犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その10

2013-07-02 23:06:25 | 国家・政治・刑罰


 例えば、責任を持って引き受けた自己破産の件で、弁護士の力量がなく破産が認められなければ、現実問題として分割払いが必要になってくる。破産手続が進まない間に、多重債務の利息は膨れ上がる。また例えば、離婚調停の件で弁護士が拙い対応をすれば、現実に結果は正反対となる。これによって当事者の人生は全く変わり、取り返しがつかなくなる。

 長年の経験を積んだ弁護士は、「他人の人生など背負っていられない」と口を揃える。これは、骨の髄まで染み付いた実感であるとともに、既に他人の人生を背負っていることの証明でもある。責任を負う者は、切腹と打ち首の違いを瞬間的に悟るものである。利他的であり、献身であるという志の高さは、実務的な各論との齟齬をきたすのが通常である。

 これらの職務に比して、自動車運転過失致死罪の件においては、なぜか「他者の人生を背負っている」という感覚が生じない。ある人の人生を左右する重責へのプレッシャーが沸き起こらないということである。これは、人生という文法が無効になっていることの証明なのだと思う。既に人生は左右されてしまっており、論理の基準が異なっているということである。

 このような次元の違いを垣間見せられたとき、多くの弁護士は、自身が積み上げてきた経験を一瞬無効にされる感覚を味わうものだと思う。脳内の虚像の切り回しに追われているところに、紛れもない実像を突き付けられるに等しいからである。しかしながら、自分が左右できない他者の人生を前にするとき、人間の胃は痛くならない。夜もぐっすり眠れる。そして、自分の気持ちは誤魔化せる。

(フィクションです。続きます。)