平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2012年7月1日 真の友・神の介在

2012-08-19 00:18:26 | 2012年
サムエル記上20章23節
真の友・神の介在


 サウルは、いくつかの戦いにおいて神様の言いつけに背きました。すべてを滅ぼし尽くし、戦利品を得るようなことをしてはならないと言われていたにもかかわらず、そうしなかったのです。値打ちのない品々はそのようにしましたが、上等なものは惜しんで持ち帰りました。それは、神様の怒りに触れることになりました。
 それで、神様は、彼から離れられ、ダビデを油注がれる者、次の王としてお立てになりました。しかし、サウルは、神様から王位剥奪の宣言を受けたにもかかわらず、その地位に固執しました。油注がれたダビデでしたが、すぐに王になったのではありません。はじめは、サウル王の心を慰めるために竪琴弾きとして召し抱えられました。
 神様に背いたあたりから、サウルは、ときどき憂鬱になることがありました。その彼の気持ちを少年ダビデの竪琴が癒したのでした。そうこうするうちに、ダビデは、兄たちのいる戦場に父のいいつけで赴くことになり、そこで、あのゴリアトと一騎打ちをすることになりました。そして、彼を倒してからは、一躍ダビデの名は有名となりました。ところが、彼が赴く戦いで、ダビデは、いつも勝利して、武勲を立てるのでした。
 「主は彼と共におられ、彼はどの戦いにおいても勝利を収めた」とあります。その名声は広くイスラエルの人々に知れ渡るところとなり、次第に、サウル王よりもダビデの人気の方が高くなっていったのでした。サウルは、自分の地位を脅かす存在となったダビデを殺害しようとします。サウルは、武勲を次々とたてるダビデに嫉妬し、敵意を抱くようになっておりました。そのダビデの親友がまさにサウルの息子ヨナタンでした。
 18章のはじめには、双方に友情が芽生えたときのようすが書かれています。「ダビデがサウルと話し終えたとき、ヨナタンの魂はダビデの魂に結びつき、ヨナタンは自分のようにダビデを愛した。サウルはその日、ダビデを召し抱え、父の家に帰ることを許さなかった。ヨナタンは、ダビデを自分のように愛し、彼と契約を結び、着ていた上着を脱いで与え、また自分の装束を剣、弓、帯に至るまで与えた」とあります。
 王サウルは、ゆくゆくは息子ヨナタンを自分の後継者として王位につけようと考えていました。しかし、ダビデとヨナタンは、会った時から親友となりました。それで、ダビデの殺害を図る父サウルのことで、ヨナタンは悩みます。ヨナタンは、神様を畏れる信仰の篤い人でした。ダビデもまた、神様を畏れる者でした。
 ヨナタンはダビデの家と契約を結んだとき、次のように述べています。「わたしとあなたが取り決めたこの事については、主がとこしえにわたしとあなたの間におられる」(サムエル記上20:23)。ダビデとヨナタンは、先に友情が芽生えましたが、それを真実にしたのは、神様の介在があり、そのことを二人が強く意識したことにあったと言えるでしょう。
 20章の31節で、サウルは言っています。「エッサイの子(ダビデのこと)がこの地上に生きている限り、お前もお前の王権も確かではないのだ。すぐに人をやってダビデを捕えて来させよ。彼は死なねばならない」。ヨナタンにとって、父親の言っていることにも一理あったに違いありません。しかし、ヨナタンが、王位を望んでいたかというと、彼は、ダビデが王になるべき者であることを知っていました。
 今日の箇所から読み取りたいことは、ヨナタンとダビデの間の友情について、そして、その二人の間の友情を確かなものとしたのは、神様であり、そして、その神様の介在を二人が意識していたことにあるということなのです。ここでは、友情ですが、それは、愛情ともつながります。双方が、神様を意識するところに芽生える愛情は、真実なものとなりえます。
 それでは、友情、友、それにかかわる愛情ということで、イエス様は何と言われているでしょうか。イエス・キリストは、ヨハネによる福音書15章で「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」と言われました。そして、その命令の中心は何であったかと言いますと「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」と書かれています。
 イエス様もまた私たちの友として、人と人との関係の只中におられます。それぞれの関係の只中におられます。それを私たちが意識しているならば、友情や愛情は確かなものとなるでしょう。そして、イエス様が私たちに命令していることは、互いに愛し合いなさい、ということです。「そして、友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言われ、まさに、イエス様がそのようになさってくださったのでした。
