平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2012年6月17日 この世の支配と神の支配

2012-08-17 23:48:06 | 2012年
サムエル記上8章1~22節
この世の支配と神の支配


 サムエルも祭司エリと同じで、イスラエルのために裁きを行う者として、自分の息子たちを任命しました。士師としてだったのか祭司としてだったのか、そこらはどういうことだったのか細かなところは、わかりませんが、サムエルは、息子たちをベエル・シェバにおける指導者として司らせたのでした。
 ところが、この息子たちもまた、エリの息子たち同様、不正な利益を求め、賄賂を取って裁きを曲げることをしました。裁き司である者が、そのようなことをすれば、正義は行われず、社会は混乱し、どうしようもないことになってしまいます。
 そのような中で、イスラエルの長老たちが全員集まり、ラマにいるサムエルのところに来て、彼に申し入れを致しました。「あなたは既に年を取られ、息子たちはあなたの道を歩んでいません。今こそ、ほかのすべての国々のように、我々のために裁きを行う王を立ててください」ということでした。今こそ、というのは、その期を考えていたということです。
 裁きを行う王を与えよという申し入れは、サムエルには、悪と映ったとあります。その理由は、そのあとの神様の言葉で明らかとなっています。つまり、それは、「彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ」ということでした。神様は、続けて、このようにお語りになりました。「彼らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、彼らのすることと言えば、わたしを捨てて、他の神々に仕えることだった」。
 私たちの人生もトータルとして、このように言われないようにしたいものです。しかし、サムエル自身は、自分の息子たちの所業ゆえに、エルサレムの長老たちが、判断したことでしたから、さほどに強くも、彼らの主張に対して、怒りを露にすることもできなかったことでしょう。
 エリもそうであり、サムエルもそうですが、世襲制を彼らは行おうとしたのですが、それまでの士師というものは、その都度、人々から任命されたり、神様の選びの中でなされたということでしたから、このような世襲制は、よいものとしては、描かれていないと思われます。ただし、このあと、王制に移行することになりますから、それは、イスラエルの人々が選び取っていく制度でありますから、これもまた、よくない道を選択していくことになるのでした。
 問題は王制です。神様は、明らかに王制をしくことは、ご自分を退けて、この世の人間を自分の代わりに据えるのと同じである、と言われました。これは、まさしくそのとおりで、歴史的に見るならば、自分が人間であるという立場を捨てて、自分は神であると豪語した人間の何と多くいることでしょう。そのような人物は、今もあとを断ちません。ローマ帝国の皇帝もそうでした。日本の天皇も戦時中はそのような扱いを受けていたわけであります。
 神様は、人々が罪に陥るときに、それを力づくで、阻止されるようなことはなさいません。神様を裏切るときも、神様から遠く離れてしまうときも、神様は、そうやって罪に陥っていく人間の思うままに、自由にされるのです。神様は、自らの意志で、神様を愛し、神様に従うことを望まれるのです。この場合も神様はサムエルにこう伝えています。「民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい」。「今は、彼らの声に従いなさい」。
 しかし、神様は、冷たいお方ではありません。王制を取り入れるということが、いったいどういうことになるのかをしっかりと教えておきなさい、と告げられました。「ただし、彼らにはっきり警告し、彼らの上に君臨する王の権能を教えておきなさい」。
 そこで、サムエルは、神様から言われたとおりのことをイスラエルの人々に告げました。その内容は、あなたの息子たちは兵士として徴用される、王のために田畑を耕作させられたり、武器などを作らされたりする。娘たちは、香料や料理をするため、パンを焼くために使われる、それから、あなたたちの最上の畑や、ぶどう畑、オリーブ畑が没収されて、家臣に与えらえる、それだけはなく、穀物とぶどうの十分の一、羊の十分の一を徴用される、つまり、これらは、税金ということでしょうか。また、奴隷や若者たち、ろばもまた、王のために働かされる、というものでした。
 そして、このように結んでいます。「こうして、あなたたちは王の奴隷となる。その日あなたたちは、自分が選んだ王のゆえに、泣き叫ぶ。しかし、主はその日、あなたたちに答えてくださらない」。ここまで、言われるとイスラエルの民も王制を取り入れることを躊躇するだろう、と想像します。
 王をいただくことでいい事は何一つないといった感じがするからです。ひどいことになる、苦しい生活が始まる、一気に不幸が訪れる、個々人の幸せな生活が壊される、とにかく、何一ついいことはないのです。ところが、彼らは、サムエルに言いました。「いいえ、我々にはどうしても王が必要なのです。我々もまた、他のすべての国民と同じようになり、王が裁きを行い、王が陣頭に立って進み、我々の戦いをたたかうのです」。
 イスラエルの人々の願いは、戦いに勝利するということでした。イスラエルは、もともと遊牧民でしたが、カナンの地に定着するようになり、周辺諸国との境界線をめぐる争い、また、あるときには他国の土地の侵入などで、苦しめられました。
 彼らは、その都度、強い国、強い軍隊を持つ国家を願いました。周辺諸国の国々は、ほとんどが王制をしいておりました。王制になれば、あのような強い国になって、他国の国々を逆に打ち負かし、領土を広げ、富を獲得できると考えたのでしょう。しかし、神様は、イスラエルをいろいろな形で助け守って来られました。そのことへの感謝と信頼がイスラエルには、いつも乏しく、逆に、真の神様を裏切り、周辺諸国の国々が拝んでいる偶像の神々を拝むことさえ、幾度もあったのでした。
