犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その15

2013-07-13 23:56:12 | 国家・政治・刑罰

 証拠調べ手続の最後に行われるのは、被告人質問である。以前の事件の際に書いた問答のシナリオを読み返してみると、驚くほどそのまま使える。「申し訳ございません」。「深くお詫びいたします」。極端な話、名前と場所を変えるだけで目鼻がついてしまう。私が全く成長していないのだとしても、これ以上どう成長すればいいのかわからない。

 前回の件のときには、今回と異なり、私は国選弁護人として仕事をしていた。そして、私は業界の常識に逆らい、この件に相当の時間と労力を注ぎ込んでいた。その結果として、何かが得られたという記憶はない。ただ、公判の時間が押してしまい、検察官と裁判官が露骨に迷惑そうな顔をしていたことは覚えている。自動車運転過失致死罪の自白事件などに無駄な時間は費やせないということだ。

 私の昔の力作を改めて眺めてみると、偽善臭が漂うばかりである。「人の生命と死に何らかの意義を持たせたい」「裁判を形だけの儀式にさせない」という野心が鼻につく。「私がこの事件を担当したからには、被害者と加害者の双方にとって、他の弁護士が担当するよりも有意義な裁判にしたい」ということである。何という思い上がりだろう。

 弁護士稼業は、心臓に毛が生えていないと務まらないところがある。気持ちの切り替えの上手さ、メンタルの強さ、過去を引きずらないことなど、スポーツ選手に求められる才能に近いと感じることもある。自動車運転過失致死罪の周辺で生じる無数の繊細な言葉の空間とは、全く異質な世界であると言うしかない。私はいったい何をやってきたのか。

(フィクションです。続きます。)