平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2012年6月11日 傾聴の祈り

2012-08-12 00:09:01 | 2012年
サムエル記上3章1~18節
傾聴の祈り


 先週は、ハンナの祈りについて学びました。ハンナは、心からの願いを注ぎ出す祈りをしました。夫を同じくするペニナから、子供がいないことで、いろいろとつらいことを言われて、苦しく胸が塞がれていました。夫すらもそうしたハンナの心の深い傷を理解することはできませんでした。
 ハンナは、神様に、苛立ちや怒りさえもぶつける率直な祈りをしました。彼女はつらく、悲しく、苦しかったのです。そして、もし、男の子を授けてくださるならば、その子をナジル人として聖別し、神様のご用のためにお献げしますと祈ったのでした。
 神様は、その祈りを聞いてくださいました。そして、生まれたのがサムエル(その名は神、あるいは、願いを叶えてくださる神)でした。祈りには、大きく、私たちの側から神様に願い求める祈りと、神様の側から、私たちに向けて語りかけられる御声に耳を傾ける祈りがあります。今日のお話は、後者です。
 サムエルは、ある夜、契約の箱が安置されている神殿に寝ていました。まだ神のともし火は消えておらず、とありますから、その契約の箱が安置されている神殿の灯明の番を少年サムエルはしていたと考えられます。サムエルが寝ていたとき、彼は「サムエルよ」と何者かに呼ばれました。サムエルは、師匠である祭司エリが、自分を呼んだものと思い、すぐにエリのもとに走っていき、「お呼びになったので参りました」と言いました。
 しかし、エリは、それは自分ではないといって、サムエルを返しました。そして、また元の場所に戻って寝ておりました。そうしましたら、再びサムエルを呼ぶ声が聞こえました。そのようなことが、三度続けて起こりました。祭司エリは、自分ではないとサムエルに言いましたが、それが、おそらくこれまでの経験があったからでしょう、神様であると悟りました。
 それで、もしまた呼びかけられたら、「主よ、お話しください。僕は聞いております」と答えるように、伝えたのでした。そうしましたら、またもや同じように「サムエルよ」と呼ぶ声がするので、彼は、「どうぞお話しください。僕は聞いております」と答えました。その内容は、「エリの家に告げたことをすべて、初めから終わりまでエリに対して行う」というものでした。
 それは、「息子たちが神を汚す行為をしていると知っていながら、とがめなかった罪のために、エリの家をとこしえに裁く」というもので、「エリの家の罪は、いけにえによっても、献げ物によってもとこしえに贖われることはない」という厳しいものでした。
 しかし、実際は、2章の22節からのところにありますように、「息子たちがイスラエルの人々すべてに対して行っていることの一部始終、それに、臨在の幕屋の入口で仕えている女たちとたびたび床を共にしていることも耳にして、彼らを諭した」、とあります。
 そのときエリは息子たちにこう言いました。「なぜ、そのようなことをするのだ。わたしはこの民のすべての者から、お前たちについて悪いうわさを聞かされている。息子らよ、それはいけない。主の民が触れ回り、私の耳にも入ったうわさはよくない。人が人に罪を犯しても、神が間に立ってくださる。だが、人が、主に罪を犯したら、誰が執り成してくれよう」。
 ところが、彼らは、父親の言うことに耳を貸そうとはしませんでした。エリは、彼らを諭しはしましたが、何かの罰を加えるとかいった厳しい態度で臨むことはありませんでした。そのような甘い父親を見抜いているかのように、息子たちは、エリの戒めを無視し、罪を重ねていきました。彼らは、神殿に来て、供え物をする人々が持ってきた肉を、この祭司であった二人の息子たちは横領していたのでした。
 2章の29節「あなたはなぜ、わたしが命じたいけにえと献げ物をわたしの住む所でないがしろにするのか。なぜ、自分の息子を私よりも大事にして、わたしの民イスラエルが供えるすべての献げ物の中から最上のものを取って、自分たちの私腹を肥やすのか」と言われています。それに加えて、そこに仕えていた女性たちとの悪しき関係がありました。
 その二つのことは、神様に対する甚だしい罪であった、と記されてあります。しかし、そのような彼らを父親のエリは、どうすることもできませんでした。そこには、父親の息子たちに対する甘さが、あったのは否めませんでした。神様を畏れる思い、神様を愛し、誠心誠意神様に仕えるという点において、誠実ではありませんでした。神様は、そのエリの態度をお赦しにはならなかったのです。卑しくも、二人の息子は、神様に仕える祭司でありました。
 サムエルは、このお告げをエリに伝えるのを恐れました。それはエリにとって、ショックであり、絶望的なことだったので、それを告げたときのエリの出方を恐れたのでしょう。エリがひどく落胆するか、あるいは、そんなことがあるものかと激怒する可能性もなきにしもあらずであったでしょう。
 サムエルは、エリに話すのを躊躇しておりました。そうしましたら、エリの方から、「お前に何が語られたのか。わたしに隠してはいけない。お前に語られた言葉を一つでも隠すなら、神が幾重にもお前を罰してくださるように」と迫ったのでした。それで、サムエルは、エリに、すべてのことを包み隠さず話しました。
 エリは、そのとき言いました。「それを話されたのは主だ。主が御目にかなうとおりに行われるように」。サムエルは、それまでにも、御使いから息子たちが神様に背いて歩んでいることについては忠告を受けておりましたし、さすがにこの時点では、神様の裁きを当然のことと考えたようです。エリは、神様のなさるすべての裁きに従う用意があることを告白しました。エリは、このとき、サムエルの言葉をそれはお前の聞き間違いだとか、無視するとかいった対応の仕方で返すのではなく、告げられた言葉を受け入れることをしました。