 神様が、「彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ」とは、まさにそのとおりだったと言えるでしょう。
 神様が、王制を取り入れることになると、イスラエルの民は、どのような状況を強いられるようになるかを告げられたとき、人々は、それなら、王制をとることはしません、そのようなことになるなら、今のままがまだましです、否、今こそがよい状態だとわかりました、と、なぜ言えなかったのでしょうか。
 彼らにとって、目に見える脅威の方が、目に見えないお方への信頼に比べて、まさったということだったのでしょうか。
 おそらく、それだけはなかったのではないでしょうか。いくつかの打算があり、また、それによって利益を得るであろう人々がいて、また、そうした人々に扇動された民衆がいて、王制を取り入れることを進めていったとも考えられないことはありません。
 最近のことでは、原発の再稼動の問題です。40年先には、すべての原発を廃炉にするということらしいですが、その頃までに今の時代の政治家のいったいどれだけの人々が力を持ちえ、責任をとれるのでしょうか。これほどの大事故が起こり、その危険性とその被害の甚大なること、それにより、先祖伝来大切にしてきた土地や家屋が奪われて、一切の希望が断たれたという人々がおり、これから先、いかなる放射能の影響が人の、特に子供たちの体を蝕んでいくのか、見当もつかないという流れのなかで、日本国中の人々が、その恐ろしさと危険性を認識したはずの原発を、もう一度稼動させるということを選択していく政府や人々がいます。
 町の人々は、原発で収入を得ているので、これがなくなったら生活できないというので、再稼動に賛成。企業の経営者たちは、電気代があがると経営が成り立っていかない、といい、市民は、夏の暑い時期に電気が止まるようなことになれば、困る、もろもろの理由があるのでしょう。
 サムエルの時代も、せっかく築いた財産(家畜、奴隷など)、所有した土地を外敵の侵入によって奪われるのは何としてでも阻止したいという多くの長老たちがいたでしょう。王制になれば、大量の軍備を調達しなければならないから、そのときには、大いに儲けることにしよう、そういう人々もいたでしょう。
 毎日、食べることにも事欠く人々は、王制となり、王にどのような形であれ、徴用してもらって、生きていくことができるぞ、そう思った人々もいたはずです。そして、サムエルの息子たちの不正事件がありました。これは明らかにすきをつかれたことでした。これで、サムエルは、反論のトーンが鈍りました。サタン(私たちを滅びへ誘う大きな力)は、そういう弱みにつけいってきます。
 大義名分の裏に、人々のいろいろな思惑がうずまいていたはずであります。
 神様は、はっきりと、王制になれば、人々がどのような苦しい、つらい目に遭うかを教え諭されましたが、人々は、聞く耳を持ちえませんでした。「いいえ、我々にはどうしても王が必要なのです。我々もまた、他のすべての国民と同じようになり、王が裁きを行い、王が陣頭に立って進み、我々の戦いをたたかうのです」。王が陣頭に立って進み、我々の戦いをたたかう、それは幻想です。王は、背後の安全なところにいて、王の戦いを民衆が戦う、というのが歴史が私たちに教えているところです。
 神様は、私たちに実に正しいことをお教えになられました。王制をとればどうなるか、実に詳しく正確にお教えくださいました。ある意味では、今度の原発も、十分に私たちは、教えられたのです。それは、前の戦争における原爆投下で味わった歴史上、おそらく、日本だけが味わった悲惨な体験、これから先、日本のようなひどいことを体験する国が表れてはなりません。そして、今回の原発事故、神様は、どういうわけか、日本をとおして、その非人間的で、人間を確実に滅びへと向かわしめるものの存在を教えられたのです。
 にもかかわらず、再稼動という道を進もうというのです。
 神様は、「彼らにはっきり警告し、彼らの上に君臨する王の権能を教えておきなさい」と言われましたが、もう十分、そのことは伝えられました。神様は言われます。「彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ」と。
 私たち信仰者は、この世の支配と神様の支配の両方のはざまで、生きています。いろいろなことを教えられても「いいえ、我々にはどうしても王が必要なのです」とこの世の力に引っ張られていくこともたくさんあります。しかし、少なくとも次の言葉はあてはまらないのではありませんか。「我々もまた、他のすべての国民と同じようになり」たいのです。今は、脱原発の道を進む国が増えてきています。
 私たちが、この世で生きていくならば、これからも、いつもこの世の支配と神様の支配の中における葛藤が生じます。耳を澄ますならば、目をこらすならば、神様は私たちに多くを教え諭しておれることに気づくでしょう。その御声を聞きながらもなお「いいえ、我々にはどうしても王が必要なのです」というのか、「わかりました、それならば、今一度、思いとどまり、神様の忠告に従います」、と言うのかです。神様を王とする、神様の支配の中に生きていく、その選択を間違わないようにしていきましょう。
 王制により、その後、ダビデやソロモンという繁栄の時代もありましたが、それ以外は、苦しく厳しい、そして、ついには、国が滅び、多くの人々が捕囚として連れていかれ、みじまなこととなりました。もちろん、神様は、それで、すべてを終らせたのではなく、その後、イエス・キリストをこの世に、私たちの救いのために送ってくださいました。神様の私たちに注がれている愛が、尽きることはありません。
 しかし、私たちは、赦してくださるからと、その神様の愛にいつもいつも甘えてばかりでよいでしょうか。神様の警告の前に、私たちもまた、真剣にその御声に耳を傾け、神様の支配の中に生きることを選択しようではありませんか。自然もまた、私たち人間にその管理を神様から委ねられている存在として、その責任を果たすということもあるのです。

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