平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2012年5月27日 神様の約束の成就

2012-08-09 12:25:43 | 2012年
(ペンテコステ礼拝)

士師記16章15~31節
神様の約束の成就


 サムソンは、母親の胎内にいるときから神様に献げられたナジル人でした。このナジル人については、民数記の6章1節からのところにその内容が書かれてあります。「イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。男であれ、女であれ、特別の誓願を立て、主に献身してナジル人となるならば、ぶどう酒も濃い酒も断ち、ぶどう酒の酢も濃い酒の酢も飲まず、ぶどう液は一切飲んではならない。またぶどうの実は、生であれ、干したものであれ食べてはならない。ナジル人である期間中は、ぶどうの木からできるものはすべて、熟さない房も皮も食べてはならない。ナジル人の誓願期間中は、頭にかみそりを当ててはならない。主に献身している期間が満ちる日まで、その人は聖なる者であり、髪は長く伸ばしておく。主に献身している期間中は、死体に近づいてはならない。父母、兄弟姉妹が死んだときも、彼らに触れて汚れを受けてはならない。神に献身したしるしがその髪にあるからである。ナジル人である期間中、その人は主にささげられた聖なる者である」。
 イエス様が、主の晩餐の最後で、「神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」と言われましたが、それは、あたかもナジル人のように誓願を立て、ご自身を神様に献げられた汚れなきものとした、といった意味が込められていたのでしょうか。また、どういうわけか、イエス様の髪型をロングヘアーと思い描くのも、ナジル人と印象がだぶったからなのでしょうか。
 話しをサムソンに戻します。この時代、イスラエルは、40年間、ペリシテ人の支配の中におかれました。「イスラエルの人々は、またも主の目に悪とされることを行ったので、主は彼らを40年間、ペリシテ人の手に渡された」とあります。そこに登場するのがナジル人として備えられたサムソンです。彼は、マノアという人物の息子で、その妻は、不妊の女性であったのです、神様は、その女性からイスラエルを解放するための戦士を誕生させられたのでした。
 あるとき、この女性のもとに神様の御使いがやってまいりまして、「あなたは不妊の女で、子を産んだことがない。だが、身ごもって男の子を産むであろう。今後、ぶどう酒や強い飲み物を飲まず、汚れた物を一切食べないように気をつけよ。あなたは身ごもって男の子を産む。その子は、胎内にいるときから、ナジル人として神にささげられているので、その子の頭にかみそりを当ててはならない。彼は、ペリシテ人の手からイスラエルを解き放つ救いの先駆者となろう」と告げました。
 ペリシテ人の抑圧からイスラエルの民を救おうとされた神様は、このとき、一人のナジル人をもって、その任に当たらせました。彼は、イスラエルの士師として、イスラエルを20年間、裁いたというのですが、実際は、賢いリーダーとして、イスラエルを導いたというよりも、なりふりかまわず、気持ちのおもむくままに、ペリシテ人と争い、それも多くの場合、たった一人で戦い、それによって、ペリシテ人の戦力を弱体化させたということでした。
 このサムソンのお話は、物語として読むとき、これはほんとうに面白い筋立てとなることでしょう。しかし、いったい、信仰の何を学べばいいのか、ということになりますと、難しいというのが正直なところではないでしょうか。
 大人になったサムソンは、荒っぽすぎる人物として描かれています。そして、どういうわけか、ペリシテ人の女性ばかりを好きになるのでした。最初に好きになった女性もそうで、サムソンは、そのことを両親に告げたところ、彼らは、「お前の兄弟の娘や同族の中に、女がいないとでも言うのか。無割礼のペリシテ人の中から妻を迎えるとは」と、よりによって、どうして異邦人のしかも敵のペリシテ人の女性なのかと、非難しました。しかし、サムソンは、「彼女を妻として迎えてください、わたしは彼女が好きです」といって引き下がることはありませんでした。
 聖書には、「父母はこれが主のご計画であり、主がペリシテ人に手がかりを求めておられることが分らなかった」とあります。そして、続けて、「当時、ペリシテ人がイスラエルを支配していた」と説明書きのようなことが述べられています。つまり、サムソンは、ペリシテ人の女性に心がひかれ、妻としたがるのは、それは、神様の御心であって、そうやって、何とか、ペリシテ人との間に、手がかりをつくろうとしているのだ、というのです。手がかりとは、ペリシテ人を倒す手がかりということです。
 わたしたちは、このサムソンの物語をこの線で読み進めていく必要があります。そうでなければ、わたしたちは、この物語から何を学ぶべきか、やはり、わからなくなってしまうのです。この線とは、すべては、神様のご計画に従って、ことは進んでいったということです。