 ところで、皆さんには、親友と呼ぶに値する友人がおられると思います。それは、どんなときにも私の味方になってくれる人、そういう言い方ができるでしょう。しかし、一方が裏切る行為をすれば、親友ではなくなるのではないでしょうか。これが人間関係の限界です。
 イエス様は、「友のために自分の命を捨てること、これ以上の愛はない」と言われました。イエス・キリストの十字架は、まさに、そのことを成してくださった出来事でした。ローマの信徒への手紙5章の8節には、「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」とあります。
 私たちが、「まだ罪人であったとき」とは、まだ神様に背いて生きていたときに、まだ悔い改めることなどしていないときに、つまり、一方的にそうなさってくださいました。イエス様は、私たちの命のために、自らの命を捨てられました。イエス様は、十字架にかかられる前、すべてのことを語られた後に、「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」と言われました。友と呼ぶ、とそうおっしゃってくださいました。
 そして、「あなたがたが、わたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」と言われました。私たちは、イエス様から、イエス様の友として、選ばれている存在でもあります。そして、私たちのために命を捨てられたこのお方こそ、真の友であると言えるでしょう。
 最近、ある学校の聖書の学び会で、放蕩息子のたとえ話しについて、お話をさせていただく機会を得たのですが、その準備のために、聖書のその箇所を読み返しておりましたら、理解していたことでしたけれど、この放蕩息子の父親は、何と愛情の深いお方だろうとつくづくと思わされました。
 そして、この箇所で無条件の神様の深くゆるぎない愛について、そして、十字架で死なれた真の友でいらっしゃいますイエス様の御姿についても、少しだけですが、感じ取ることができました。というのも、この放蕩息子のたとえ話には、十字架のイエス様の御姿は描かれていないというのが専らの見解だからです。この放蕩息子のたとえ話しは、非常に有名ですから、今日はじめて教会という所に来られたという方もおられると思いますので、かいつまんで話しのあらましをお話したいと思います。
 あるところに二人の息子を持っている父親がおりました。この父親は神様です。弟息子の方が、父親の財産で自分に権利がある部分について早々とその財産分与を願い出ました。それは、父の家を後にして、おそらく、その段階では父親を捨てる、父親と縁を切るくらいの気持ちであったと思われます。彼に具体的な夢があったのではなく、ただ自由に生きたかった、何かしらないけれども自己実現を計りたかった、何一つ不自由のない生活であったけれども、おもしろくない、楽しいことがしたい、その動機については他にもいろいろと考えられますが、聖書にはこの弟息子は、遠い国に旅立ったとだけあります。
 そのことは、神様に背き、父親から遠く離れてしまい罪を犯していく人間の姿を現しています。神様は人が自らの意志で神様を愛し、神様に従ってくることを願っておられます。ですから、人間が、罪に陥っていくときも、それもまた本人の自由にしてくださるのです。そして、人間は、神様から離れてしまうことにより、具体的な罪を犯していくことになります。
 弟息子も行った先のおそらく異邦人の社会で放蕩の限りを彼は尽くし、身をもち崩してしまいます。そして、その地方で飢饉があり、彼は食べることにもこと欠くことになりました。そのとき、ある人のところに身を寄せたところ、ユダヤ人であれば、決して拒否したであろう豚の世話などというものをさせられることになり、彼はそれを引き受けます。
 ユダヤ人にとっては、豚は汚れた動物でしたし、その肉を食べるなど拷問でしかありませんでした。現に、紀元前2世紀頃のユダヤ社会を迫害した他国の為政者により、ユダヤ人たちはたいへんな目に遭わせられましたが、そのとき拷問の一つに豚の肉を食べさせるというものがありました。それを拒否して、殉教の死を遂げた人々は少なくありませんでした。
 しかし、この放蕩息子には、豚の世話をするなどといったことを拒否するまでのユダヤ人としての誇りも、信仰心もなかったのです。しかも、彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも飢えを凌ぎたかったとあります。そして、残念ながら、彼のいた異邦人の世界にはそういう彼のことを理解し、助けてくれる者は誰もおりませんでした。
 そして、おそらく、彼が飛び出た父親のいた村の共同体に知れわたれば、彼のやった所業は、とても許されざる恥知らずの行為ということになったでしょう。ある者たちは、彼のような存在を許すと、まかり間違えば、自分の子供たちもそうなりかねないと考える者まで、いたかもしれません。そのような彼が、村に帰ってくるなどとんでもないと思った村人たちは少なからずいたのではないでしょうか。
