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迷歩録  げんどう

2016-12-20 08:59:57 | 日記
  塩水や  傷沁み如し  氷雨かな  会えない君を  想いや凍みる


 
                             ひのひら  ろくべえ




     「げんどう」とは言葉と行動である。人間のコミュニケーションにおける二大要素の役割を持つ

     この言動しだいで、他者の評価や信頼性が試されているのではないだろうか。言葉と行動は一致

     することが基本だろうが、技術的には意図して一致させない場合もある。特に相手から遠ざかろ

     うとする時、その言動は一致しない方向で組み立てられる。つまり言っていることと行動の乖離

     が大きいということになる。例えば「あなたに好意を持っています」と言葉で言われても、誘う

     ことなく日にちだけが過ぎ去っていく。あるいは他の理由をつけて忙しいとか、スケジュールが

     合わないなどその行動をとろうとしない時、本当にそうなのかと疑いを持つことになる。こうな

     ってしまえば、コミュニケーション自体が薄ぺらいものとなってしまい、そこにはなんの信頼関

     係も生まれない事となってしまう。(ちょつとまって)のように

      言動一致は理想ではあるが、なかなか難しい、不言実行とか、有言実行などの言葉があるよう

     に、その人間性が持つ言動一致というものは、周りの第三者が常に見ているということになる。

      それ故に理念は大切なのだが、それほどまでに考えた理念は少ないように思う、特に理念を実

     行する具体性に関しては整理されないままに漠然と理念を唱えていることも多いのではないだろ

     うか。

      昔このような理念を持つ病院で働いていたことがある。「患者さんに喜ばれる病院」という理

     念である。そのために何をどうするのかを訊くと、具体性は何もなく、研修なども表面的で、施

     設も、経営者の都合だけで工夫もなく、その理念をスタッフ誰もが実行する気もなく、外向きの

     アピール理念であった。組織的に言動不一致状態なのである。勿論患者さんも気づいてはいるの

     だが、日本の医療制度の中では病院を変えるということは容易な事ではない、仕方なしに入院を

     続けざる負えないということになっていることは多々あるのではないだろうか。

      特に精神医療、認知症医療関係の所では、本人たちの主張は無視されるに近い部分がある。そ

     のため、入院や治療を続けるために、病院や施設をたらいまわしされている患者さんも少なくな

     いのではないだろうか。そのようなことにならないように専門職として、精神保健福祉士が生ま

     れたのだが、この人たちも患者さん側に立って物事を進めるのではなく、病院、施設側に立って

     いるという噂も耳にする。本末転倒が起ているとも聞く。

      日本の精神医療は、遅れていると言われ久しい、この遅れを先進国のようにしていくためには

     地域学習や、国民理解を積極的に行わないと、誤解に基づいた偏見や差別はまだまだ深く浸透す

     るのではないだろうか。

      そのようなことにならないように、精神保健福祉士は先頭に立ち活動されることを願わずにはいら

     れない。その時に大切なのが、言動一致なのである。言動を一致させることに努力をすることで

     その苦労を肌で感じることができる国民は、精神保健福祉士対する信頼を増すことにもなろう。これ

     が対人援助全般の見本ともなれば社会的地位も向上するというということになるのではないだろうか。

      如何なる人にも解りやすく言動一致させることで理解を進めることが、すべての対人援助に必要な

     ことではないだろうか。またまた教育の場での体罰がマスコミで取りざたされている。体罰で強くし

     たかったと、当事者教員は言ってるそうだが、体罰で強くなるのであれば苦労はいらない、体罰では

     強さはできないことなど百も承知のはずの指導者が、このような言い訳すること自体が、言動不一致

     なのではないだろうか。いずれにしても「げんどう」はコミュニケーションの8割以上を占めている。

     このことを意識したコミュニケーションを行う事が、信頼という二文字に繋がるコミュニケーション

     であることには間違いないであろう。二者関係の中で意識して育み、そのことを集団へと拡大するこ

     とが望ましい訓練方法なのかもしれない。対人援助の中心的技術として獲得してほしいものである。