 彼がナジル人として立てられたのは、両親の意志ではありませんでした。それは、神様の最初からのご計画でした。「その子は胎内にいるときから、ナジル人として神に献げられているので、その子の頭にかみそりを当ててはならない。彼は、ペリシテ人の手からイスラエルを解き放つ救いの先駆者となろう」と御使いは言っています。母親も夫に御使いが言ったことを伝えたとき「その子は胎内にいるときから死ぬ日までナジル人として神に献げられているので」と、語っていますが、死ぬときまで、そうなのだということでした。つまり、誓願が果たされたときが、彼の死ぬときであるということでした。
 さて、今日は、ペンテコステの日の礼拝を守っています。イエス様が天に挙げられたのち、五旬祭の日になり、弟子たちは、神様の霊を受けて、大胆に、イエス・キリストによる福音を宣べ伝えていきました。このペンテコステの出来事は、ここにキリストの教会が誕生したといってもよいものでした。神様の霊が働かれるとき、その霊の力に突き動かされて、わたしたちは、神様のご用をなすことができます。
 まさに、サムソンもそうでした。士師記13章24節から25節「この女は、男の子を産み、その名をサムソンと名付けた。子は成長し、主はその子を祝福された。主の霊が彼を奮い立たせ始めたのは、彼がツォルアとエシュタオルの間にあるマハネ・ダンにいたときことであった」とありますが、「主の霊が彼を奮い立たせ始めた」、とまさに、神様のお働きがこの頃から臨みはじめたと書かれています。
 そして、ペリステ人のある女性が好きになり、その女性を妻にしたいと思うようになります。それもまた、神様のご計画でありました。そして、妻になることになっていた女性のところで、宴会をすることになりました。サムソンは、その席上で来ていた女性側の同族の客人に対して、なぞなぞ遊びをします。
 それは、「食べる者から食べ物が出た。強いものから甘いものがでた」というものでした。いったいこれは何のことを言っているのか、あてよというものでした。おそらく、誰一人としてこれの正解を言い当てる者など、いなかったと思います。つまり、このようななぞなぞは、当人しか知らないものだからです。それは、サムソンが、ライオンを倒して、そのライオンにミツバチがやってきて巣をつくり、たくさんの蜜ができて、それをサムソンがなめ、みやげに両親にも持っていったという出来事を体験し、そこから作られたものだったからです。そのようなことなど、誰も知るよしがありません。
 なぞなぞをあてたら、麻の衣30着、着替えの衣30着をやろう、そして、もし、解き明かせなかったなら、逆にそれらのものを差し出すようにというものでした。彼らは、妻になる女性に、あのなぞの意味を自分たちに教えるようにといい、もし、それをしなかったら、火を放って、あなたたちを家族もろとも焼き殺してやる、とおどしをかけたのでした。彼女は、しつこくサムソンにせがみ、7日目にサムソンは、彼女になぞの意味を教えました。
 なぞはとかれました。その直後のことを聖書はこのように述べています。「そのとき、主の霊が激しく彼にくだり、彼はアシュケロンにくだって、そこで30人を打ち殺し、かれらの衣をはぎとって、着替えの衣とし、なぞを解いた者たちに与えた」と。明らかに、やりすぎです。しばらくして、妻のところへやってくると、その父親は、サムソンがこの女性を嫌いになったと思い、あなたの友に嫁がせた、と言いました。そして、彼女の妹を妻にしてほしいと言ったのでした。
 そこでサムソンは腹を立て、ジャッカルという犬ような動物ですが、それを300匹捕え、二匹の尾を結び合わせ、その間に松明をつけ、それらをペリシテ人の麦畑、ブドウ畑、オリーブ畑に放って、畑を燃やすということをしました。それで今度は、それに怒ったペリシテ人たちが、イスラエルの人々のことろにやってきて、サムソンを差し出すように言いました。イスラエルの人々は、サムソンに何ということをしたのか、自分たちが、今、ペリシテ人の支配下にあることを理解していないのかと迫り、それを聞いたサムソンは、自分を縛って彼らに差し出すように、言いました。
 ペリシテ人は、自分たちの領地にサムソンを捕縛して連れ帰りました。そのとき、主の霊が激しく彼に降り、腕を縛っていた縄は、火がついて燃える亜麻の糸のようになり、縄目は解けて彼の手から落ちた」とあります。このように神様の御働きが随所にありました。
 そして、サムソンは、そこにあった真新しいろばのあご骨を見つけ、それを手にとり、千人を撃ち殺しました。その直後、彼は喉がかわき、「今、わたしは喉が渇いて死にそうで、無割礼の者たちの手に落ちようとしています」というと、神様は、くぼんだ地を裂き、そこから水が湧き出るようにされました。そして、その水を飲んで、元気を取り戻し、生き返ったとあります。神様は、確かに、サムソンと共におられました。
 それから、今日お読みいただいた話になります。サムソンは、今度は、デリラというペリシテ人の女性を好きなります。彼女のところへ、ペリシテ人の領主たちがやってきて、サムソンの力の源を探って、教えてくれるようにとの依頼です。彼ら願いにきた一人一人の領主が、デリラに、そのことを教えてくれたら、銀1100枚を渡すと約束しました。
