犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その12

2013-07-05 22:34:31 | 国家・政治・刑罰

 過去の事件の文書ファイルを使い回すことの利点は、実際の仕事の細かい段取りが瞬時に把握できることである。時間との勝負の中でミスを犯さないためには、現実にミスをしなかった過去の流れに沿うことが最も確実である。かつては首っ引きであった刑事弁護マニュアルの本は、今ではほとんど使う機会がない。世の中のあらゆるマニュアルは、「習うより慣れろ」の諺の前には無力だと思う。言葉の意味は辞書が決めるものではなく、辞書を引きながら言葉を使うことはできない。

 裁判所に弁護人選任届を提出し、期日を決めて請書を出す。検察庁には証拠の謄写の申請をする。淡々と粛々と、私自身がシステムの中に組み込まれる。裁判所書記官も色々、検察事務官も色々である。立場と立場、肩書と肩書がぶつかり合う。そして、不意に触れる人の善意や悪意は、その瞬間の私の全人生を支配する力を持っている。人が労働の過程で心を病むか否かは、実に紙一重だと思う。この部分を心底から実感してしまうと、政治家や経済評論家の言葉は心に響かない。

 終了した自動車運転過失致死罪の件のファイルを見るたびに、被害者の名前が私の目に飛び込んで来る。私は加害者の弁護をして、被害者の命を踏みつけた。被害者の死を踏みつけた。実存の深淵を覗き込んだ瞬間、目の前の電話が鳴る。生活保護を受けている債務整理の依頼者からである。保護課の担当者から、まだ再就職が決まらないのかと辛辣な嫌味を言われ、もうどうしたらよいか分からないとのことだ。人一人の全人生が載った涙声に、私の無数の感情は単純化され、頭の中は強制的に整理される。

 好きで選んだこの仕事である。いつの間にか要領の良さばかり追求させられていると、物事を深く考えたいという本心が、私の中に必然的に沸き上がってくる。しかし、それと同時に、頭の中には数々の凝縮されたフレーズが浮かぶ。「仕事は遊びではない」。「職場は学校ではない」。「仕事をなめるな」。「そんなことはあなたに求められていない」。これらのフレーズは、いずれもかつて誰かにどこかで言われたものであるが、割り切れない複雑な思いとともに、自分の頭のどこかに貼り付いている。

(フィクションです。続きます。)