 エリは、父親としては息子たちをびしっと叱ることのできない甘い父親だったかもしれませんが、しかし、そうはいいながらも、一方においては、サムエルを指導してきた先生であったことは間違いありません。エリは、神様からの厳しい御告げを、神様からのものとして、しっかりと受け取っていくことを致しました。
 ところで、皆さんは、神様の呼びかける声を聞いたことがありますか。実際に聞いたという方はほとんどおりません。しかし、朝早くに起きて、聖書を読み、黙想をするなどして、聞こうと努力はしているでしょうか。実際に神様の声が聞こえることはありませんが、ただし、心を静めるとき、何となく、御言葉の中にある真理を新しい気持ちで捉えられることはできます。イエス様が、朝早くに、静かなところに行って祈っておられたという記事が聖書には幾度か出てまいりますが、静まって父なる神様の御心に耳を傾けておられたのではないでしょうか。
 私たちが、この神様の御声に耳を傾ける祈り、傾聴の祈りをするのは、いったいいつでしょうか。それは、自分で定めている黙想の時以外では、人生の道に迷ったときとか、自分の進もうとしていた道が塞がれたときではないでしょうか。そのときに、神様は、私たちにどちらの道を進んだらいいのか、また、これからなすべきことを教えてくださるのであります。
 サムエルの場合は、エリが聞くべき言葉を、神様はサムエルに託されたのでした。それは神様が、エリに直接、御使いを通して話されたにもかかわらず、神様の御心を行おうとしないエリを裁かれるためでした。
 私たちは、祈りの中に、神様の御声を聞こうとする祈り、神様の御旨を知ろうとする祈りがあることがわかります。「どうぞお話しください。僕は聞いております」。僕は、聞いております。これが大事な姿勢です。
 私たちの祈りは、どちらかというと、ほとんど私の話しを神様聞いてください、私の祈りにどうぞ、耳を傾けてください、私の願い求めることに応えてください、そのような祈りです。多くの人々が、多くの場合においてそうです。
 しかし、イエス様の祈りは、ご自身の願いの多くは、それは私たちのことを父なる神様にとりなすお祈りであられましたが、同時に、神様の御心を求める祈りでもありました。ゲッセマネの園でされた祈りでは、「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」とご自身のご希望を述べられたあと、しかし、最後には、「わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と付け加えられました。
 このとき、イエス様は、悲しみもだえて、祈られました。まさに、心からの願い、思いを注ぎ出すような祈りであられました。イエス様の祈りに注目するときに、祈りは、実に孤独なものなのだと知らされます。
 祈りを合わせるといいますが、このゲッセマネの園におけるイエス様の祈りに、弟子たちの誰ひとりとして、思いを合わせることができなかったのです。イエス様は、苦しみのなかをたった一人で祈らざるをえませんでした。私たちの祈りもまた、真実には、神様と私の一対一の祈りという孤独な祈りの形しか、最後には残らないのかもしれません。
 もちろん、教会の祈り、教会の者たちが思いを一つにしてする祈りによって、神様が私たちの願いをかなえてくださること、御心を変えてくださることもあることを私たちは知っています。
 さて、傾聴の祈り、それは、具体的には、黙想という形で、その機会をうることができます。静まって、神様、どうぞ、私にお語りください、と祈ります。もう一つは、神様は事柄をとおして、私たちに何かをお語りになっていることがあります。今、起こっていることの意味を考えてみます。
 そうすると、何か、神様が今の自分のありようを顧みるようにと言われているかもしれません。起こっているできごとを神様との関係において、見つめなおすのです。また、ときには、聖書の御言葉をもって、神様の御心を示そうとされているかもしれません。祈りつつ、聖書を開き、御言葉に触れ、また祈るのです。
 しかし、祈りにおいてもやはり、私たちはイエス様の姿勢に学ばねばなりません。イエス様のなさっておられる祈りの姿に学ばねばなりません。イエス様のようにすることです。祈りにおいてもまた、イエス様が見本を示されておられます。イエス様が、父なる神様に対してなさった祈りの姿に学ばねばなりません。
 そういった意味では、イエス様が教えてくださった主の祈り以上のものはないに違いありません。そのなかで、御心が天において行われるように、地においても行われますように、というのは、傾聴の祈りといっていいでしょう。
 イエス様は、あるとき、天の父は、あなたがたが祈る前から、あなたがたの必要なものはご存知である、と言われました。つまり、神様は、私たちが祈る前から、私たちが必要としているものを既に知っておられるということです。そうであるならば、私たちは、自分の願いを祈ることに力を入れるよりは、神様が、今、私に何をしなさいといわれているのか、それを知ることに耳を傾けて祈り求めた方がいいのではないでしょうか。神様の御声に耳を傾ける、そのような祈りの生活にもっと力を入れてまいりたいものです。
 私たちは、今、大名でのヴィジョンを与えられています。何をなすべきか、神様教えてください、何をすることが、神様が一番喜んでくださることでしょうか、どうぞ、教えてください。神様、私たちの働き人はさほどに多くありません。どのようなことに力を集中していったらいいのでしょうか、教えてください。このような祈りもまた、傾聴の祈りです。そして、今、私たちに必要な祈りです。
 私たちの人生を神様が照らし出し、これから進むべき道をお示しになられます。私たちは、静まって、神様の御声に耳を傾けましょう。「お話しください。僕は、聞いております」。


平良師

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