犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その11

2013-07-03 22:44:39 | 国家・政治・刑罰

 どのような組織や団体であっても、マスコミの報道だけを手がかりに外から眺めるのと、実際に内情を知ってみるのとでは、全く違った光景が広がる。私はこの業界を外からしか見られなかった頃には、弁護士という人種は本気で人権という宗教を信仰しているのだと考えていた。弁護士は誰しも本音で厳罰化を批判し、死刑廃止を目指し、取調べの可視化を叫ぶものだと思っていた。実際、マスコミで伝えられる弁護士の活動はそのようなものばかりだったからである。

 その後、この業界の内部に入った私は、信仰の誠実さとは対極的な空気に思わずうろたえた。同時に、人間の汚い部分や腹黒さを具体的に知らされ、人間の野心や欲望の底深さも思い知らされた。人権という神は、白を黒と言いくるめるところに出現し、黒を白と言いくるめるところにも出現する。口八丁手八丁でいつの間にかその場の論理を支配し、詭弁と屁理屈を駆使できる者が、なぜか弱者の味方となっており、正義の味方となっている。私はあまりに世間知らずでお人好しだった。

 日々の職務では絶えず神経の図太さや鈍感さが求められ、打たれ強さや胆力が試される状況において、人が内省や哲学的思考の時間を持つことは難しい。ここで、改まって職業倫理や正義が問われるならば、それはいつも決まった方向へ走り出す。絵に描いたような高圧的で横柄な言動は、常に優越感や猜疑心と表裏一体だからである。そして、乾いた心の状態で書かれた文章は、やはり乾き切っている。正義はいつも絶対的正義であり、それが正義であるか否かが問われることはない。

 尊大でシニカルな態度が原則である弁護士において、被害者の意見陳述なるものを聞かされることは、虫酸が走るほどの不快な場面なのだと思う。「法廷は被害者が感情をぶつける場所ではない」という公憤は、身の毛がよだつ私憤なしには生じない。また、腕力を競うのが商売の弁護士にとって、「被害者の相手など我々の仕事ではない」という直観は避けがたいのだとも思う。人に頭を下げるのが大嫌いで、人に頭を下げさせるのが大好きな弁護士において、被害者は「感情的に厳罰を求める者」以外の存在ではない。

(フィクションです。続きます。)