 しかし、そう簡単には、サムソンは、デリラにも、真実を教えることはありませんでした。彼は、幾度もデリラにうそを教えました。しかし、彼女が、来る日も来る日も、「あなたの心はわたしにはないのに、どうしてお前を愛しているなどと言えるのですか。もう三回もあなたはわたしを侮り、怪力がどこに潜んでいるのか教えてくださらなかった」と言って、しつこく迫ったので、それに耐え切れず、死にそうになって、ついに心の中を一切打ち明けたのでした。
 死にそうになって、これは夫婦である方々には、わかる人にはわかるでしょう。サムソンは、自分は、ナジル人として神にささげられているので、頭にかみそりを当てたことがない。もし髪の毛をそられたら、わたしの力は抜けて、わたしは弱くなり、並みの人間のようになってしまう」と言ったのでした。
 そうして、彼は、捕えられ、目をえぐられ、牢獄に入れられ、そこで、粉引きをさせられるという苦しい目にあわされます。自分の力の源を打ち明けることは、神様への裏切り行為でありました。それゆえ、そのとき、神様は彼を離れられたとあります。しかし、敵の祭りのとき、見世物として引き出されたサムソンは、「わたしの神なる主よ。私を思い起してください。神よ、今一度だけわたしに力を与え、ペリシテ人に対してわたしの二つの目の復讐を一気にさせてください」と祈りました。
 それに神様は応えられ、最後に、「わたしの命はペリシテ人と共に絶えればよい」と言って、建物を支えていた柱を倒すことで、建物全体が崩れ、そこにいたペリシテ人たちの多くが死にました。聖書は述べます。「彼がその死をもって殺した者は、生きている間に殺した者たちより多かった」と。
 神様は、いろいろな方法を用いられて、こ計画を成し遂げようとされます。このときには、支配抑圧されていたイスラエルが、ペリステ人から解放されるために、サムソンを用いようとなさいました。聖書というのは、道徳倫理の書物という捉え方もできますが、しかし、一番は、信仰の書であるということです。信仰をもった者が書いております。
 その信仰は、神様との関係によって与えられたものですから、聖霊の導きによって書かれたのだという見方ができるのです。ですから、道徳倫理的に、理解しようとすれば、間違いを犯すことになります。もし、サムソンのやったことを道徳倫理的に考えるならば、この人物はめちゃくちゃな人間だということになります。この男は、短気であり、怒りに早く、復讐心が強く、平気で嘘をつき、好色であり、それでありながら女性に弱く、乱暴者であり、殺人鬼であり、と、まあ、このように表現することもできるでしょう。
 しかし、信仰の目でみるとき、こうなるわけです。サムソンは、神様によって定められたナジル人であった。神様に献げられた聖なる人間であった。神様が救おうとされたイスラエルのために、彼は一人でペリシテ人を相手にし、戦い、死をもって、敵に大きな打撃を与えた。彼は、強力であり、粗野であり、好色で、女性に弱い人間であったが、しかし、ナジル人であり、神様により頼むものであった。そして、それらは、すべて、神様のご計画であって、そのようにサムソンは用いられたのであった。
 ただし、これは、注意を要します。つまり、ある人々が行っている自爆テロの理屈となる危険性があるということです。自爆テロをした人々は、このように英雄視されている可能性があります。しかし、もし、神様が働いていないのであれば、ただの復讐心に燃えた、平気で嘘をつく、ナショナリズムに毒された殺人鬼であった、というだけの話しになります。これは、すべての宗教に共通するもので、宗教が、最も、危険になり、暴走するときの理屈として、用いられかねません。
 わたしたちが、戦争をするとき、それぞれに正義というものをかざして、行います。しかし、それは、双方の見方や言い分があるのです。どちらにも、本当の正義はないことも多いでしょう。明らかに、こちらが一方的に悪い、そういう場合も、もちろんあります。サムソンのやったことは、当然やりすぎでしょう。
 しかし、聖書はこのようなやり方をとおして、神様はサムソンを用いられたと述べているのです。イスラエルを解放しようとされたのです。正義なるものは、人間の側にはありません。それは、神様だけが持ちうるものではないでしょうか。神様の正義がなるようにと、わたしたちは祈るしかありません。
 サムソンのお話しは、第一には、神様の御心を読み取ることの大切さを教えられます。神様にとって、どのような人物も選びの対象にあることを教えらえます。いかなる人間も、今、ここで働いておられる聖霊のお力によって、突き動かされているに過ぎないということです。自分で何かを成しえようなどと、それはとても不遜なこともわかります。
 わたしたちは、ただ、神様に私をあなたのご用のために、お遣わしくださいと言いうるのみです。今ここで生きて働かれる神様、聖霊のお力が、わたしたちを突き動かし、導いてくださいます。


平良師

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