 その彼が、このままでは自分は死んでしまう、と思いました。そして、自己保身というのが、その動機としては正しいところだったと思いますが、父親の所へ帰ろうと考えます。彼は、父の家を思い出しました。父の家には、雇い人にすらあれほどのパンがあった、それなのに今ここで自分は飢え死にしそうになっている、そうだ、自分もまた、その雇い人の一人としての扱いでいいから、受け入れてもらえないだろうかと思ったのです。帰るにあたり、彼は、いろいろと言い訳の言葉を考えます。
 「お父さん、わたしは天に対してもお父様に対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」。その言葉を用意して帰っていったところ、「まだ、遠くに離れたいたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」のでした。当時は、成人した男性が走ることはあまりなかったと言われます。足を見せるということは非常にはしたないことであったようです。
 それで、長い服を着て足もあまり見せないようにして歩くことが美徳とされていたという一説があります。しかし、このとき、父親は、走っていって彼を迎えました。放蕩息子が、まだ反省の言葉の一言も言わない先に父親は、まだ遠く離れている彼のところへ走っていって、首を抱き、接吻して迎えたのでした。
 このたとえ話の中の父親というのは、神様ですから、ここには、ただ、父親のところへ帰ってきたというだけでいいのか、との問いがわいてくるのではないでしょうか。聖書を読む限りは、彼が一言も反省の言葉など発しない前に、父親は、彼を迎え入れているのです。戻ってきたというだけで、いいのでしょうか。
 聖書には、「まだ、遠く離れていたのに」とあります。まだ、十分に何が悪かったのか、何が問題だったのか、何が罪だったのか、十分なる反省、悔い改めは、できていなかったかもしれないが、それでも、神様の方に向き直った、神様の方に向かって歩みはじめた、それで、十分だ、神様は、両手を広げて待っていた、彼が帰ってくるのを待っていた、その彼を喜ばれる、そう言っているのです。
 しかも、この父親が、走って行って、彼を迎え入れたのは、村の人々の悪意や殺意から彼を守ろうとしたとも取れないことはありません。父親がまずこの放蕩息子を赦しているのだという、認識を村人たちに与える必要があったでしょう。ここには、十字架についてまで罪ある私たちを救おうをされたイエス様の御姿をかいまみる思いがするのです。
 そして、そうやって迎え入れた放蕩息子を、父親は以前と同じように、自分の息子として待遇するのでした。それから、超えた子牛を屠り、お祝いをしました。その喜びがどのようなものであったかが、次のように述べられています。「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」。
 聖書は、罪とは、神様に背いて生きることだと教えています。それは、神様を認めようとしないこと、神様の愛を信じようとしないこと、神様を信じない自己本位なわがままな生き方を言います。しかし、そのような自分に気づき、少しでも神様の方に向き直って、神様のところへ戻ろうとするなら、その気持ちが十分なものでなくても、それでよいと神様は言ってくださいます。神様から遠く離れていることは、神様のもとから失われたこと命を失っていること、死んでいるのも同じだと言われます。それが、戻ってきた、生き返った、いなくなっていたのに見つかった、それほどの大きな喜びが天にはあります。
 このお方の愛に触れるときに、私たち人間同士の友情や愛情もゆるぎないものとなります。神様が、それほどに私たちのことを愛してくださっている、赦してくださっている、無条件に受け入れてくださっている、そのことを知ることは、他者へもまた、私たちが同じようにできる根拠となります。
 イエス様は、だから、互いに愛し合いなさいと言われるのです。イエス様が、見本を示しておられます。できるならば、私たちもまた、互いに愛す、できれば、相手がどうであろうと一方的に愛す、受け入れる、親が子供を無条件で愛するように、ダビデを自分を愛するように愛したヨナタン、それはダビデも同じことだったでしょうが、この二人は、こうした神様の愛情を知っていた、すでに触れていた、支えられていたのではないでしょうか。このときを生きているわたしたちもまた、そういうことは言えるのです。
 友人、家族、そして、この教会という神の家族、あるいは、まったくの他人であったとしても、自分のようにその人を愛するという行為をなすならば、その人もまた、友となるわけです。真の友情が生まれるのです。神様の愛を知ることが、真の友なるイエス・キリストを知ることが、私たち人間が、互いに真の友となることを教えてくれます。


平良師

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