたのでした。しかし、イエス様は、その群衆を赦し、すべての人々を愛され、己をむなしくなさって十字架にかかっていくことになりました。
 イエス様が、模範を示した、と言われる箇所だけでなく、私たちは、聖書から、少なくとも福音書の中から、私たちの生活のスタイルやものの考え方や見方について、イエス様から多くを教えられます。イエス様が、悪魔と戦って、悪魔が与えるいくつかの誘惑に勝利されたといった物語を読みますと、世の誘惑の種類にはこのようなことがあって、誘惑する者からはこのような迫り方をされて、そのときには、このように考えるべきだとか、忍耐が必要だとか、欲望をどう抑えるかとか、毅然とした態度をとるとか、聖書の御言葉を盾にするとか、いろいろと教えられるのです。
 また、朝早くに、静かなところで祈っていたという箇所を読むと、人けのいない、静かなところでお祈りをすることを教えられます。早天祈祷会をなさる方々は、まさに、このようなイエス様の姿を文字通り理解されて、それを実行されているのでしょう。当時、律法を守ろうとしない、否、守ることのできない罪人と言われていた、救いからもれた人々と考えられ蔑まされていた人々とイエス様がよく交わり、食事もしていたという箇所を読みますと、私たちも誰をも蔑んでならず、差別してはならず、友として接することを教えられるのです。
 しかし、ここには、はっきりと「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」と言われていますので、イエス様の強いメッセージが込められているというのは、間違いありません。必ずそうしなさいと、言われているくらいに受け取っていいかと思います。主であり、師である私がそうしたのであるから、模範を示したのだから、あなたがたもそうしなさい、というわけです。
 私は結婚式のときには、通常この聖書の箇所からお話を致します。イエス様が弟子たちの足を洗われたということとは、師と弟子ですから、夫婦関係は少々違うでしょう。夫婦関係の場合は、対等ですから。結婚というのは、はじめは、双方が好きで結婚しても、長い人生を共にしてまいりますと、つい、それぞれいろいろと汚れてしまうこともでてまいります。
 もう、そのような嫌な汚い部分は見たくない、触れたくないということも起こってきます。姦淫の罪を犯した女性に、自分が罪を犯したことがないと思う者から石を投げよ、イエス様が言われたとき、年長者から一人また一人とその場を去っていったというのは、誰もが罪を犯し、汚くなっていく、そのことを表しています。長い人生を歩んでいくうちに、私たちは、多くの罪を重ねていくものであります。
 このイエス様が模範としてなされた洗足の行為は、それでも互いの足を洗い合うということ、それは、互いを赦し、愛し、支え合う関係を築いていきなさいということです。足を洗い合うというのは、イエス様がなさったように、忍耐し、赦し、そして、相手になお仕えていくことです。夫婦の関係とは、そういうものです、と結婚式では、お話しをするのですが、それは夫婦に限らず、イエス様が、弟子たち、私たちキリスト者たちに期待したことでした。
 私たちこの平尾バプテスト教会の会員の一人ひとりも、長く、お互いに教会生活を続けていきますと、互いのすばらしさを発見することも多いのですが、また、だめなところも、見たくないところ、醜いところも見ざるをえなくなってしまうこともでてきます。そうなってしまったら、関係が終わりかというとそうではないのです。
 ある意味では、そこからが始まりです。結婚生活も互いに幻滅したところから、ほんとうの夫婦としての関係づくりが始まるのです。努力が必要になってまいります。忍耐することが愛であることを悟ることにもなります。互いに足を洗い合う関係が生じるのです。それをしないさいとイエス様は私たちに迫っています。模範を示したと言われます。
まずは、イエス様が足を洗ってくださるという行為をありがたく受け取り、そして、同時に、イエス様が、なさったように、私たちも行うことです。
 その意味は、相手に仕え、支えることです。仕えていただくことにも感謝して相手の親切や心遣いを受け入れることです。また、相手を赦し、愛することです。教会が愛あふれる共同体をしっかりと築き上げているならば、私たちの教会の群れには、これからもたくさんの方々が、加え与えられていくことでしょう。それぞれが、互いに交わりを喜び、受け入れ合い、仕え合い、支え合っていきます。
 礼拝、集会での交わり、各会の交わり、委員会での交わり、教会学校での交わり、スモールグループでの交わり、ミニストリー活動での交わり、その他の各種奉仕を通しての交わり、また、それ以外でも、教会員同士の招き招かれての交わりなど、いろいろな場で、喜びと笑いがあり、赦し、支え、仕え合う愛あふれる関係が生まれているならば、そこには、教会のうるわしい姿が現れているのですから、自ずと外の方々がこの交わりに入りたいと願うはずであります。イエス様がその中心におられることに気付かれるからです。
 「あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」。


平良師

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